1996年7月白山から白川郷へ
24日〜28日まで、久しぶりに長い休みを取って白山から白川郷へと歩いてきた。とても良い天気に恵まれ、沢山の思い出が出来た。しかし、白川郷へはユネスコ世界文化遺産に指定される前に行っておきたかったな。
23日前日仕事終了後に移動し、名古屋泊。
24日名古屋8:05発バスに乗り、平瀬12:50着。初めて見る土地の車窓は飽きないが、さすがに長かった。ここから本当の登山口大白川まで歩いて行く。登山口までの道のりを2/3は歩いた頃か…。大白川沿いにアスファルトの車道をてくてく歩いていると、ダンプが横に止まる。運転手さんのどこまでいくん?という問いに、白山に登る予定と返答する。なら、大白川まで乗っけていってやると言われる。断るのも不粋なので、乗っけてもらうことにする。今まで歩いてきた時間を思うとあっという間に着いてしまう。運転手さんにお礼を言って別れる。17時頃だったか。予定では登山口辺りでテント泊のつもりだったけれど、早く着いてまだ日は高い。道はしっかりして迷いようがなさそうだ。あと3時間避難小屋まで歩けるか?女も度胸!で歩くことにする。途中、日も暮れて月あかりの下、サクサクと歩く愉しさ。月だけでなく、満天の星空でもある。避難小屋の少し手前に残雪がまだ残っていて、その上をそっと歩くこと20mくらい。暗がりに雪の白さが際立つ。避難小屋20時頃到着。小屋には誰もいない。
簡単な食事を取り、寝袋を開げる。そろそろ寝ようかと思う頃、扉が開いて20代半ばくらいの男性が2人入ってくる。挨拶をして、いろいろ話をする。彼等曰く、登山口で泊まる予定だったが、あまりに天気が良いので室堂まで登ってしまうことにしたらしい。私も、ここまで登ったし、その気持ち分かる。しばしの休憩の後、男性2人組は元気よく扉を出て行った。今度こそろうそくの灯を消して眠る。
25日早朝3時半起き。かんたんな携帯食を朝ご飯にして、4時過ぎに小屋を出発。まだ薄闇の中、道を辿る。きつい登りに取り掛かる頃、明けの光が差し込んでくる。高山植物の続く道。6時頃室堂到着。祈祷殿が御前峰を見上げるように建てられている。ここでお参りついでにひと息入れる。
白山頂上に到着は8時前。白山奥宮にお参りし、無事の到着を告げる。しばし後、翠ケ池方面へ下る。雪溶けののどかな光景が良い。10時半頃、雪が溶けたらお花畑になるだろう所に着く。一面の雪渓だ。積もった雪からの照り返しがきつい。もう少し下ると、一面のお花畑に変わる。標高が高い夏山ならではの特典だ。
本日宿泊先、ゴマ平避難小屋へ向かって中宮道を歩く。北へ伸びる道は通る人も少ないようで、のんびりと一人歩きを楽しむ。しかし…、稜線上の道はうねうねと長く、どれだけ歩いても先がある。暑いのとで、そろそろウンザリ気分だ。雪溶けと、春と夏が一緒くたなのに、何故か赤とんぼがスイスイ飛んでいる。池塘にヤゴが住まうのか?
ゴマ平避難小屋へもう直といった下りで、山道整備のおじさん達に会い、挨拶をする。14時半頃か。この辺りでノウゴウイチゴの赤い実を見つける。二粒とって食べたが、まさに苺の味。どうしてそこに生えていたか不明だ。他にも生えているかと、目を皿のようにして探したけれど見つからなかった。残念。
今一度ゆるゆるとした登りを上り詰め、てこてこ下ると存外近い所に避難小屋はあった。前日の避難小屋はかなり立派だったけれど、ゴマ平避難小屋はもひとつ小さい。しかも、今日は先程往きあった山道整備のおじさん達も泊まると聞いている。1階の床にそれらしき荷物がまとまって置いてある。15時半頃なので、おじさん達が戻ってくるには未だ早い。誰もいないので水場で顔を洗い、汗まみれの全身を拭き清める。昼とも夕食ともつかぬ食事を済ませて荷物の整理をすると17時になる。朝が早く体もくったりしているので、2階によじ登りおじさん達が帰ってくるまで一寝入りする。
ガヤガヤする音で目が覚める。19時だ。ぼけっとしていると、「おーい、酒を飲もう」と下から声が掛かる。断わる理由もなく、のこのこ下りていく。まずはビールを一杯。次いで、日本酒。鬼ころし。どこから来ただのと聞かれて返事をしつつ、おじさん6人の会話を聞いていると3〜4日前からこのゴマ平小屋に泊まり込んで山道の整備をしているらしい。毎年今頃、特別手配で仕事を頼まれるそうだが、キツクて割りに合わん、とのこと。おまけに皆のいびきと歯軋りの大合唱で寝られたもんでなし。とにかく、酒呑んで酔っ払って早よ寝たもん勝ちらしい。宴会はさほど長く続かず、20時頃にはお開きになる。呑め呑めと勧められて、結局2合ほど冷酒を呑んでしまい、酔った勢いであっと言う間に寝てしまった。だからいびきの大合唱は知らない。
26日早朝3時半に目が覚める。暗い中、寝袋を撤収してそっと外へ出る。明るい夜明けには程遠いけれど、星々は朝の微かな気配の中、光を失いつつある。すぐそこの分岐から北縦走路へ入ると、道が結構荒れていて足の置き場に困る。ズルズルに濡れた岩が続いたりするので、懐中電灯無しでも歩けるようになるまで小休止。待つこと30分程。夜明けの光の中で見ると、道らしい道が崩れて無くなっている。先の困難を思いつつ歩き始める。幸いなことに、おじさん達が笹やら下草を刈った後なので道を迷うことなく辿れる。刈っていなかったら極めつけの藪漕ぎを幾度かしないといけなかっただろう。6時頃第一通過地点へ下りきる。渓流の側で朝ご飯を取る。イタチ(オコジョ?)がひょこりと顔を出し、あっと言う間に消えてしまう。残念。痺れるような冷たい水でペットボトルを一杯にし、タオルを濡らす。そうして今度は登りへの道を辿る。
この日の道のりは登っては下り、また登っては下る…という繰り返しで標高1800mの辺りを上下していた。高さが高さなもので今ひとつ迫力に欠けるが、振り返るといつも白山の頂きが見えた。だらだら道の割にちょこちょこおもしろいものがあったっけ。1500mくらいのところに残雪。花畑?ウグイスの声。蛇。尾瀬のミニチュア版池塘。いやあ、こういうのいいよね。
11時頃か、2人連れの40〜50代くらいの女性が向い側から歩いてくるのに出会した。挨拶の後聞けば、スーパー林道の方から歩いて来たとのこと。話をしつつあの二人今夜はゴマ平小屋か…、おじさん達何て言うかな?と考える。
スーパー林道三方岩岳方面と馬狩方面の分岐に13時頃到着。ここまではコースタイム通り。馬狩方面の鶴平新道に入る。ここからが大変だった。下に続く急な尾根道を眺め、ぞっとする。時間はだいぶゆとりがあるからゆっくり…と思いながら下り始める。しかし、本当にきつい下りだった。テントなどの余分な荷物が無ければ、そうでもなかったろうが、とにかくガレ場でおまけに左右は切り立ってよろけたら即転落死という尾根道を5、6回繰り返すと、体力気力共に消耗する。とにかくとにかく、そろそろと、恐る恐る下る。痛むつま先とふくらはぎに悩みつつようやく下山したのは16時頃か。そこは少し前までは人家もあり田畑も耕されていただろう場所だったが今やススキの茂り放題。過疎という言葉がまざまざと頭の中に浮かぶ。少し歩いた先には「祝○○新田用水路開通」という記念碑があり、日付けは昭和になっていた。周り一帯もはや人家は無く人の背丈より大きいススキが風に揺れてさわさわと音を立てるのみ。歩いていて見つけた建物は二つ。一つは芸術家らしい人のセカンドハウス(外見から)。もう一つは廃校になった小学校。こちらは元住民の方が手入れされているのか、廃墟特有の荒れ具合が見られない。すぐにでも使えそうな感じがする。
十字路まで来ると、なんと喫茶店があり珈琲が飲めそうだ。ラッキー!といそいそ入っていくと、客は私一人で、暇なのかお店の女性二人がいろいろ話かけてくる。暇ついでに今夜の宿を探してくれると言うので、出来れば合掌造りをと希望する。待つことしばし。ありがたいことに、萩町の中央から少し離れた高台にある民宿に部屋の空きがあるとのこと。店に方にお礼を言ってスーパー林道を下り、またほたほたと白川郷へと歩くこと小一時間。萩町わ上からちょうど良く眺められる所までくる。マッチ箱のようにかわゆらしい。それを横目に最後の気力で歩く。萩町の中心部に17時到着。
本日の宿に行く前に食べ切ってしまった食料を買い込むべく店を探す。折よくJAがある。ひだ牛乳にひだヨーグルト、ハウスみかん、etc…。水物ばかり食料を買い込む。牛乳を飲みながら宿へと足を進める。その道は天生峠へと通じる道だった。泉鏡花の高野聖の世界だ!この道の先に、ひるがうじゃうじゃいる森があり、どうと音のする滝があるに違いないと想像するのはとても愉しい。おまけになんとも鄙びた道のりで、幸せだ。荻町中央から天生峠方面へ少し登った所にある合掌造りの民宿が今日の宿泊地になる。なんとも懐かしい縁側があり、まだ小さい柴犬が元気に跳ね回っている。
未だ日が沈むには早いこの一時縁側で涼む。今日の下りの苦闘を思うと天国だ。晩ご飯は囲炉裏側でいただく。料理旅館の献立とは違ったご馳走が食べても食べても減らない。
お蕎麦、岩魚の塩焼き、豚と豆腐の味噌ダレ包み焼き、お澄まし、冷奴、とろろ短冊、山菜の炊き合わせ、その他諸々。たいそう美味でありました。特に岩魚の塩焼きと豆腐。この日私以外に、60〜70代の熟年ご夫婦が投宿されていたが、高山の高名な旅館よりずっと美味しいと話されていた。
27日朝6時頃から散歩。やはり農家の方は早い。もう畑へ田んぼへ出かけ、精出して働いている。これに比べると、都会人って軟弱に見えるなぁ。本日テントを張れそうなところをチェックしつつ辺りを眺め下ろす。朝ご飯も豪華。そして美味。ああ、それなのに宿代は7000円。なんと安いことか。感謝をしつつ辞す。そうしてのんびりと萩町へと下りて行く。近づくにつれ、観光客が増えていく。やはり世界文化遺産指定は偉大だ。それにしても懐かしい。育った集落も昔はこんなだったと思いつつ歩く。
9時頃白川八幡神社に詣でる。境内で沢山の人が何やら忙しげにしている。近づいて観てみると、なんとまあ、祭りの衣装の土用の虫干し中だった。取りまとめ役のおじさんに、ジュース奢るから暇だったら手伝ってと声を掛けられる。好奇心から手伝うことにする。聞けば、10月のどぶろく祭りの衣装だそうな。幟もある。色とりどりの布きれを開げ、お堂からは能面やら何やら出てくる。お堂左手には神輿、右手には色も鮮やかな道教の神めいた仏様が祀られている。その昔、神仏習合の頃の典型的な配置だそうな。白川郷は都会から遥かに離れていた為、神仏分離令も行き届かなかったらしい。じりじりと暑くなる中、いろいろ話を聞きつつあれこれ手伝う。ちゃっかりお昼ごはんとどぶろくをご馳走になった。どぶろくは祭り以外は地元民だけが祝い事などあった際、いただくありがたいお酒だという。今日は特別だ、次はどぶろく祭りにおいでなさいとも言われた。いっとう最後に記念の扇をいただく。何かのお祝いに記念として作られたものだ。しっかりとした作りで、表側は金を散らし、裏側左隅に「昭和三十六年秋 昇格記念 白川八幡社」とある。いつかこの扇を持ってもう一度訪えると良いのだけれど。
14時頃にはたいがい片づいたので、名残惜しいがお礼を言って出る。
あちこち観て廻った中で印象的だったのは焔仁氏の合掌造り美術館の2階展示室。白川郷という土地柄から妙に浮いている作風だが、あれだけインパクトのあるものに出会えたのは久しぶりだ。聖は性にして生なり。誰だかの文章にこんなふうなのがあったっけ。青霧が一番凄いと思う。蒼い山谷を地獄からふと訪うた三人の乙女が無心に見つめる…。赫き空に乙女の蒼白い肌は生々しく、美しい顔と姿を眺めるにつけ地獄に堕ちた天女はかくあらんと想う。
合掌造りの家々がある場所から北へ歩いて行く。極普通の人家が増え、左手は山、右手は川という狭い平地を歩く。夕方が近づくにつれ、本日の宿泊場所を決めないとと思い焦るが小学校の校庭は火を使うからと断られる。ただ、この先に道の駅があり、そのすぐ側の川原だと大丈夫だと教えてもらう。すでに夕闇が降りつつある中、よたよた歩く。良さそうな場所を探しテントを設営。道の駅のトイレで洗濯までした後、落ち着いて食事の用意を始める。月が煌々と明るく、テント泊にはもってこいの夜だ。濃くなってゆく闇と月光に包まれながら一日を振り返る。食事を始めた頃、若い男女4人連れがやってきて、騒がしく花火をパンパン上げ始める。内の一人が一緒に花火をしましょうと声を掛けてくる。そんな騒がしいのはごめん被りたく、食事を続ける。断りの声を掛けようか迷っていると、なぜか相手方はムサイおじさんと思ったらしく、そんな内容のヒソヒソ話が聞こえてくる。静かに月と星を眺めていたかったので、それで良しと何も声を掛けないでおく。21時頃には眠ってしまったと思う。
27日今日で旅も最後だ。富山まで出て夜行バスに乗らねばならぬ。朝一番のバスに乗るべく5時半に起床しテント撤収。今日も良い天気だ。辺りをぶらり歩き7時過ぎの高岡行きバスに乗車する。もう一つの合掌造りの集落菅沼で下車。8時頃だったか?サクッと側道経由で五箇山まで歩く。五箇山をさらりと見学。そこからまた側道をてろてろ歩く。主道の方は車が結構通るが側道はちっとも通らない。平まで計2時間ほど歩いたけれど、2台しか通らなかった。庄川は水量豊かで見ているだけで涼しげだ。
平で再びバスに乗車。この後、城端か福光で下車して温泉に入ろうと思っていたのに寝落ちする。気が付いたら砺波辺りをバスが走っている。こんもりした防風林の中に平べったい屋根をした民家が点在するのを眺め、この辺りの造りかなぁと考える。一時過ぎ高岡着。さっさと富山駅へJRで移動するが、思ったより近くて10分少々で着いてしまった。荷物を駅に預けてまずは食事。しらえびのかき揚げ丼だったかな?
この後、近くの丘陵呉羽山にある長慶寺の境内にある五百羅漢さんを神通川を渡り観に行く。いまいち暗い雰囲気だ。河西にある五百羅漢さんの方が明るく表情が豊かなので好ましい。
それにしても、田舎で夜の10時頃まで時間を潰すのって大変だ。お酒が楽しく飲めるなら飲み屋があるから良いけれど、そうじゃないと入れる店がほとんどない。あちこちうろうろしていると、今時流行りの汚ない格好の為かジモティが声を掛けてくる。ちょっと恥ずかしい。
この当時、東海北陸自動車道 はまだ白川郷まで伸びておらず、高山からの中部縦貫自動車道も無かった。今思えば世界文化遺産になったばかりで、まだまだ未開発だった。現地の方々も観光地ズレしていなかったからとても親切だった。今の白川郷と比べると大変貴重な体験だったかと。
白川郷を訪うきっかけになったのは、会社の同期にして山の会のメンバーでもあったK女史から世界遺産登録される以前の雪がまだ残る浅春に行った際の話を聞いたことだった。お互い転勤が多くて、ふと気がつくと退会されていた。今、どうされているのか。