第37話 キツネとアップルパイ(11)(挿絵)
「当時のトゥラン君主は尊号赤珠、アードゥルナルセ王。エルさんの曽祖父君に当たります。共和国軍は王を略取し、王を奪われたトゥランはあらゆる祝福を失いました。辛うじて残ったのは個々人が天輪と結んだ魔法だけで、あとには呪いばかり。まず、力強い獣の半身を喪失しました。ひ弱な人の身で敵に相対することを強いられた激戦地のトゥーラニアは、只人と同じように銃弾に倒れ、鎖に繋がれて連行されていきました。山脈の外で発症する死の病も、敵にとっては天の恵み。ベルチェスターはある手段を用いて抑制剤を作り出し、命と引き換えの服従を強制しました。この残酷な支配は、現在に至るまで続いています」
青年の声は静かだった。ピクリとも揺らがない皮膚の下に激情が流れることを、瞳に映る小さな炎の揺れだけが教えている。
「死者を弔うことも不可能となりました。同族喰らいの咎のため呪いがかけられたおれたちは、王の歌なしで恵みの雲へと帰ることはできません。ゆえに……老年となったトゥーラニアはみな、長い旅をします」
黒い指先が、ナプキンの稜線をなぞる。翠眼は胸騒ぎをこらえて、じっと小さな山を注視した。
「広大なトゥランの中央、黄金の都アランシャフルを守る霊峰ハルブルズ山。この神なる山は三千年の間、まるで奈落が噴き出しているかのように、煮え滾る溶岩を抱き続けてきました。老人たちはまだ身体が動くうちに雲を衝く山を登り、……火口へと身を投じます。我が身の始末をつけるこの旅のことを、おれの村では巡礼と呼んでいました」
カラン! と小麦色の手からナイフが滑り落ちる。瞬きを忘れたペリドットは、愕然と呼吸も止めていた。
「巡礼が叶わなかった死体を出してしまった場合は、時間との戦いです。死に至るまでに肉体の損壊が激しいほど猶予は短くなります。とにかく人里離れた場所へ運搬し、ただちに離れる。汚染を始めたらあっという間で、貪欲に周囲の人間を食い尽くします」
言葉もなかった。ただ青ざめて、燭台の灯りを見つめることしかできない。
だが深く息を吸って、組んだ手を見下ろすロスの表情は、この残酷な習わしの次に語るべきものがあるのだと告げていた。
「クープに敷き詰められた石畳の素材は、ただの石ではありません」顔の前で、黒手袋が固く組まれる。「あれを構成しているのは、トゥラン人の亡骸です」
「同族の躯は、おれたちにとって最悪の毒。たとえ微々たるものであれど、それが混ざった土地においては神なる力を使うことはできません。半身も、王の歌も、魔法も、なにひとつ。前世紀の大戦では、同族たちはサーベルや銃弾にも使われ、上空から散布される粉塵兵器にもなりました。イラスメイを不毛の大地に変えた、おぞましい死の雨です。レヴィアトゥールが死に際に遺した言葉……『黄金を殺すには、黄金を用いるべし』。百年前、ベルチェスターが手に入れた盤上をひっくり返す一手とは、この理だったのです」
エルは呆然と足元を見た。いや違う。ここは地下だから頭の上だと、すぐに天井を仰ぐ。
いつも自分たちが歩いているあの地面は、同じ民族を砕いたものだった。
「ウッ……!」
胃の中のものがせり上がる。椅子を蹴り倒して倒れ込み、膝をついて嘔吐した。
「大変!」
ちょうど、水差しを手にしたツェツィーがドアを開けたところだった。ワゴンにピッチャーを置くと、布巾を手に駆け寄る。「エルちゃん大丈夫⁉」
「触れるな!」
ロスの一喝は、氷点下の突風のように鋭かった。華奢な身体が竦む。
「……失礼。おれがやりますので」
青年はバツが悪そうに顔をそらし、それきりツェツィーのほうは見ずに膝をつくと、少女の口元をハンカチで拭った。
「あたし、遺体を踏んで歩いてたの……?」
エルは呻いた。「殺されたトゥランの人たちを踏んで、毎日平気で生きてたの?」
けたたましい音に驚いて、他の面々も様子を見に来ていた。だが誰も答えずに、ただ眉を下げて黙り込んだ。
だから自分たちはここに集められたのだ。小さな手は拳を握り、涙目で壁を睨む。
箱庭の中では、トゥラン人はただの人間である。何もできない無力な子どもを無力な大人に育て上げるため、家族から引き離された。
自分が本当は爪も牙も備えた猛獣であるということを、子どもたちは誰も知らない。
赤毛の頭は同時に、壁の外で時折上がる黒煙の意味も理解した。
子どもに対してすらこれほど手の込んだ檻を用意したベルチェスターである。クープの外にいる成人のトゥラン人など、どれほど恐ろしいことだろう。事実、翠の眼を持つ大人たちは、めぐる天輪から譲り受けた超常の力も使えるのだ。
つまり、あの煙の下で燃やされているのはトゥラン人だ。
ギムナジウムの子どもたちが壁の外に残してきた、彼らの家族が燃やされているのだ。
「今日はもうおしまいにしましょう」
作業着の薄い背をさすりながら、ロスは気遣わしげに言った。
「ゲルハルトさん、デザートは結構です。温かいミルクティーをお願いできますか」
「でもロスくん、せっかくきみが焼いたアップルパイじゃないか」
口を挟んだカムランは、眉を下げながら口ひげを撫でた。「包んで持って帰ってもらうのはどうかね?」
「カ、カムランさん!」
飄々とした青年将校は、なぜか突然狼狽えた。咳払いをすると、取り繕った微笑を慌てて貼り付ける。「なんのお話です?」
「え? 作り方を教えてくれって、ゲルハルトに頭を下げてただろう?」
「み、身に覚えが……」
「三回失敗したよねえ。最初は黒焦げ、次は生焼け。グローブ付けてるからって、オーブンに手を突っ込んだ時はびっくりしたよ! ま、当たり前だけど火傷してたね」
「……失礼、兄弟。組織内での機密管理について、少々意見が」
「両手いっぱいのリンゴだったけど、最後の一山でようやく成功! いや~、感動的だった! ぼくも思わずライラと黒ビアで乾杯しちゃったよ! よかったねえ、ロスくん!」
紳士はニコニコと人の好い笑顔で拍手した。「それで、機密が何だって?」
黒手袋で顔を覆った青年は、いたたまれない様子でうなだれた。「いえ、もう結構です……」
頭の上で交わされる、妙にのんきな会話。パチパチと瞬きをするうちに、頭蓋骨の中で荒れていた火の粉が急速に収まっていく。
「……ロスさん、アップルパイを作ったんですか?」
「いや……っ!」珍しく、目が泳いだ。「い、いいですかエルさん。重要なのは、誰が作ったかではなく」
「どうして? どうして急に? 実はお菓子作りが趣味?」
はぐらかすのは彼のお得意である。コーチ面で喋ろうとした内容はお呼びじゃないので叩き折り、スーツの袖口をひしと握った。
逃がすものかと大きな目で見上げれば、ふだん余裕綽々の銀眼は、困り果てたように揺れた。視線が逸らされたのは、観念した証。
「カ……カルダモンを使ったアップルパイを、エルさんに食べさせてあげたくて」
紅潮した肌を拳で隠して、青年は打ち明けた。
瞬間、鼻腔に甘い香りが触れる。
頭も心もいっぱいいっぱいで気づかなかった。今日のカフェ・ムネモシュネは、リンゴとスパイスがこんがり焼けた匂いに満たされていた。
涙が出そうなほど懐かしい匂い。
アップルパイはヴァルトでも珍しくない焼き菓子だが、海峡鉄道からこちらではシナモンを使うのが常識である。カルダモンを用いたものは、最果てのトリカ特有の食文化。あの地を離れて以来、一度も口にしてこなかった。
テーブルマナーのレッスン中、雑談として聞かれるがままに答えた昔話を覚えていてくれたのだ。甘いものが好きなエルを喜ばせようと、慣れない真似をして。
「……」
唇を噛んで俯いた少女の頬を、ジンジャーブロンドが隠した。きっと髪と同じくらい、真っ赤に火照っている。
テーブルの上に浅黒い手が伸び、黄金の鍵を掴む。外してから頑としてつけようとしなかったそのチェーンを、エルは頭からすっぽり被った。
ろくでもないこの世界が隠した真実は、さらに耐えがたいほどろくでもないものだった。背骨が折れそうに重い荷物もいまだ、自分に託されたまま。状況は何ひとつ好転していないというのに、湯を沸かしたように胸が温かくなるのは止めようもないことだった。
負けだ。折れてあげよう、……今回だけは。
立ち上がろうとしてよろめけば、すかさず黒手袋が差し出された。
昔、自分の両手をひいて家まで導いたのは皺だらけの手だった。庭先まで漂っていたパイの匂いも、エメラルドグリーンのドアも、その向こうで待つ人々が浮かべた笑みも、久方ぶりに思い出せた。香りはいつだって、忘れていた記憶を目覚めさせてくる。
かつて最果ての地に、幸せな女の子がいたこと。彼女は家族を愛し、鹿を愛し、隣人たちを愛していたこと。彼らもまた彼女を愛して、接続し循環する大きな機械が稼働していたこと。
あの機械は壊れた。粉砕されて灰となった。だが確かにそこにあったし、それは無意味なことではないのだ。
「ありがとうございます。……食べます、アップルパイ」
手を差し出しながら、ロスは不思議そうに瞬いていた。これと決めたら最後、顔が半壊しようが決して退かないクイーンが固い意思を突然譲ったことに、彼は驚いたようだった。
エルはまっすぐ笑みを返した。
「胃がはち切れても頂きます。ワンホール、ひとかけらだって残さずに」
胸が温かくていっぱいで何も入らないようなこの気持ちも、久しぶりのこと。
「あたしらにも一口分けとくれ!」バッスルドレスの淑女は大口を開けて笑った。




