1993年5月和泉葛城山
山の会例会は2000年神奈川県に転勤になるまで、年に4〜5回は参加していたはずなのに、その山行きの記載はほとんど無い。
23日本日、山の会例会で和泉葛城山へ行く。登り口と下山口それぞれになかなか奥ゆかしい古寺があり、良い。なのに行程途中の道はハイウェイを1/3がた歩く為、今一つのムード。大和葛城山の方が歩くのには良いと言える。
それにしても、この頃の例会は今ひとつ歩くのが少ないような。山上の食を愉しむ風潮のせいでか、ハードさが無くなっているような気がする。
緑が美しい。木々の種類によって、葉っぱの有り様、色の具合がとりどりに違い、その彩なす一面の緑のタペストリーは自然の手になる大いなる芸術と言えよう。新緑も過ぎて今が盛りと青葉が成長して繁り、色が一段と濃くなるその有り様を観ているととても不可思議な思いが湧いてくる。一つの葉にも人生と同じく幼少期から少年期、成年期、壮年期、老年期があるように思えるのだ。今この時少年から成年になりつつあるところで、初々しさを残す緑の美しさが見てとれる。これが夏ともなると緑は大層濃くなり、これ以上ないというくらいになる。この辺りが壮年期か。やがて秋も深まり、赤や黄色に染まる頃が老年期。死となる落葉の前の最後の命の輝き。
山は今緑が目に鮮やかで美しい。そして所々に野生の藤が薄い藤色の花をたわわに咲かせ、上品な彩りを添えている。梅、桜、藤と季節の花は続くが、この後は何が続くのか。少し離れて紫陽花になるけれど、その間の花。
レオ・バスカーリアの葉っぱのフレディ―という絵本のことを思い出した。ネットで検索すると1988年に日本でも出版されたとあったけれど、この日記を書いた頃には読んでいたのかなぁ?読んでいたらもう少し違う書き方をしていたと思うけど、どうだろうか。