6.だって君、男に口説かれたことなんてないだろう?
そんな船旅もあっという間に終わりが近づき、明日の午後にはウィノウに入港するという夕方──
あてがわれた船室で、ウィノウの『貴族年鑑』を眺めていたカタリナは、ふと眼を上げた。
小さな丸い窓の外の波が薔薇色を帯びている。
もう夕方が近いようだ。
甲板に上がると、薄雲が少しだけたなびいている空も、きらめく海も、青と紅のグラデーションで彩られている。
雲と波は沈みゆく太陽を照り返して金色に輝き、息を呑むほど壮麗な空が広がる。
中天はまだ空色。
だが、東の空は群青に染まって、刻一刻と夜が近づいている。
ふわふわした気持ちのまま、カタリナは海に沈む夕陽を見ようと船首の方へ行こうとした。
「レディ・カタリナ。今は妃殿下のところに行かない方がいいよ」
日よけの下のベンチで魔導書を読んでいたクルトに止められた。
船首には、すらりとしたシルエットが見える。
ユリアーナが一人、夕陽に向かって立っているようだ。
「どうして?」
クルトの隣に座りながら、カタリナは訊ねた。
「夕暮れ時は、お一人にすることになっているんです。
先の大公閣下と『夕陽が沈むのを見る時は、互いのことを思い出そう』とお約束されたそうで」
傍で、夏用のショールを編んでいた侍女のイルマが説明した。
三十代なかばのイルマは、パレーティオ王国の子爵家の出。
一度嫁いだが子がないまま夫が亡くなり、実家に戻っていたところ、縁あってユリアーナに仕えてもう十年になるという。
「は? 先の大公閣下って、大伯母様の旦那様の?」
「もちろん」
カタリナは戸惑った。
アルブレヒトが亡くなったのは二十年も前。
そもそも三十年前、結婚十二年目にして、ユリアーナは大公国を離れて別居したのだから、婚姻生活はその時点、破綻したのだと思っていた。
だいたい、姑に奪われた子を取り返せなかった時点で、普通は夫を見限るだろう。
といっても、アルブレヒトが亡くなる前、ユリアーナは大公国に一時帰国して死に水をとったのだと祖母が言っていた覚えもあるが。
「ええと、でも大伯母様には……色々あったんじゃ?」
ユリアーナには、夫が生きていた時から愛人の噂があった。
大公国を出た後のことで、相手はいずれも一流の王侯貴族ばかりだが。
クルトが困り顔になった。
「妃殿下にとって、先の大公閣下だけが『特別な人』で、他の方々はなんだろう?
『懐いてくる大型犬』くらいの感覚なんじゃないかな。
少なくとも、私がお会いしたことがある方とはそんな感じだった」
「え。それどういうこと??」
言われていることがよくわからなくて、カタリナはのけぞった。
だが、イルマも頷いている。
内心、カタリナはドン引きした。
ユリアーナが常に喪服をまとっているのは、先代ローデオン大公妃であることを強調するためだと思っていたが、今でも本気で喪に服しているのだろうか。
でも、クルトの口ぶりからして、愛人がいたのも確かなようだ。
どういうことなんだと、頭がぐるぐるする。
「……というかクルト様って、そんなに大伯母様と親しくされているの?」
ユリアーナの愛人と会ったことがある、とかちょっと意味がわからない。
「あれ? 言ってなかったっけ?
私は、トゥーランドで妃殿下に拾われた孤児なんだよ」
トゥーランドというのは北方諸国の小国で、美しいフィヨルドが有名なところだ。
「ちょうど妃殿下が別荘でご静養されていた時に、近くの村で魔獣の群れが出て。
駆けつけた妃殿下が殲滅してくださったんだけど、私の家族は皆喰われていてね。
幼子の私だけが、奇跡的に生き残っていたそうだ。
引き取り手もいなくて、結局、妃殿下が私を育ててくださった」
「え……そうだったの」
平民の出とは聞いていたが、詳しい事情を知らなかったカタリナは言葉に詰まった。
クルトは開いていた本を閉じると、カタリナを落ち着かせるように微笑んでみせた。
整った顔立ちはいかにも怜悧そうだが、そうやって微笑むと、急にふんわりと包まれるような心地になる。
「昔のことだ。親の記憶はまったくないんだし、気にしないでほしい。
で、私に魔力があるとわかると、妃殿下はご自身で魔法の手ほどきをしてくださった。
それでウィノウの魔導学院に入り、卒業後は妃殿下の紹介で『紅の塔』のテレジア猊下の預かりになって、現在に至る、と。
ああそうだ、妃殿下とテレジア猊下は昔っから仲が良いし、君も一度くらい『紅の塔』に行くことになると思う。
もともと砦だったところだから、武骨な造りだけど」
「紅の塔」というのは、聖都ウィノウを護る4つの塔の一つだ。
塔自体が巨大な魔道具となっており、代々、トップクラスの魔導師が塔の主として管理することになっている。
テレジアというのは先代聖帝の皇女で、強大な魔力で知られる大魔導師だ。
「待って。ってことは、もしかしてあなた、次の『紅の塔』の主の候補ってこと!?」
塔の主の座は、「主」が後継者候補達を見習いとして傍に置き、資質を見極めてから指名するならわしだ。
テレジアは、確かユリアーナより少し若いくらい。
そろそろ代替わりのはずだ。
「そうだけど?」
「えええええ!?」
カタリナはぶったまげた。
「道理で、派手な魔法をバカスカ打っても平気なのね……
でも、どうしてそのことをおっしゃらなかったの?
おっしゃっていたら、この間の舞踏会とかめちゃくちゃにモテたでしょうに」
ウィノウの「四塔主」といえば、西大陸の魔導師では最高峰と言っていい立場。
「大聖女」と「聖皇」を護る最後の盾だから、国王と「塔主」が顔をあわせたら、礼をしなければならないのは国王の方だ。
たとえ出自が平民でも、超玉の輿だ。
といっても、名より実をとりたがるカタリナの父のようなタイプだと、平民出身の塔主では権門とのつながりに結びつかないと、娘の嫁入り先に選びたがらないだろうが。
「決まってないことを言っても、仕方ないじゃないか。
第一、もう一人の候補がテレジア猊下の甥なんだ。
彼が次の塔主だろうと見ている者は多い」
他人事のようにクルトは笑うと、肘掛けに頬杖を突いて、カタリナを見上げた。
にいっと、悪い笑みを浮かべる。
「というか、その言い方だと……
もし『紅の塔』を手に入れたら、私のことを婚約者候補として意識してくれるのかな?
だったら、本気で獲りに行くけど」
「ほへはッ!?」
「私はお買い得だよ。
余計な姑や小姑はいないし、家に縛られずに生きていける。
君が船酔いした時は、看病だってしたじゃないか」
「いやいやいやいや……
あんな看病、二度と受けたくありませんわ!」
カタリナはぶるぶると首を横に振った。
クルトの「看病」は「とりあえず吐け、吐くものがなくなったら、水を飲んでまた吐け」という直球すぎるものだったのだ。
「クルト様、カタリナ様をからかってはいけませんよ。
本物の『深窓のご令嬢』なんですから」
見かねたイルマがたしなめる。
「まあね。でも、こんなに男慣れしていないご令嬢が、ウィノウの社交界で無事でいられるのか、いい加減心配になってきたんだ」
「それは……狼のねぐらに子羊を放り込むような所業としか言いようがございませんが」
イルマは、不穏なことを言いながら視線をそらした。
「え? なになに? どういうこと?
わたくし、これでも社交の場で困ったことなんてないのだけれど」
「だって君、男に口説かれたことなんてないだろう?」
クルトは鼻で笑った。
「おおおおお男!? ……に、くくくくく口説かれる!?
そんなこと、あるわけがないじゃないですか!?」
ほらーとクルトは笑い、イルマはため息をつく。
「ランデールでは、君は安全だ。
君の家のことはみんな知っているから、不埒なことを仕掛ける馬鹿はそうそういない。
でも、ウィノウでは違う。
大陸中から集まってくる貴族の子弟の中には、ろくでもないヤツだっている。
甘い言葉をかけてもてあそんで、相手が妊娠したら行方をくらませたり、言葉巧みに騙して駆け落ちして、実家から口止め料をせしめようとする輩だっているんだ」
カタリナは黙り込んだ。
社交界でそういうことがままあることくらい、カタリナだって知っている。
だが、自分の身に起こる可能性なんて、今まで本気で考えたことはなかった。
「だいたい、君は、自分自身の力で、社交界を泳ぎ回れているとでも思っているのか?
親の力に守られ、たらいの中で水をばちゃばちゃさせて、泳いでいる気になっている幼子に過ぎないくせに」
クルトはもう笑っていない。
冷えた怒りが、その瞳に宿っている。
カタリナは小さくため息をついた。
いつの間にか陽はほぼ落ちて、西の空にも星が瞬きはじめている。
「言いたいことはわかったけれど。
随分、意地悪な言い方をするのね」
あえて微笑んで言うと、クルトは視線をそらした。
沈黙がおりる。
「……ごめん。両親や一族に守られている君が、うらやましかったのかもしれない。
妃殿下に引き立てていただいている自分が、ものすごく恵まれていることはわかってる。
でも、親がいないことで、寂しい思い、悔しい思いをしたことがないわけじゃない」
「……クルト」
不意に、宵闇からユリアーナが現れて、クルトの肩に触れた。
振り返ったクルトが、困ったような笑みを浮かべて、自分の肩に置かれたユリアーナの手を握る。
「すみません、妃殿下。
どうにもならない愚痴を、つい」
ユリアーナは、慈母のような微笑みを返した。
「いいのよ。そろそろ夕食にしましょう」