9.だだだ、誰だ、貴様!?
無事、船は入港した。
一週間ぶりの大地を、カタリナは慎重に踏みしめた。
揺れないし、傾ぎもしないせいで、逆に足元がふわふわする感覚がある。
不思議なのは、船上と日差しの強さは変わらないのに、上陸した途端、一気に暑くなったこと。
陸でも海風は吹いているのにと、カタリナは訝しみつつ、はたはたと扇で自分を扇いだ。
クルトは、まずは魔導団に帰還の報告をしなければならないとかで、さっさと辻馬車で去っていった。
カタリナとユリアーナは税関の貴賓室で軽く休憩し、迎えの馬車に乗る。
大公国を出たユリアーナがウィノウに移ったのは、持参金の一部として、サン・ラザール家所有のパラッツォが引き渡され、それがユリアーナ個人の名義になっていたから。
ローデオン大公国とサン・ラザール公爵家はいくつか合弁事業を立ち上げていたから、下手に実家に戻ると、逆に婚家からの干渉を受けてしまうと判断したユリアーナはウィノウに逃げたのだ。
娘たちを嫁がせてからは、独り身には大きすぎるパラッツォは人に貸し、新市街にある自分好みの館に住んでいるとのことで、ローデオン大公国の紋章をつけた馬車は旧市街の喧騒を抜けていく。
行き交う人々は南方人の特徴である浅黒い肌に黒髪の者がやや多いが、西大陸全体から人が集まる街だけあって、金髪、赤毛、銀髪など髪の色も肌の色も色とりどりだ。
老いも若きも、女性達は皆、ウィノウ風のドレスをまとっている。
頼りないと思ったウィノウ風のドレスだが、この暑さでは、確かに母国のようなドレスはきつい。
貴婦人と思しき人たちは、大きな日傘を侍女に差させている者が多かった。
そのまま馬車は東ドーナ川の橋を渡り、丘の中腹へと向かう。
このあたりは、引退した皇族の住まいが多いとかで、衛兵の検問所も何箇所かあった。
「まあ、素敵な館!」
大きな邸宅が立ち並ぶ道を上り、赤い大きな花が咲き乱れる花樹に囲まれた白亜の二階建ての館の全貌が見えてきた瞬間、カタリナは感嘆の声を上げた。
いかにも貴婦人の隠居所といった風情の、瀟洒な2階建ての建物だ。
中央部は円形に張り出していて、1階はポーチ、2階はバルコニーになっている。
ポーチとバルコニーをつなぐ列柱も、なかほどを膨らませて縦溝を彫り、柱頭には花を象った彫刻を入れた古典様式風にデザインされている。
前庭に芝生を広く取り、車寄せや玄関などごちゃごちゃしがちな部分は館の裏に設けているようだ。
バルコニーは西向き。
一目で、ウィノウの町並みと海の眺め、そして夕陽を存分に楽しむための造りだとわかる。
「でしょう? ボアンヴィルの設計なのよ。
見た瞬間、絶対にここが欲しいと思って。
買うまで大変だったけれど、その価値は十分あったわ」
ユリアーナは渾身のドヤ顔だ。
ボアンヴィルというのは、古典様式を再解釈して美しい館をいくつも設計した名建築家。
弟子や孫弟子による「ボアンヴィル風」の建物は数多くあるが、本人の作品、しかもこの好立地となると金を積めば買えるというものではない。
例の「崇拝者」達がどうにかしてくれたのだろう。
車寄せには、家宰以下、使用人が十数名待っていた。
出迎えの挨拶を述べる家宰に、ユリアーナは鷹揚に頷いてみせると、カタリナを皆に軽く紹介し、中に入る。
玄関を抜けたすぐが、広々としたサロン。
舞踏会を開くには手狭だが、客数を絞ったサロン・コンサートくらいなら開けそう。
精巧な草花文様の象嵌細工を施されたアップライト・ピアノとハーフサイズの金色のハープもあった。
右手はダイニングだが、左手は書斎だから勝手に入るなとざっくり説明すると、ユリアーナは侍女の一人にカタリナの世話をするように命じ、自分は家宰を連れて書斎へ向かった。
ユリアーナは2ヶ月近く、ウィノウを空けていたのだから、相当手紙や書類が溜まっていそうだ。
カタリナは二階に案内された。
バルコニーのある真ん中がユリアーナの私室、左右に客室が並ぶ造りのようだ。
カタリナの感覚からしても広めの、窓枠や灯の造作までいちいち典雅な客室には、天蓋付きの寝台と大きなドレッサー、窓際に肘掛け椅子とティーテーブル、クローゼットにバスルームと一通り揃っている。
侍女に説明してもらっていると、遅れて荷物が届けられた。
ドレスを吊るしたまま運べる船旅用のトランクや、手回りの品を詰めた旅行鞄などなどを従僕達が運び込んでくれ、どこになにをどうしまうか、侍女に指示して片付けていく。
とりあえず落ち着いたところでお茶を淹れてもらい、侍女を下がらせて、やや霞んで見える大神殿を眺めながら一息ついた。
聖都ウィノウの人口は百万人ほど。
夏のまばゆい陽光に輝く白の都の喧騒は、しんと静まり返ったこの館まで届かない。
左手には港、それから東ドーナ川の川岸に屹立する「紅の塔」の威容も見える。
真上から見ると、五芒星のようなかたちをしているとかで、角の部分が大きく張り出している。
外壁には銃眼のような細いスリットがあるだけで、窓やバルコニーの類がないので、まるで岩の塊のように見える。
もとは砦だったと聞いたが、確かに武骨な雰囲気があった。
それにしても暇だ。
茶を飲み終えると、カタリナはのそっと立ち上がり、庭でも見てみようと階下に降りた。
「だだだ、誰だ、貴様!?」
サロンに入ろうとしたところで、中にいた赤毛の少年に誰何された。
年はカタリナより少し下か。
背はカタリナと変わらないぐらい。
まだ幼顔が残る童顔で、そばかすが頬に散っている。
ジャケットは着ていないが、艶のある白麻のシャツに、生成りのトラウザーズを穿いているし、執事や従僕ではない。




