第41話 音楽は止まない(4)
「失礼。通ります、失礼!」
円舞する人々の中を縫い、ロスは一直線にオーケストラの方へ向かった。大股でダンスの海を渡る黒い長針が、ホールのあちこちに目を走らせる。居並ぶ女像柱の影、二階の手すりから身を乗り出す人々、閉ざされたいくつもの休憩室のドア……どこにも、エルの姿はない。
連邦共和国で基本的人権が保証されているのは、一等国民だけである。特に箱庭の中では顕著で、二等以下の人々は人間ではないものとされる。高名な人士であろうと軽侮を受ける場所で、年端もいかないトゥランの女の子など玩具に過ぎなかった。
ホールに雇用されたヴァルト人の取次ぎ女中などは身の危険をよく心得て、ひとりで物陰に行くことがないように、タチの悪い客には複数人で当たるように心がけている。それでも正視に耐えない踏みにじられ方をされるのが、クープという場所なのだ。
先のことばかり考えてしまう頭には、様々なパターンの最悪のシナリオが通り過ぎていく。
「着飾ることしか能のない女たちを侍らせて、ずいぶんいい気分だったようですね」
「へ⁉」
だから話しかけられた時、つい反応してしまったのだ。無視して通り過ぎるべきだったのに。
ロスに声をかけたのはトヴィアス・ドーソン――キースリング伯爵家出身の若年少佐を目の敵にしている、ブレイク部隊の大尉である。
グラスを手にしたトヴィアスは目元を赤くして、斜に構えた平素の雰囲気をさらに荒んだものにしていた。
「あやかりたいもんですな。たまたま目と髪が銀だからって華麗なるキースリング一族に迎えられ、コネで少佐に昇進、あげくには貴族の女から妻を見繕うときた。まるで悪魔と契約したかのような大躍進じゃないですか」
「ドーソン大尉。すみませんが酔っ払いの愚痴に付き合っている暇はないんです。そこの女像柱なら朝まで文句も言わずに聞いてくれると思いますよ。失礼」
「……この混血野郎が!」
怒声は音楽に上書きされた。が、緊迫した空気は石が水面を跳ねるように人の目を惹いた。
クライノートの子どもたちは、自分たちのほど近くで呑んだくれに絡まれているのが、ブレイク部隊の副隊長であることに気がついた。あの淡い色で構成された端正な顔は忘れない。ぞっとするように冷たい目つきも、グンターを公開鞭打ち刑に処すよう進言したサディスティックな性格も。
だからまあ、感想としてはいい気味、またはざまあみろといったものであった。せいぜい眠気覚ましの余興がわりに頑張ってくれと、あくびを噛み殺しながら高みの見物だ。だって一等国民同士の小競り合いなんて、自分たちには何の関係もない。
「お前みたいな孤児がデカい面をしていい場所じゃないんだよ。佐官のポストも、ベルチェスターの女も」
「飲み過ぎですよ大尉」
「そこにいる薄汚れた三等国民どもがお似合いだって言ってるんだ!」
ドサクサに紛れてバカにされた。どうやら高みの見物にはならなそうだ。
「なあ、トゥラン人ってのはおぞましいやつらだって聞いてるぜ」
普段はどう詰ろうと微動だにしない、人形じみた顔である。この日は珍しく不快げに銀の眉をピクリとさせたことに気をよくして、トヴィアスは片頬を吊り上げた。
「だって家族でヤるんだろ⁉ 母親と寝て、父親と寝て、兄弟姉妹で誰の子どもかわからん赤子を孕むのがトゥラン人ってやつだ! 正直に言えよ、お前も母親と寝たんだろ? そこのガキどもと同じように!」
手を打ち叩いた嘲笑は、ロスよりむしろギムナジウムの小鳥たちの胸を抉った。唇を噛み、ローブの裾を握りしめて俯く。
彼らにとって家族とは、七歳の顕現祭で引き離されて以来、手紙でしか会うことを許されない存在だった。聖餐日が来ればちょっとサイズの小さい手編みのセーターを贈ってくれて、お前がゲートから出てくる日を心待ちにしていると欠かさず書いてくれる人たちのことだった。
壁の外で自分を待つ人々があると思うから、逃げ出したい夜にも耐えてきた。そのことは誇りだ。
しかしささやかなプライドを踏みにじられた怒りは、どうやって表せばいいのだろう? 自分たちのことを同じ人間だとは、カケラも思っていない相手を前にして。
「おい、グラスが空になってるだろうが!」
怒鳴り声を受けて、給仕はすぐに飛んできた。しかし酔った男は力任せにグラスを投げつけた。「うすのろのヴァルト野郎!」
額を抑えてよろめくウェイターの青年を、後ろから伸びた白手袋の右手が支える。
左手でグラスをキャッチした地下のコーヒーハウスの主人――ゲルハルト・ホーエンベルクは、提燈祭のために臨時雇用された給仕に紛れていた。
一般市民を装って総督府内に潜入することが、ヴァルト人レジスタンスである彼の本業。カフェ・ムネモシュネの店主は、単なる趣味である。
ロスは黒手袋で眼鏡のブリッジを押し上げた。「トヴィアス・ドーソン」
揺らぐことのないその声は、零下の風のごとく凍てついていた。
「わたしは言ったはずだ。礼節を守れと」
「礼節? 礼節だと?」
もう少し冷静であれば、トヴィアスも今がまずい状況だと省みることができた。しかし積もった嫉妬心とアルコールは、いよいよ彼にここがどこなのか忘れさせた。
「貴族ぶりやがって! 三等国育ちの孤児のくせに!」
給仕から引ったくった盃はそのまま投げつけられて、皺ひとつないシャツに赤ワインが散る。ガラスが割れるけたたましい音はさすがにオーケストラでも隠しきれず、多くの人が振り向いた。
えっこの人トゥラン育ちなの? と、いくつもの翠眼が瞬きをした。
「下等民をバカにして何が悪い! 服装だけはベルチェスター流でも、この奴隷どもは円舞ひとつ、対角舞踏ひとつ踊れやしないだろうが!」
完全に激昂した青年は、唾を飛ばして怒鳴りつけた。
「できるのは一等国民の猿真似と、あわよくばお零れに預かろうと卑しく付きまとうことだけだ! 文化、知性、人格、全てにおいておれたちとこいつらに圧倒的な差があることなど、まともな者の中では常識! いくら一級の食材で作ったと主張しようが、クソが混ざっていればその料理はもうクソなんだよ! お前は後ろの猿どもと、靴磨きでもしてはした金を乞うのがお似合いだ!」
楽団員たちは演奏に集中しようと、多大な忍耐力を払った。
レーベンスタット・フィルハーモニー管弦楽団は、ヴァルト帝国の宮廷歌劇場つきオーケストラに端を発する楽団である。長い歴史、練度の高さを誇る彼らのネームバリューは祖国が滅びて久しかれども健在で、総督府がプロパガンダ目的であちこちの駐屯地や軍需工場に連れていくほど。
だがいくら優れた音楽家だろうと、酒気を帯びる夜会でこうした侮辱を浴びることは珍しいものではなかった。言い返したところで、いったい何の意味があるだろう?
自分たちが誇りある人間であると証明する手段など、この箱庭のどこにもないのだ。
グラスを投げつけられたロスは、自分の胸元の真っ赤な沁みは放置して床に散ったガラスを掬い上げた。ゲルハルトが差し出した銀盆に破片を託すと、ハンカチを取り出す。
「マナーが人を作る」
長い指を丁寧に拭き取りながら横顔で告げる立ち姿は、零時を指す時計の針のように真っすぐ伸びていた。
「貴族法が撤廃された今日、地位とは誇りと責務によって保証されているものだ。さて。今夜の貴官の振る舞いは、泥酔、軍装の乱れ、市民への暴力、未成年に対する下品な侮辱……正直、呆れて口も聞きたくないというのが本心だ。資格なき者に、名乗るべき称号なし」
我が身を貶める嘲弄など一切通っていないことを示す眼差しで、明白な軽蔑を込めた声が傲然と告げる。
「今夜ホールで働く人々で、貴官ごときがバカにしていい人間はひとりもいない」
背に庇われたトゥランの子どもたちとヴァルト人たちは、呆然と目を見開いた。
「黙れ!」
拳が青年の頬をしたたかに打ち、群衆がどよめいた。弾かれた眼鏡が床に落ちる。
よし、目標達成。後ろに倒れ込みながら、ロスは脳内で冷静に今後のことを計算した。
公式舞踏会での暴力行為など、社交界においても軍においても厳罰は避けられない。しかも自分は曲がりなりにも上官である。衆人環視の場でことに及ばせたのも、大げさに尻もちをつくのももちろん故意だ。これで大手を振って、規律を乱す差別主義者をクープ駐屯地から追い出すことができる。頬ひとつで無礼者を永久追放できるなんて、面倒な社交界の唯一の長所と言えるだろう。
「相変わらずだな……」
平然と自分を粗末にする青年のやり方に、ゲルハルトは呆れたため息を吐いた。
だがこれは全く、勝利ではなかった。ロスは罅が入った眼鏡を掛け直しながら、落胆した眼差しを床に落とした。
悪罵を浴びても反論ひとつ許されない、クライノートの子どもたちとヴァルトの人々。ロスが火種を持ち込んだせいで、懸命に仕事をしていた彼らは今夜、受ける必要のない侮辱を受けなくてはならなかった。……自分は結局、こんな方法しか取れないのだ。
張り詰めたその場に、細いピンヒールがカツリと響いた。




