44.ご覧になるのなら
サン・ラザール公爵令嬢が人前で取り乱すわけにはいかない。
咄嗟に、カタリナはローランの死に顔から眼をそらした。
さっきまで、生きて、動いて、リリーと言い争っていたローランが死んでいる。
カタリナとローランが言葉を交わしたのは、ほんのわずか。
一方的に言い寄ってくる、とにかく迷惑な男性という認識でしかなかったが、それでも衝撃は大きかった。
現実感がどこかに吹き飛んでいる。
悪い夢を見ているようだ。
「ローラン!!」
ラウルが叫んで、ローランの元に駆け寄った。
動揺しながらも、首元で脈を確かめ、鼻先に手のひらをあてがう。
「ダメだ。もう冷たくなりはじめてる」
ラウルは後ずさりして皆の方を振り返った。
くらっとその身体がバランスを崩し、クルトが慌てて支える。
ラウルはクルトともつれあうようになりながら、廊下側の壁際に置かれた長櫃の上に腰を降ろした。
手で顔を覆い、深くうなだれたラウルに、クルトが小声で「外に出た方がいい」と勧めるが、首を横に振っている。
代わって、医学校を休学中のダーリオがローランの遺体に近づいた。
まず死亡確認をし、そして下瞼を軽くめくったり、シャツの胸元に顔を寄せて観察している。
「ローランは夕方、ひどく顔色が悪くて、様子がおかしかった。
もしかして、リリーが帰った後、急性魔力障害を起こしたのかしら?」
「いえ、違います。
魔力障害で死亡したなら、肌は青ざめて真っ白になる。
この顔色は、まず窒息死を疑うところかと」
青ざめたユリアーナに、ダーリオは丸眼鏡をくいっと持ち上げながら答えた。
「「「「窒息死!?」」」」
ラウル以外、全員がオウムのように繰り返した。
「なしてそないなことに??」
「わかりません。
喉のあたりに跡がないので、絞殺や扼殺ではないはずですが。
それ以上のことは、法医学は概論しか学んでいない私ではわかりません。
警察を呼びましょう」
「なりません!」
ユリアーナが叫んだ。
「ウィノウの司法は、魔力も才覚も劣る者の吹き溜まり。
まともな捜査をする能力もなく、目をつけた相手を拷問で自白させて、裁判所も訴状を丸呑みして判決を出すだけです。
今の状況では、十中八九、クルトが犯人ということになる。
クルトは平民の生まれですから、聖皇魔導団を除名されれば、『貴族殺しの平民』扱いになってしまう。
ウィノウの法では火炙りです」
険しい顔でユリアーナは早口に説明した。
確かに、外部の者から見れば、クルトとローランは「次の塔主の座を争うライバル」だ。
ローランを殺した罪を被せる相手を探すなら──
皇女であるテレジアとヴェロニカは論外として、バルトロメオやダーリオ、ユリアーナ、カタリナ、ジュスティーヌも外交的配慮が必要。
ラウルは平民扱いとはいえ、聖皇の甥で、被害者の兄。
クルトが、被疑者として圧倒的に都合が良い。
こういう場合、イルマやリーゼなどの侍女、下働きなども犯人役として狙われやすいが、平民の出でありがなら塔主候補となったクルトを引きずり下ろしたがる者はたくさんいるはず。
突出した魔力を持てなかったが故にくすぶっている者にとっては、クルトをいたぶることは最高の娯楽になるだろう。
ユリアーナは聖皇と良好な?関係を保っているが、クルトの安全を確保できるとは限らない。
ヴェロニカが、ためらいがちに口を開いた。
「ユリアーナ様のお言葉、残念ながら否定することはできませんが……でも」
「明朝、『ローランは急性の魔力障害で亡くなった』と必ず診断書に書いてくれる医者を連れてきます。
それまで、外に知らせることはわたくしが許しません」
ユリアーナはヴェロニカを遮り、皆を睨みつける。
許さないと言われても、ユリアーナにそんな権限はないのだが、皆、気圧されて押し黙った。
「しかし、それではローランが浮かばれない!」
ユリアーナに抗ったのは、クルトだった。
「妃殿下。私のことを心配してくださってありがとうございます。
ですが、ローランは、兄弟同然の大切な友人なんです!
誰かがローランを殺したのなら、私はその者に法の裁きを受けさせたい」
「だから、その法がこの国では機能していないと言っているの!
司直に介入させることは、絶対に許しません!」
ユリアーナがクルトに食って掛かるのを、バルトロメオが間に入ってまぁまぁまぁまぁと雑に宥めて、ユリアーナを窓際の書き物机の前まで押しやって、椅子に座らせた。
「ええと、そもそもローランはん、殺されはったちゅうことなん?
なんや、胸のあたりに血ぃついてるから、ぱっと見た時はてっきり刺されたかなんかしたんか思うたけど、窒息死ちゅうのはどういうことね」
「いやだから、私の法医学の知識は素人に毛が生えたようなもので。
ただ外傷で亡くなったのなら、もっと出血してるはずです。
あ? 場所が胸だし、肺に内出血して息ができなくなったということもありえるか。
血泡を噴いていれば、そっちかも……」
ダーリオは、ローランの唇を少し開いて口の中を観察し、首を横に振ると、ローランのシャツのボタンを外し、血の染みがついた左側をそっとめくり始めた。
すすす、とジュスティーヌがソファに寄る。
カタリナも、ジュスティーヌの右肩越しに、ローランの顔は見ないようにして覗き込んでみた。
ジュスティーヌの左肩越しにクルトも覗き込んでくる。
胸の下、薄い肋のあたりに長さ2、3センチくらいの傷があった。
傷のまわりは、シャツの染みと同じく、手のひらくらいの範囲で血で汚れている。
カタリナ達の視線に気づいて、ダーリオが顔を上げ、眉を顰めた。
「令嬢がご覧になるものではありせんが、ご覧になるのなら、ピンを一本ください」
「どうぞ」
ジュスティーヌがすっと髪からピンを抜いて差し出した。
「それなりには出血しているけど、たいした傷でもなさそうだ」
呟きながら、傷の周辺を抑えて、ピンを傷口に差し入れる。
「浅い。肋骨の上で止まっている。
こんな傷で死ぬわけがない」
ふぬぬぬぬとうなりながら、ダーリオはピンク色の髪をがしがしと掻いた。
「ラウル先生。この部屋にいらした時、ローラン様はどんなご様子だったんですか?」
カタリナは、振り返ってラウルにそっと訊ねた。
「……ローランもリリーも一応落ち着いていた。
少し時間を空けて、明後日、また話し合おうということになって。
ローランは、怪我なんてしていなかった」
うめくような声が返ってくる。
「じゃ、その後に怪我をされたと。
あ? そもそも、なにで怪我をされたのかしら。
部屋にあるものだと、ナイフとか、ハサミとか?」
カタリナが呟くと、ダーリオはもう一度傷を凝視した。
「傷は短いし、どうも切りつけたんじゃなくて、突いたようにも見えるんですよね。
でもハサミじゃ幅が足りない。ナイフかな」
ジュスティーヌが、床の上を見回し始めた。
カタリナもクルトも見回すが、それらしいものは落ちていない。
書き物机に座らされていたユリアーナが、仏頂面のまま引き出しをあちこち開け、ペンスタンドも漁った。
「こっちには、ペーパーナイフとハサミがあるわ。
鉛筆やペン先を削る折り畳みナイフもあるけれど、どれも血の跡や曇りはないわね」
念の為、ハンカチの端でつまむようにナイフを開きながら、ユリアーナは言った。
近年、指紋が一人ひとり異なっていると知られるようになり、国によっては犯罪捜査でも用いられるようになっている。




