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黄金機械 ─奴隷少女、10万人を率いて蜂起せよ─  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
第1章
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第5話 契約と審判の車輪(2)

「五分だと? ジョークも大概にしたまえ」


 男は空色の目にわずかなぬくもりも見せず、懐中時計を取り出してわざとらしくため息を吐いた。


「わたしは貴様らのせいで、すでに貴重な時間を七分も失っている。この上さらに奪おうと?」


「お待たせした価値がなければ、何でも償います! どうか!」


「ふむ……」


 チャールズ・マクファーソンは、厚かましくも自分の仕事に割り込んできた人間がとびきり可憐で、そして無力な、年端もいかない女の子であることを把握した。


「よいだろう。それで、わたしの財布はどこにあると?」


「その前に、いくつかの質問をお許しください。まず、あちらの自動車でここまでいらしたのでしょうか?」


 街路樹に寄せて停められているのは、赤いツーリング型の自動車だった。ルーフキャリアを開いた後部座席には盛装をした女が頬杖をつき、マニキュアを施した爪を面白くもなさそうに眺めている。


「いかにも」


「そしてこの地点でタシュとぶつかったということですね。閣下、出発前に座席の下の荷物置きを開けられましたね」


「……なぜ?」


 男の眉が訝しげに寄った。


「シャンパンベージュのジャケットをお召しなのでわかりました」


 一片の怯えも見せず、堂々とした笑みさえ浮かべた顔は、利発な猫に似た大きな瞳で男の袖口を示した。


「黒い光沢のある掠れ……わたしたちが工場で触る機械油とよく似ています。付くことがあるとすれば自動車の整備時ですが、尊い身の閣下がボンネットを開けて修理したとは考えづらい。それも盛装でいらっしゃいますから。最新型のT型ノーフォークに座るのは貴人ばかり、座席に腰かけていてオイル漏れに触れることなどありえません。ですが座席下、多くは使用人が触れることになるトランクは、高温が続くと接合部が緩み、背面のオイルがわずかに漏れ出すことがございます。ここ二週間、日中の最高気温は三十二ケルビムを下回ることはありませんでした」


 油を差したように回る口は滑らかだ。


「この時間にお出かけなら行き先は夜会、つまりドレスコードはローブデコルテ。真夏とはいえ、オープンカーで肌を出していれば肌寒い夕暮れ時。お連れの貴婦人のために、シルクのショールを取り出しましたね。それとクープの石畳が障りにならないよう、少し大目のクッションも。さて一生のお願いでございます。どうかクッションの山を一度、改めていただけないでしょうか?」


 狂いのない敬語で矢継ぎ早に繰り出された推理に、高官たちは目を剥いた。


「やだ、お尻が痛いと思ったらこんなところに!」


 チュールレースで彩られた帽子を片手で抑えながら、ドレス姿の若い女がなにかを放り投げる。


 副官が慌てて受け止めたのは、ベルゴット織のがま口財布。


「その女の子の言う通り。チャーリー、あなたってうっかりしてるのね。あたくしに膝掛けを渡した時、その浅~いポッケのジャケットから落っことしたんだわ」


 女はルージュをひいた唇に手を当てると、流行最先端のカーリーなショートヘアを揺らして笑い転げた。


「アッハハハ! 自分の不注意なのに、高貴なる者の勤めだなんて言っちゃって! おっかしいこと!」


 ガツ! と杖がうなった。


 赤毛が舞い、エルが石畳に倒れ込む。こめかみを押さえた手の隙間から、髪よりも濃い赤がじわりと垂れた。


「よくも恥をかかせたな!」


 紳士然とした振る舞いを一変させ、チャールズは両眼を血走らせた。


「この大嘘吐きのペテン師が! 汚い小細工を弄してわたしをバカにしおって……! 白々しい演技はやめろ! 立て!」


 彼は()()()()()()()()にすることにしたらしい。いくらなんでも無茶があるけど、とエルはふらつきながらも従順に立ち上がった。


 別に命じられるまでもないことだった。自分が八つ当たりを受けなければ、他の誰かが殴られるのだから。


 何より……恥を知らない(けだもの)に膝をつかされるなど、笑えない冗談だ。


 少女は言葉を発したわけではなかった。


 だが真っ直ぐ見上げて()らすことのない翠の目は、言葉よりも雄弁に軽蔑を語った。


「……生意気な!」


 鯨骨を素材とし鼈甲(べっこう)で装飾された杖は、高等文官であるチャールズにとっても貴重なものである。仰々しく待機する副官に預けると、代わりにすかさず短鞭を受け取った。


 空を切り裂いて、鞭がうなる。歯が折れないよう硬く食いしばる。こぶしを握りしめる。


「このっ淫売が! 緑の化け物が! 低能の害獣どもが!」


 容赦のない短鞭は、悪趣味にも少女の左顔面だけを執拗に痛めつけた。


 四発目にして、頬の皮膚が裂けた。七発目にして、肉が覗いた。九発目で、してはいけない音が鼻骨から上がった。全力で駆けたあとの汗のように、景気よく血が飛び散っていく。


 後部座席の女は眼前で行われる凄惨な暴行にただ凍りつき、背に庇われた生徒たちは、粉々に踏み砕かれていく宝物を見るような顔をして立ち尽くした。


 誰も息を継げない暴虐だった。


 だが小さな背は、空から大地まで一本の芯を通されたかのごとく、ずっと姿勢よく立ち続けた。


 何度も白くなるエルの脳裏にあったのは、柱時計の振り子の奥に隠されて、ただ受け止めることしかできなかった地獄。


(こんなのなんてことない。そうでしょ? エル)


 だってあの晩のママのほうが痛かったわ。もっとずっと残酷で、どうしようもなく長い苦痛を味わった。


 けれどあの魂は、全てが灰になるまで耐え抜いた。


(ひざまず)け! 許しを乞え!」


「何に、対して?」


 往生際の悪い獲物に業を煮やした命令に返されたのは、穏やかですらある問いだった。


 激昂に任せた短鞭を浴びて、可憐だった顔は見る影もなかった。柔らかな肌は赤、蒼、紫……毒々しい絵の具をぶち撒けたパレットに変わり果て、左の額から右の耳下まで斜めに一直線の亀裂が走り、片目は潰れ――、しかし右だけに残されたペリドットは、いまだ強く輝いていた。


 暗がりを照らす炎が、眼窩(がんか)の奥で燃えるように。


「許しを乞うべき罪があるなら、教えてください。それが謝るべきことなら謝ります」


 ろくに動かない口が、とうとう動かなくなる前に言ってやる。「あたしたちは、恥を知っているから」


 チャールズの顔が赤黒く染まった。


「貴様……!」


 男が横に右手を突き出すと、しばし呆気に取られた副官は抜身のままだったサーベルを慌てて渡した。


 栄光ある一等国民に対する窃盗犯は、両手首を落とされるべきである。


 つまり身の程知らずにも自分を愚弄して(はば)らない不届き者がいるとしたら、利き方を知らない口がついた首ごと落とされて、然るべきであった。


「教育だ」怒り狂う男は歯茎を剥き出した。「斬首だ!」


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