プロローグ:聖都ウィノウ・紅の塔
真夏の夜。
聖都ウィノウの東端、かつてこの都が要塞都市だった昔からそびえ立つ「紅の塔」。
その客室棟の二階にある私室の扉を開いた瞬間、犯人は立ち尽くした。
ローランが、床の上でくの字になってうめき声を上げている。
「リリーにやられた。助けてくれ」
ローランの顔は歪み、脂汗まみれだ。
慌てて犯人はローランを助け起こした。
左脇を抑えているハンカチは、血に染まっている。
だが、そこまで深い傷でもないようだ。
肋骨で刃が止まったのだろう。
やたら痛がっているのは、衝撃で骨にひびくらい入ったのかもしれない。
「やられた?」
「本気でカタリナと結婚するつもりだと言ったら、ナイフを構えて突っ込んできやがった。
で、振り払ったら倒れた」
ローランは犯人からは死角になっていたドアの脇を指した。
船旅用の長櫃の近くに、ブランシュ伯爵家の令嬢リリーが、長い黒髪を乱してうつ伏せに倒れている。
振り払われたはずみに、金具で強化された長櫃の角に頭でもぶつけたのかと犯人は息を引いた。
慌てて駆け寄り、ローランに背を向けてしゃがみこむと、呼びかけながらそっと頭を調べる。
6年前、15歳の時にローランはブランシュ伯爵の長女リリーと婚約した。
ローランの父は先代聖帝の第19皇子。
本来は、ローランも傍系皇族として扱われるべき生まれだ。
だが、ローランの父は、白内障の研究と治療が趣味という変わり者。
生母の身分が低かったこともあり、臣籍降下して名ばかりの一代伯爵となり、師の娘を娶ると、ウィノウ近郊で眼科医を開業した。
おかげで、高貴な血を引いているのに平民同然の環境で育てられる羽目になった子供たちに同情したのが、先代聖帝の第2皇女、つまりローランの父の異母姉であるテレジア。
皇族の中でも際立って強い魔力を持ち、特に火魔法に長けていることから、「紅の塔主」を務めている。
未婚のテレジアは、なにかにつけて子供たちを「紅の塔」に招いて可愛がり、そのうちローランはテレジアの乳兄弟の孫で、テレジアの名付け子でもあるリリーと婚約することになった。
ローランと同い年のリリーは三人姉妹の長女。
テレジアに孫同然に眼をかけられていて、ローランとは幼馴染だ。
資産に余裕のある伯爵家の跡取り娘だから、ローランが婿に入ってブランシュ家を継げば、さきざき家族を支えられるだろうと考えたテレジアの配慮だった。
だが、次第に雲行きは怪しくなった。
ローランの魔力が、10代も末になってから急激に伸び始めたのだ。
春に「紅の塔」の候補者の試験である魔導パズルを解いたと認められ、その後、初級古代魔法の発動に力技で成功し、一躍「紅の塔」の後継者候補となった。
「紅の塔」とは、大聖女猊下がおわす大神殿を守る4つの塔の一つ。
その主となれば、どのような生まれであっても有力皇族同等の扱いとなる。
他にも候補はいるが、下馬評では聖皇家の血を引くローランが圧倒的に有利。
もはやブランシュ伯爵家の力は必要ない。
もともと、リリー達伯爵家側がローランに高圧的に接していたこともあって、幼馴染の婚約者二人の間には、秋風が吹き始めた。
そこに現れたのが、「見聞を広めるために」──要は結婚相手を探しにランデール王国からウィノウにやってきた、サン・ラザール公爵令嬢カタリナである。
金髪碧眼、誰もが二度見するほど美しい17歳の令嬢だ。
ダンスも社交も得意な上、からりとした物怖じしない性格であっという間に人気者になった。
サン・ラザール公爵家は、魔石と魔導鉱の大鉱山を持つ裕福な家で、カタリナを連れてきた大伯母・先代ローデオン大公妃ユリアーナも、奔放な言動で毀誉褒貶はあるが西大陸社交界の有力者。
当人が魅力的な上、金もコネも揃っている。
結婚相手が決まっていない貴公子達は、彼女の気を引こうと皆必死だ。
ローランも、リリーという婚約者がいるくせに、なんとか親しくなろうとカタリナにまとわりついていたのだが──
「しかし助かった。
こうなったからには、リリーと結婚しろとは伯母上も言わないだろう。
ブランシュ家の資産は惜しいが、カタリナが手に入れば問題ない。
紅の塔主に嫁ぐとなれば、サン・ラザール公爵家は持参金をたんまりもたせるはずだ」
あくまで軽薄にローランは嗤う。
眼の前が、怒りで真っ赤になった。
誰も気づいていないだろうが、犯人はカタリナに恋していた。
輝く黄金の髪。
整った顔立ちに、しなやかな身体。
大笑いしても、不機嫌そうな顔をしていても、若さをそのまま迸らせるように激しく踊っていても、芯からにじみ出る優美さ。
そして、初めて眼が合った瞬間、こちらの魂の底の底まで射抜いて、かすかに微笑んだ深い蒼の瞳。
最初から、恋を告げることすらできない相手だと、重々わかっている。
だからこそ秘めた恋の炎は、身を灼くほどに激しい。
なのに、この男が、見栄えのよい金づるとしてしかカタリナを見ていない男が、しゃあしゃあと彼女を娶ろうとしている。
ブランシュ伯爵家にはあれこれ援助もしてもらっていたのに、自分の出世の目処が立った途端、リリーを弊履のように捨てるつもりの男だ。
もしカタリナが苦境に陥れば、彼女も見捨てるに決まっている。
だが、サン・ラザール公爵家から見て、ローランには娘の結婚相手として好ましい条件が揃っている。
リリーがやらかした以上、婚約は「なかったこと」になるだろう。
そうなってしまえば、カタリナの大伯母・ユリアーナはテレジアの親友でもあるし、ローランの求婚は受け入れられる可能性が高い。
思わず拳を握った犯人は、リリーのそばに両刃の小さなナイフが転がっているのに気づいた。
拾い上げて見ると、柄の根元に濁った小さな魔石が嵌めこまれている。
魔石のまわりに刻まれた魔法陣は、水属性の魔力を流すと猛毒が生成されるもののようだ。
刃の中央には溝が掘られていて、わずかに血で汚れている。
要は毒で刃を染め、敵に投げつける暗器。
これでローランが刺されたのか。
魔石が濁っているということは起動済み。
しかし、ローランに毒が回っている様子はまったくない。
起動したのはもっと前のことで、空気に触れた毒は既に分解されていたのだろう。
ということは──
このナイフをどこでリリーが手に入れたのか思い当たった瞬間、犯人の脳裏に、ローランを殺し、リリーを犯人に仕立てあげる計画が一瞬で閃いた。
いや、待て。
それだけでは足りない。
もっと巧くやれば、カタリナにまとわりついている他の男達に疑いを撒き散らし、彼らも排除できる。
この館の構造と部屋割り。
館に滞在している者達の思惑と動向。
深夜に行われる儀式。
やれる。
今ならローランの暴挙を止められる。
余計な犠牲は出るが、カタリナの未来を守るためだ。
やるしかない。
やり通すしかない。
カタリナをこの手で幸せにすることは叶わない。
だからこそ、彼女のためにできることがあるなら、なんだってやってやる。
どんなことでも。
「世迷言を。
リリーは死んでいる。
お前が殺したんだ」
犯人はローランの方に振り返り、押し殺した声で告げた。
「なんだって!?」
慌ててローランが跳ね起きようとして、顔をしかめる。
「とにかく死体をどうにかしよう。
このままじゃ、塔主どころか監獄行きだ」
犯人は立ち上がると、ローランを冷えた眼で見下ろした。
ご高覧ありがとうございます。
癖つよな上、事情により1日4回更新ですが、なにとぞよろしくお願いいたします!