第42話 音楽は止まない(5)
ダンスフロアへ戻ってきたエルは、トレイシーの腕に縋ってやっとのことで立っていた。
何せ履かせられた靴は、10ユニスを超える高さの、小指のように細いハイヒールだったから。
「グ、グ、グ、グラグラするんですけど⁉」
「ホホホ、生まれたての子鹿みたいだこと」
ご令嬢のほうはというと、彼女好みの派手なお人形を存分にドレスアップできて、退屈な舞踏会に来た甲斐があったと上機嫌だった。
「トレイシーさんって、どういった身分の方なんですか?」
「凡人よ。お父さまが偉いだけ」
言いながら目線を向けたのは二階の中央、箱庭の支配者の席。
広大なホールを跨いで仰ぎ見るそれは豆粒のような人影だったが、エルの目には右肩から大綬を下げた優しそうなロマンスグレーの紳士と、傍らの高等文官もよく見えた。抜き打ち監査の時に伴っていたタレ目の文官は、今日はちゃんとヒゲを整えている。
嫌な予感に、大きく開いた背中を冷や汗が伝う。
「あの〜すみません。お父さまって、まさか〜……」
「第八代ウェリントン伯、ハロルド・ジョン・ランドルフ・ウェリントン。ヴァルト州の総督ってやつ」
エルは腰を抜かしかけた。腕に捕まっていなければひっくり返っているところだった。
「でも、名前の割に大した権限ないみたい。あのサディストのチャールズ・マクファーソンのやつ、あたくしさっさと絞首刑にしてって言ったのにまだ平然と総督府に勤めてるんだもの。もう、腹が立つったら!」
地団駄を踏みながら、トレイシーはソルベキャンディを口に放り込んだ。赤紫色のそれは甘いワイン味。
「分かっていると思うけれど、そのドレスは半正装。ホールの真ん中にダンスしに行けるような格式の服じゃなくてよ。でも端っこでこうしてお菓子を摘むくらいなら、よっぽどうるさいおばさま以外目くじら立てないわ」
トレイシーが連れてきたのは、会場の中心から離れた軽食コーナーだった。色とりどりのアイスや焼き菓子が山と積まれ、それにも負けず劣らず華やかなドレス姿の若い女子たちが腰掛けている、いわゆる壁の花エリアである。
完璧にドレスアップした彼女たちは、死んだ魚の目でカップルどものダンスを眺めながら、何杯目かのアイスをお代わりしていた。
「あたしと一緒にいたら、トレイシーさんが踊れないんじゃないですか?」
雲の上すぎてよくわからないが、総督の娘ならきっと引く手あまただろう。こんなところでお茶をひいている立場の人ではないはずである。
付き合わせるのが申し訳なくて尋ねれば、トレイシーは「いいの」と首を振った。勝ち気な青眼に、倦み疲れたような影が滲む。
「ダンスは好きだけど、それ以外の何もかもが……本当に面倒くさくて」
踊る時は必ず殿方とペアであること。それも目付役が、彼ならヨシとGOサインを出した紳士のみ。ひとりの男性とダンスしてよいのは二曲までで、踊った後は喫茶室までエスコートされること。戻って来る時には、必ず同じ相手と一緒でなくてはならない。さもなければ、男を取っ替え引っ変えする不良娘だと噂されてしまうから。
お声の掛からない壁の花は、もちろん恥ずかしいことだった。けれど紳士たちの手を切り抜けるのも至難の業なのだ。彼らはダンスにもお喋りにも興味はなくて、ただちょっと一晩だけ、休憩室へと立ち寄りたいだけなのだから。
恋の戯れは好ましい、でも醜聞はご法度。何も知らないフリで指一本触れさせずに婚約までたどり着かせてこそ、ベルチェスター上流階級のレディー。
社交界の課した不問律は独身男性を逃げ惑わせるものだったが、それにも増して、逃げる場所などどこにもない若い娘たちを雁字搦めに押さえつけていた。
不意に、ガラスの割れる音が音楽に混じった。男の怒鳴り声、それから人々のどよめき。そちらを見たエルは、――しばし、動きを止めた。
それはカドリールを舞う一群を挟んだ、少々距離のある場所での諍いだった。しかし猛禽の眼はあらゆる全てをたちどころに確かめ、事態を一瞬で把握した。
疲れた顔を泣きそうに歪めた子どもたち。額を腫らした給仕の男性。傷ついた目で譜面を見つめる楽団員。床に後ろ倒しになったロスは眼鏡を飛ばされて、口元に血が滲んでいる。
脳内の録画を巻き戻して、嘲笑混じりの怒声が何を喋っていたのか確認した瞬間、少女の頬から全ての初々しさは消え失せた。初めてドレスアップできた喜び、憧れの舞踏会を目にしている紅潮、――それらは誰かに蝋燭を吹かれたようにかき消され、代わりに上ってくるものがあった。
「……よくもあたしの眼を盗んで、手を出してくれたわね」
一対のペリドットに、冴え冴えと冷たい稲妻が落ちる。
重要なことはひとつ。自分の目がない隙に、彼らを踏みにじったものがあるということ。
今宵がめでたき祝祭の夜で、悪罵と暴力を受けた人々はいつも我慢ばかりしていて、今回も精一杯仕事をしていた、などという義憤を掻き立てる事実は実のところ、エルにとって些事に過ぎない。なぜなら今視界に収める彼らは、ロスも含めて、この浅黒い腕がすっぽり抱えた人々だったから。
粉砕すべき理由は、それだけで足りた。
「どうかして?」
トレイシーは少女を覗き込み、息を呑んだ。一歩下がって道を開けた自分に気づいたのは、後ろ姿を見送ってから。
あれほどグラついていたピンヒールは、ピタリと揺らがなくなった。縋って立っていた重心は、爪先から脳天まで一本の芯で貫かれたように真っすぐ伸びた。大股で一歩踏み出せば、慣れないヒールによろめいていたはずの足取りは躊躇いのない闊歩となる。
磨き込まれた床を小気味よく渡るその足音は、なぜか人の耳を惹いた。
歓談していた紳士淑女たちは自然と道を開けた。赤毛頭を見送ってから、一等国民たる自分がトゥラン人の女の子に道を譲った事実に瞬きをした。
波を割り開いて、ひとりの少女が現れる。見たこともない晴れ姿――だがそれが誰なのか、生徒たちも教師たちも一目でわかった。
「エ、エル……⁉」
「どうしたのそれ⁉」
亀裂の入った眼鏡の奥で、息を呑んだ銀眼がまじまじと見開かれる。
こんなに眩しいものが他にあるだろうかと、ロスはいつも驚くのだ。




