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黄金機械 ─奴隷少女、10万人を率いて蜂起せよ─  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
第7章
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第49話 ミルクの味をした祈り(4)

 長い銀髪は(ほど)かれ、清流のように肩口を流れ落ちていた。いつも第一ボタンまでキッチリ締められている襟元は、今日はノーネクタイの立襟(スタンドカラー)で鎖骨が見えるほど(くつろ)げられ、両手には例の黒グローブも嵌めていなかった。眼鏡で誤魔化しているが、虹彩は裸眼の翡翠色だ。


 どれほど具合が悪いのかと心配していたが顔色が白いくらいで、おおむね普段どおりであることに胸を撫で下ろす。それにしても、ジャケットを脱いだ姿もやっぱり素敵……。


「あっ!」


 ロスは、はたと自分の身体を見下ろした。療養中だというのにきちんとヒゲも当てているし、パリッとアイロンをかけたシャツである。何の問題もない格好だというのに、「しょ、少々時間を頂けますか」と、なぜか慌てた様子で言う。


「身だしなみを整えてきます」


「うえ⁉」


 焦るのはこちらの方である。


「いやっ! 具合悪いんだからそのままでいてください! ていうか、寝てて!」


「ありえません。こんなだらしない服装でエルさんの前にいるなんて」


 彼の自負は()()であった。それも面倒なことに、百年くらい前のプロトコルを守っているタイプの。「シャツ一枚なんて、下着と同義なのに……!」と打ちひしがれながらクローゼットへ向かおうとするのを、「いいから! すぐ帰るから!」と引き留めようとした少女は、不意に横から飛び出した温かくて大きなものに押し倒された。


 世界の上下がぐるりと返る。


 視界を埋め尽くしたのは、綿花のように真っ白な毛皮。それから獣の息遣い。顔の横にだらんと垂れてきた長い舌に瞬きをしたエルは、自分に覆いかぶさっているそれが何なのか、少し遅れて理解した。


 あっこれ、ハウンドだ。


「D-612! お座り!」


 靴底の鉄板が、アカシアの床を二度鳴らす。命令が発された瞬間、白い毛むくじゃらは弾かれたように飛び退いた。


「怪我はありませんか⁉」


 大きな手に引き上げられながらあちこち点検されて、すぐ火照ってしまう頬で押しのける。「だいっ大丈夫です!」


「本当にすみません」


 飄々とした青年は、珍しく弱りきった顔をしていた。


「いつもの()は非常に優秀で、客人に飛びかかるなんて無作法、決してしないのですが」


 見下ろすのは、全長二マルトほどの人造哺乳類。


 索敵、追跡、伝令、物資運搬、爆発物の探知、夜間哨戒警備から敵の殺害まで。あらゆる軍事行動を行使できる巨大な獣とその使役者(ハンドラー)は共和国固有の戦力であり、前世紀からの数々の市街戦で名を轟かせてきた。


 顔面は両眼を覆うほどの長い毛に覆われ、見えるのは黒い鼻先と捕食器だけ。だが耳をピンと立て、裂けた口からへっへっへっと舌を垂らして息を弾ませる様子は、存在しないとされる表情を雄弁に語っていた。


 これは、ハウンドである。連邦共和国が開発した、恐るべき汎用型猛獣兵器である。そのはずなのだが……ロスに「ダメじゃないか」と(たしな)められるその個体は、何と言うか、ものすごくボ()()()()()なワンちゃんにしか見えなかった。


「ロスさん、お願いがあるんですが」


 彼の耳がもし犬と同じように動いたら、ピンと立ったに違いない。小さな君主の望みを叶えられる機会を見過ごすことのない守護者は、直球のおねだりに「何でしょう」と少々前のめりに振り向く。


「ちょっとばかし……撫でさせてもらってもいいですか?」


「へっ⁉」


 予想だにしない願いごと。素っ頓狂な声を上げたロスは、信じがたいものを見る目で瞬きをした。


「……どうぞ」


 唇を噛み締めて、なぜか泣き出しそうな笑みを浮かべる。エルが彼のこの笑みを見るのは二度目だった。一度目は、王の守護者という素性を明かした時。


「撫でてやってください。存分に」


 そんな顔で笑う理由を尋ねてみたことはなかった。顔に傷を得た経緯も、得難(えがた)き地位にいながら命の危険を冒して反逆する思いも、知らない。


 過去を何度も尋ねられてはそのたび笑って誤魔化してきたエルは、無遠慮に問うのはやめようと決めていた。聞いてほしければ語るだろう。語っていないというのはそういうことだ。


 仕方ない。人生には運悪く、どうしようもなく重い荷物を背負ってしまうことがある。それは足元のドブ板が急に抜けたりだとか強風で剥がれたトタンが頭に当たったりするのと同じで、ただの不運。人の身には届かぬ天空を走る運命の車輪が、不意に投げ落としてくる重たい荷物。


 受け取ってしまった者は抱えるだけで精一杯で、ただ歩むことしかできないのだ。


 D-612という名の獣に顔を埋めれば、晴れた日に干した掛け布団の匂いが鼻腔に満ちた。ロスさんって本当に動物が好きなんだわ、とエルは毛皮の中で微笑む。たとえ識別番号そのままの名前で呼んでいようが、どれだけ大事にしているかなんて、毛の一本も落ちていない清潔な部屋とこのふわふわの毛並みが雄弁に語っている。


 過去は明かしてくれなくてもいい。あなたがどんな人なら、もう教えてもらってるから。


 ……もし打ち明けてもらえたら、嬉しすぎてきっと抱きしめてしまうけど。


「D-612さんは幸せなワンちゃんね!」


 日頃の行儀良さはドッグランに落としてきたのか、軍用犬は小さな身体に()しかかって頬をベロベロ舐め回した。生き物を愛してやまない少女がクスクス笑う。カーテンの隙間から冬の夕日が差し込み、ふわふわのジンジャーブロンドとまつ毛を黄金に照らす。


 部屋の主人である青年は、眉を寄せた(しか)めっ面で佇んでいた。


 機嫌が悪いのではない。むしろその逆である。眼の前の光景が眩しくて眩しくて仕方ないのに、かといって瞬きで遮断したら儚く消えてしまうのではないかと思われて、ロスは鼻の奥が熱いのをこらえながら、身悶(みもだ)えるような至福を脳裏に刻み込んだ。


「マナー講師の真似なら今日はお休みにしてください」


 猫のような翠眼が肩越しに振り向いて生意気に見上げる。「現代人から言わせてもらえば下着は下着、シャツはシャツだし」


「でも、せめてベストくらいは」


「ならこれはお預けかしら」


 思わせぶりにチラリとバスケットを見せると、「何でしょう?」と不思議そうな翡翠が身を乗り出した。


 遊んでもらえるつもりで足元をぐるぐる回る大型犬を避けながら、ダイニングテーブルにバスケットを置く。小麦色の手がショールの中から取り出したのは、手のひらサイズの小さな包み。きゅっと結ばれたギンガムチェックのハンカチを開くと、小さな円形皿(ココット)が現れた。


 甘いスパイスの香り、こんがりとカラメリゼされたミルク生地。


鍋の底プリン(カザンディビ)……」


 目を丸くしたロスはぽかんと呟いた。



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