第45話 音楽は止まない(8)
重力を知らない脚が虚空を蹴り上げた。高くジャンプする。ドレスをたくし上げた手は隠すどころか、視線を弄ぶように裾を前後に翻した。膝どころか腿まで見えそうだ。
「おい、下品だぞ!」トヴィアスは唾を飛ばして指をさした。「やめさせろ!」
ダン! と床が揺れた。テーブルの上のグラスが跳ねる。
怒声を黙らせたのは、給仕たちの踵。先刻まで召使いらしく空虚な表情をしていた彼らは、今や悪戯を仕掛けるような顔をして、目まぐるしく速いステップを揃って踏んでみせた。
曲目は『愛しきハルブルグの麓』。たとえ晩飯を食べたことを忘れる老人だろうとヴァルト育ちなら誰でも踊ることができる、懐かしの民族の魂。
奏者たちは立ち上がっていた。舞踏会の演奏は客の耳障りとならないよう譜面にぶつけて音量を調整するのが常識だが、今夜は全ての管楽器の口が天井に向けられた。何せ指揮者が命じるのだ。もっと高らかに歌え、もっとだと。酸欠になりそうなほど息を吹き込み、弦が切れそうなほど力を込めているというのに、マエストロの左手は貪欲に天を突き上げた。まだだ。まだまだまだ足りない。
お前たちの怒りはそんなものか? やつらに言いたいことはそれで終わりか? 歌え! クソッタレの鼻っ柱をへし折ってみせろ!
膝でリズムを取ろうとすれば、楽器ごと踊るように身体全てが動いた。あれほど重たかった身体はガソリンを補充され、レシプロエンジンを回された機体のように軽くなり、走り出したいような熱を持て余した。自分の仕事がないフレーズでは、笑いながら手拍子する。
子どもたちならとっくに踊っていた。彼らのクイーンがクランツとは何かを説き始めた時から、来るぞ来るぞと待ち構えていたのだ。狭い半地下から抜け出し、明かりに照らされたホールへ迷いなく駆け出すまではあっという間で、笑い声が遠ざかっていく。
「アガタ先生、大丈夫です? あれ」
オフィーリアの問いに、アガタは青い顔で首を振った。「いいわけないでしょう!」
提燈祭を台無しにしただなんて、どんな罰が下されるものか想像もできなかった。総督府がその気になれば、ギムナジウムの人間のクビなどどうなってもおかしくないのだ。物理的な意味も含めて。
「だからそう……こうなってしまったら、残された手段はひとつだけ」
鷲鼻にかけた片眼鏡をグッと押し込みながら、ダンスホールを睨む。「何が起きたかわからないくらい、めちゃくちゃにするしかありません」
「つまり」意図の掴めないグンターは眉を寄せた。「どういうことです?」
「わたしたちも参加するということです!」
初老に差し掛かった公用語教師は有無を言わさぬ気迫を持って、若い保健医と歴史教師の腕を掴んだ。「行きますよ! ミス・ローゼン、ミスタ・フリーデル!」
憤然とした勢いで、教師たちが飛び込んでいく。「嘘でしょ⁉」「正気ですか⁉」という悲鳴は、人混みに掻き消された。
野蛮な音楽、野蛮な踊り。理解の出来ないものに囲まれて、優雅なクランツを楽しんでいた夜会客たちは恐怖した。
いったいこれはどういうことだ? 今宵ホールに人間は自分たちしかいなかったはずなのに、どうして突然増えたんだ? 逃げ出そうとすれば、手を繋いで跳ねるパーラーメイドに退路を塞がれて、紳士淑女は悲鳴を上げた。
ロスは可笑しさをこらえきれなかった。クスクス笑って両手を開き、いつもとはあべこべに教えを乞う。「どうやるんです?」
エルは黒手袋の右手を取った。「こうやるんです!」
鏡面のごとく磨き込まれた床を、凶悪なハイヒールが打ち鳴らす。
重力を忘れたタップを、全ての眼が食い入るように見つめた。
青年は瞬く間に、この攻撃的な足さばきを覚えた。見た目に反して彼は、どちらかと言うと頭より身体を使うことのほうが得意な人間である。
振りはクランツに似ていた。しかし、その速度は比べようもないものだった。どこに重心があるかわからない軽やかなステップ。ふたりの足が絡まりそうな速さだというのに、鏡のように揃ってあっという間にホールを回る。
喫茶コーナーで茶をひいていた少女たちは、知らないうちに中腰になっていた。大洋を跳ねるトビウオが目の前に来ると、端からどんどん立ち上がる。
肩越しに振り向いたペリドットが楽しげに細められた。ロンググローブの手が伸びてくる。
「一緒に踊りましょ!」
思わず飛び込みかけたトレイシーの腕は、染み付いた礼儀作法で引っ込められた。「でも、殿方がいないから!」
「そんなに大事だと思います? それ」
エルは笑った。
「ただのダンスなのに!」
返事を待たず、赤毛頭は駆けていく。少し口を開けて唖然とした女の子たちは、結局ドレスの裾をたくし上げて追いかけた。
本当は踊りたかった。目付役のいないところで、結婚相手探しも、恋の駆け引きも関係なく思いっきり。大人たちは誰と踊るかと、舞踏会の後日にしか興味がない。半泣きでレッスンを受ける子ども時代の自分が願っていたのは、もっとシンプルなことだったのに。
今夜のわたしが、どれほど見事に踊ってみせるのか。両親に、目付役に、口やかましい世界の全てに、ずっと主張したかったのだ。
ダンスエリアには色とりどりの令嬢、銀盆を放りだした給仕たち、ローブ姿のギムナジウム生、暇を持て余していた若い下士官――様々な階層の人々で溢れかえった。シルクのロンググローブ、給仕の白手袋、浅黒い小さな手、軍装の大きな手が、どんどんペアを変えて繋がれていく。
登録IDの国民等級は、あっさり無視された。輪の外では旋律に合わせた手拍子が、小気味よく打ち鳴らされる。
「ハッハッハッハ!」
コーヒーハウスの主人も手拍子を叩きながら、滅多に動かさない表情筋を崩して大笑していた。
「ホール・オデオンで、ルフトクスを拝める日が来ようとは!」
この舞踏場は、かつて大帝国であったヴァルトを偲んだ栄光の徒花である。植民地が次々と独立し財政難に喘ぐ宮廷で、父祖が遺した文化を復活させようと、二代先までかかる大借金を抱えて斜陽皇帝が建設したもの。
憎むべきはずの奢侈だったが、暮れかけの帝国貴族は慰めを見出した。湯水のように金を費やして数多の舞踏会を催し、国家の誇りであるクランツに没頭した。
貴族以外にホールの使用を許さなかったのも、円舞の母が農村である事実を忘却したのも、今のベルチェスターと全く同じ。
だから今夜のエルの爪先は、四十年前の敗戦どころか数百年前からこの地を戒めてきた何重もの禁忌を、軽々と踏んで跳躍したのだった。
「ああ、いい気分だ。こんな晩は黒ビアで一杯やりたいものだ」
「どうぞ、サー」
給仕姿のゲルハルトの呟きは誰に向けたものでもなかったが、横からグラスが差し出された。
それはブレイク隊の軍服を着た壮年のベルチェスター人だった。ロス・キースリングの部下である曹長は、パチパチ瞬きをするヴァルト人ウエイターに「大きな声では言えませんが、おれもかなりいい気分だ」と軽く片目を瞑ってみせた。
手を添えたひそひそ声で、さらに打ち明ける。「……あと五年若けりゃ、センターで踊ってた」
トロンボーンの管が高らかに天を衝く。サクソフォン奏者の背が仰け反り、ヴィオリストが弓を引くたびに汗が散る。建設以来、かつてないボリュームの音楽にホール・オデオンは満たされていた。飛んだり跳ねたりする人々の熱狂ぶりも、前代未聞。
社交界のルールとは、法典に記述されている類のものではない。いずれかの権力者たちがわずかに眉をひそめたり顔を背けたりしたことが、ふんわりとした忌避感からいつの間にか厳然たる鉄の掟に変わっていたものである。
ゆえに新たな支配者が現れれば、一夜で書き換えられる。人々が汗を振り乱して狂乱に熱中するのも、止めさせるようがなり立てる野暮天を輪の外に締め出すのも、つまりはそういうこと。
連邦共和国は、貴族も王家も持たない。しかし、この提燈祭にはクイーンがお出ましになった。……そういうことなのだった。
「すごいっ! 素晴らしい‼」
ハンカチを握りしめたハロルドは、二階席の縁に掴まって歓喜の涙を流していた。
「国の垣根を飛び越えて、手を取り合って踊る人々……! これぞまさに、初代大統領が目指した人類の夜明けではないでしょうか! ジャイルズくん、わたしは今自分が何を目撃しているのか、わからなくなってしまいそうです!」
タレ目の文官はハロルドの秘書官である。先ほどから理解のできない光景を見せつけられて退席も許されない彼は、疲れ果てた顔で言った。「最後のお言葉には完全に同意しますね、閣下」
両開きのドアがバン! と開け放された。
「不埒な下等民どもめ! よくも下品なダンスを見せてくれたな!」
高等文官たちは、いつになく激怒していた。当然の結果である。
「そこに直れ! 教育してくれる!」
真っ赤な顔をして鞭を手に近づいてくるサディストたちを前に、さまざまな虹彩をした全ての目が、シャンデリアの真下に向けられた。
エルは頬を火照らせ、猫っ毛をふんわりと乱していた。息を弾ませながら、灯りを反射する大きな瞳でぐるりと人々を見返す。「そうね……」
「じゃあ、これでお開きってことで!」
一足飛びに駆けていく少女を追って、群衆が扉に殺到した。絶対のはずの命令に誰も従わず、むしろ勢いよく弾き飛ばされて尻もちをついた高等文官たちは、何が起きたかわからずにきょとんと瞬きをした。
ヴァルトの冬は厳しい。冬至の夜に厚いコートを着込まずに外に出ようなんて、命知らずもいいところである。だが人々は寒さをすっかり忘れていた。今夜はなぜか、あのナハトムジークも空に浮かんでいなかった。
皮膚から発奮される熱はまるで絶えず白い蒸気となって、街灯に照らされて彗星のように尾を引いた。相変わらず雨一滴降りそうもない乾いた夜気を揺らして、曇りのない大笑いがフェルゼ通りを駆け抜けていく。
投げ出さなくてよかった、王の力も、導きのトゥールも。満月を目前に少し歪んだ十四番目の月を見上げ、エルの胸は明るかった。
鍵は応えてくれたのだ。人間であることを証明したいという怒りに。当たり前の顔をして自分たちを踏みにじる世界を、心底驚かせてやりたいという切なる願いに。
(……それなら少しばかり、信じてみてもいいかもしれない)
焦らなくていいという守護者の言葉と、彼が信じる自分のことを。
「はしたないダンスは減点ですか?」
高揚した気分で軽口を叩くペリドットが、生意気に見上げる。
どさくさに紛れて一緒に逃走を図ったロスは「まさか」と笑って首を振った。
「これ、普段は忘れておいてほしいことなんですが」と、黒手袋の指が立てられる。
「プロトコルを守る真価とは、破る時こそ発揮されるもの。溜めて溜めて溜めて、ここぞという時にぶちかますために、我々は紳士淑女を心がけるのです。つまり淑女の心得その三は……必要とあらば、マナーなんて思いっきり蹴飛ばすこと」
初耳の作法である。目を丸くする少女を見下ろして、罅の入った眼鏡の奥で、銀眼は眩しそうに微笑んだ。
「今夜のエルさんは、最高にレディーでしたよ」
提燈祭が終われば間もなく、お楽しみの聖餐日である。そして顕現祭の厳かな灯りと共に、新しき年がやってくる。




