第3話 寄宿学校のエル
今年もカンパニュラの花束と一緒に、サフランイエローのポストカードが届いた。
『エル 十四歳の誕生日おめでとう。きみの新たな一年が恵みの雲とともにありますように』
差出人は例年どおり不明。しかし例年にない、小さな封筒が添えられている。
甘い香りを放つ花束とカードを左手に抱えながら、エルはかすかな重量を持った封筒を逆さにした。
「……鍵?」
掌中に転がり落ちたのは、古めかしいウォードキー。蓮の形が精巧に模られた黄金の中心に、花托になぞらえた蒼穹色の大きな宝石が嵌め込まれている。
この送り主がカードと花以外のものを贈ってくれるのは、十歳のバースデーに突然届けられるようになって以来、初めてのこと。
「綺麗……。ピカピカに晴れた夏の空よりも、もっとずっと青いわ」
まだ起き出す者のない寄宿舎の門前。差し込み始めた朝の光が、門扉の影を寮に続く階段へ伸ばしていく。
開けっ放しのポストに手をかけたまま、表と裏を返すたび眩しく照り映える黄金の鍵にペリドットの瞳はしげしげと見入った。「こんな素敵な鍵、宝箱が開いたりしちゃうかも?」
差出人のない贈り物に礼を送る宛てはなく、早朝の独り言に返事をしてくれる者もいない。
何にせよ、今年もまたお祝いをしてくれた。
細いリボンで彩られたブーケが潰れないようそっと抱きしめると、柔らかな赤毛がかかる少女の小麦色の頬に、喜びの花弁がじんわり滲み出た。
「エル! 何してんのそんなとこでー!」
建付けが悪い窓をガタガタ言わせてこじ開けたルームメイトが、二階の窓から声をかける。
「おはようシャロン! 今年もあしながおじさんからカードが来たの!」
「あし……? ああ! 正体不明のストーカー!」
「はあ~。きっとロマンスグレーのハンサムなおじさまなんだろうな~」
「少女趣味の変態だと思うねえあたしは」
黒雲の月とは名ばかりの、晴天続きの真夏の候。日中になれば汗が噴き出す気温でも、この時間は爽やかな風が蕾のない金木犀を揺らす。
煙突から漂う焼けたパンの匂いに鼻をすんと鳴らした時、キイン……と耳の奥を刺す違和感が走った。
入道雲から響くのは、鉛の樽が転がり落ちていくような重低音。足元の芝生が螺旋を描きながら巻き上げられていく。
あたり一帯に落ちた影に頭上を見上げれば、白鯨のそれと似た腹を見せながら、プロペラを生やした巨大な建造物が蒼天を横切っていた。
「ナハトムジーク……」
揚上監視艇はこの正六角形の端に聳え立つ壁まで行くと引き返して、南西から箱庭内を悠々と航行する。
ぼんやりと呟いたエルの声が届いたわけではなかったが、シャロンも「朝から精が出ることで」と呆れた眼差しで頬杖をついた。
「今日何時から勤労だっけ?」
「十三時。クーゲル工場、白色焼夷弾への火薬詰め」
「あれきらーい! 手ぇめっちゃかぶれるんだもん!」
「ねえ、バトゥーのやつまだ起きてこないんだけど」
「ああチクショウ、また豆だらけかよ。栄養センターのやつら、おれらのこと虫だと思ってねーか?」
煮込みすぎたレンズ豆のスープ、硬いビスケット、灰色をした国民パン、トレイの端にカラカラと寄るのはいくつかの栄養剤。浄化と煮沸を繰り返した再生水の味を誤魔化すために、ポットから注がれる熱いお茶は黒褐色に濃く煮詰められ、一口飲めば舌が痺れるほどえぐい。
365日代わり映えしない配給食を手に、寮ごとの長卓へ着席した生徒たちは彩りのない毎日への愚痴を咲かせる。
「なあアラン。その包み紙、どうした?」
金色寮の卓では膝の上でこっそり開いたプレゼントを皇帝に見つけられてしまった少年が、気弱な薄緑色の瞳をビクリと竦ませた。
「おっなんだなんだ、またチョコレートか?」
「貸せよ。学則違反はよくないぞ」
悪ノリした寮生たちまで、馴れ馴れしく肩を組んできた。
「キ、キリル。これは違反じゃないよ。おばあちゃんがぼくの喘息のために送ってくれた、高原ハーブの喉薬で」
長い脚が不意に、宙に浮く。
次の瞬間ローファーが椅子を蹴飛ばし、アランは後ろ倒しに尻もちをついた。放り出されたアルミトレイがけたたましい音を立てる。
「白々しい嘘はやめろよ。お前んちのババアが検閲官に金掴ませてること、バレてないとでも思ってんのか?」
騒音、緊迫した空気。お喋りに興じていた生徒たちははたと目を向けたが、諍いの相手が誰なのか確かめると、何も見なかったかのように話の続きに戻った。カウンター横のスツールに腰掛けた寮監のアガタ・アルトマイアーも鋭い眼光で眼鏡の角度を直しただけで、特に咎めることもなく、再び機関紙に目を落とした。
クライノート・ギムナジウムの教師陣は放任主義。親元から引き離されて息の詰まる暮らしを送る思春期どもの詰め合わせと来たら、壊れかけの火薬庫も同義である。いちいち付き合っていては身が持たない。
「こんな人前でチラチラ見せびらかすくらいだ。一等国民に融通の効くご身分が、さぞかし誇らしいと見える」
精悍な顔立ちに毒のある笑みを浮かべたキリル・カザンチェフは、今年十五歳。恵まれた体格と優れた成績を誇示し、成人試験を前にして早くもクープ警察隊への内々定が決まっている有望株である。高圧的な振る舞いは皇帝とあだ名されるほどで、つるむ学友も似たり寄ったりの乱暴者。とはいえ体制の覚えめでたく舌鋒も棍棒も身に着けた猛犬に、わざわざ食って掛かる物好きはそういない。
「さっさと渡しな、ドブネズミ」
オリーブ色の瞳が剣呑に光る。
テーブルを横断して突き出された手にアランが泣きだしそうに顔を歪めた時、あらぬところから飛んできたビュッフェトレイが、スコン! とキリルの側頭部に命中した。
「あら、ごめんなさーい! 山賊かと思って!」
ざわめきを割り開いて届くのは、人の耳を惹きつける声。
投擲された板の威力はまるで容赦がなく、こめかみに角がヒットしたキリルはしばし俯いて無言でこらえた。
「このクソ女……!」
やっとのことで顔を上げて睨みつければ、背後の格子窓からの日差しを受けたジンジャーブロンドは王冠を戴いたように金に輝いた。
腰に手を当てて怖いもの知らずの顔で笑うのは、ギムナジウムの小さな女王。
隣であくびをしながら「二枚目いる?」と追加トレイを差し出しているのは、クイーンの親友である。
「いい気になるなよテメエら……」と、皇帝は身の程知らずの下級生どもを指でさし、凄みを効かせる。「よく聞け。女だからっておれが泣かせねえと思ったら、大間違いだからな!」
「キリル先輩、今日が何の日か知ってます?」
「ハア?」
脅しをたやすく受け流された暴君に、死角に座る生徒が笑いをこらえて頬を膨らませた。
「本日は聖顕歴1927年、黒雲の月の八日。1762年、『社会契約の諸条件について』の初版が刊行。1774年、『耐え難き種苗法と印紙法』が制定。1898年、ダニエラ・クロドフスカが螺旋状透過性粒子体を発見。そして~~~? ドゥルルルルルッ……ダン!」
やたら切れ味のいいドラムロールが迸ると、ピンと伸びた人差し指が天井のフィラメント電球を勢いよく示した。
「1913年! クライノートの宵の明星エル・スミスが、満を持してレムリア大陸に爆誕!」
「……」
よく通る声でお知らせされたのは、バカバカしいアナウンス。
うんざりと顔をしかめたキリルの前後左右で、寮を超えたテーブルから「おめでとう!」「おめでとう!」と景気の良い拍手が上がった。
「エル! 食べかけだけどビスケット半分あげる!」
「ガムどうぞ! ううんゴミじゃないって、一個だけ残ってる!」
「爆誕を祝して定規を進呈しよう。三十ユニスの長さと間違えて注文しちまってさ」
「ありがとうありがとう。今後ともご贔屓に」
「ここに青豆だけの山を作ったから、一思いに持ってっちゃって!」
「ん? それお祝いじゃないわね? 残飯処理ね?」
ひとりの少女を迎えて、食堂はにわかに賑やかになった。
「……おい。まさかおれが、お前の誕生日を祝うとでも? 『ハイ、ハッピーバースデーエル! 素敵な一年になりますように!』って?」
わざわざ裏声まで出したキリルは、「バッカじゃねーの?」と鼻を鳴らした。
「お前みたいな生意気な女、おれは大っ嫌いなんだよ」
「キリル先輩からのおめでとうなんて、ぜーんぜんいりません!」
ニコニコと楽しげな笑顔はビクともしない。
「だって今年も、カードの人がお祝いしてくれたもの!」
少女が身軽にターンすれば、制服のジャンパースカートが翻る。わざわざ食堂まで持ってきたカンパニュラの花束は淡い紫色に色づく釣鐘状の花弁に風を孕んで、ふわふわの赤毛とともに思い思いの方向に揺れた。
少年は無言で拳を握り、……それから気が抜けたように息を吐いて、ガックリと肩を落とした。
「ミス・スミス。食堂では落ち着いて行動なさい。埃が立つでしょう」
「はい、ミセス・アルトマイアー!」
冷え切った氷の指導にも、返ってくるのは元気のいい返事。新聞に視線を戻した鉄壁の貴婦人はほんのかすかに口元を緩め、カツアゲを免れたアランは油紙をポケットに仕舞い、そっと安堵の息を吐いた。
ここはベルチェスター連邦共和国東北部、ヴァルト州レーベンスタット。
親から引き離されたトゥランの子どもたちが住まう、クープの中のギムナジウム。
枷を嵌められた小鳥たちの箱庭は諍いが絶えなかったが、小さな女王のある場所だけは、常に平和でくつろいでいた。
エル・スミス。スミスという名字は評議会より付与されたものなので、実質彼女が持つものはエルの二文字だけ。
移送時の鉄道事故の人的ミスにより、彼女は他の皆より二年遅れの九歳で編入してきた。特別扱いを憎んだ生徒たちは物を隠したり教科書に落書きをしたりと排斥を行ったが、雑巾を絞った水で頭からずぶ濡れになっても歯牙にもかけず、「あと拭いておきなさいよ」と気楽に笑うその態度は、何をしてもダメそうだという予感を早々に与えた。
「カードの人って、例のストーカーか?」
興味のない素振りでキリルが問う。
「そうです! スーツと紅茶が似合う、ロマンスグレーのハンサムな老紳士!」
「薄汚れたロリコンに決まってんだろ気は確かか?」
エルのもとに誕生日の贈り物が届くという事実は、ギムナジウムの全員が知るところだった。毎年飛び上がらんばかりに大喜びをして、全校生徒に聞こえる声で報告をするせいである。アランのチョコレートと違って糾弾されないのは、内容が花束とカードという腹具合に影響しないものであり、自分たちは年二回、もっといいプレゼントを親から贈ってもらえるから。
エル・スミスに血縁はいない。寄宿舎の玄関ホールが賑やかなラッピングで溢れる冬の聖餐日にだって、手編みのセーターもカードの一枚も来ない。だが真夏の誕生日には、得体のしれない差出人不明の花束が届けられる。
それはきっといいことだと、エルを取り巻く人々の意見は一致していた。たとえ街角で彼女を見初めたどこぞの中年男からの、下心満載のプレゼントだとしても。
人目を惹く容姿、高い能力、誰に対しても堂々とした公正な態度。それらの美徳はあらかじめ決まりきったことのように彼女をギムナジウムの支配者にしたが、実のところ、この女王の要件はそれだけではなかった。
「エル。バトゥーの部屋がもぬけの殻だ」
生徒からその進言があったのも、当然ながらクイーンのほう。男子寮の話といえど、キリルに言ったところで「だから?」と一蹴されるだけである。
「だれも見てない?」
エルの問いかけに、金茶赤黒青緑紫、さまざまな色をした頭髪が横に振られる。
瞳はひとり残らず翠。収穫時の小麦色の肌をした子どもたち。
バトゥーはギムナジウムで一番背が高い男の子だ。半年前から急激に伸びて、関節が痛いとよくぼやいていた。
「荷物は?」
「着替えとか教科書とかは残ってる。でも貴重品と、あいつが大事にしてたビスキュイの缶が空っぽになってる。中には家族からの手紙が入ってたんだ。……つまり、いつもと同じさ」
「全く、薄情なもんだよな」
冷めた顔で立ち上がったキリルは白いカーテンの向こう、室内から仰げば目に沁みるほど眩しく晴れた真夏の空を仰ぎ見た。
「おもちゃ箱から抜け出る道を見つけたんなら、ヒントくらい置いてけっての。どいつもこいつもよ」
昨日までいた子どもがいなくなることは、クライノート・ギムナジウムでは珍しいことではなかった。