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黄金機械 ─奴隷少女、10万人を率いて蜂起せよ─  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
第5章
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第28話 キツネとアップルパイ(2)

「トゥールもあなたを愛しています、おれと同じように。おれがエルさんに望むのは、元気にすくすく育ってほしいくらい。ですが、トゥールはそうではありません。注文が多いその鍵にとって、あなたはたったひとりの伴侶。きっとまだまだ成長してほしいのでしょう。エルさんに必要なのは、時間だけです」


「え、あ、うえ……⁉︎」


 せっかくの励ましは、残念ながら右から左に素通りした。(すすす好きって何⁉ どっどどどういう意味⁉)と動転する少女に、青年は可笑しそうに笑っている。……この飄々とした感じ、ちっとも口説いている雰囲気じゃなさそうだと、エルは髪と同じくらい赤くなった顔で睨んだ。


「もう、誤魔化(ごまか)さないでください!」


守護(ハーフェズ)が王を誤魔化すだなんてとんでもない」


 白々しいことを言いながら、立ち上がって衝立(ついたて)の奥のティートローリーを引き寄せる。


「まずはテーブルマナーから始めようと、おいしいお茶とケーキをご用意しました」と黒手袋が給仕したのは、色とりどりのタルトやフルーツが乗った三段のケーキスタンド。


「そんな食べ物なんかで釣られませんから!」プイと背けた顔は、視界の端に物体を捉えた途端、いとも容易くキラキラ輝いた。「わああ……! 宝石みたい!」


「アフタヌーンティーはご存知ですか?」


 向かいに腰を下ろした青年の前には、カフェの店主がティーカップを置いた。ギムナジウムにマナー教育はないが、一般常識程度は備えているつもりだ。「名前だけなら」と(はや)る気持ちでナプキンに手を伸ばし、一番外側のフォークを持った瞬間。


「エルさん。減点です」


 チタンフレームの奥で、銀眼がニッコリと微笑んだ。


「マナーが必要な場所とは、端的に言えば戦場。淑女の心得その一、常に余裕を見せること。料理が来て早々とナプキンに手を伸ばすのは、わたしはお腹がペコペコでそれを隠す能もありませんと言っているようなものです。まずはゆったりと挨拶を済ませ、お互いの服装を褒め合い、テーブルや装花のセンスについて歓談してから、今気がついたかのような素振りで食事を始める。たとえ餓死寸前だったとしてもね。あと、足を組んでいいのは格下の前だけです」


 エルはフォークを持ったまま硬直した。そろそろと両足を床につける。


「くつろいで召し上がってください」


 ロスは組んだ両手の上に美しい顔を乗せ、全くくつろがせる気のない微笑を浮かべた。


「あ!」


 ケーキの上のアーモンドがフォークからぴょんと逃げ出した。てこの原理で射出された小さなミサイルはクロスにワンバウンドし、床に落ちる。伸ばした右手が虚しく空を掻いた。


「……」


「減点です」


 コーチはやれやれと首を横に振った。「その手、ナッツを捕まえようとしたように見えますが、まさかそんなはずありませんよね? 空飛ぶアーモンドをキャッチして褒められるのは、サーカスのおサルさんだけです」


「うぐう……!」


 いったい何点スタートなのかは不明だが、この調子では0点に至るまでそう遠くない。肩を落としたエルに、エリカの向こうで笑いが漏れた。


「誤解しないでください。問題は失敗したことではなく、それで慌てたこと。淑女の心得その二。たとえ他人のシャンパンを飲み干そうがキャンドルを倒して店を全焼させようが、何か? という顔で悠然と佇む。これがレディーというものです」


 ろくでもないものを教え込まれようとしている。勘の良い赤毛頭は悟った。


 紅茶を(たしな)む青年の手つきは確かに優雅だった。だが今日も両手の黒グローブは外していない。「手袋はマナー違反じゃないんですか?」とじっとり睨む生徒に、ロスは「鋭いですね」と悪びれもしなかった。


「そのとおり、グローブは食事とカードゲームの最中は外さなくてはいけません。これは物心ついた時から装着させられていたので、クセでして」


 エルは眉を下げた。「肌が弱いとか?」


「どちらかといえば、おれではなくて周囲のため。腹が立つ相手に火で報復していたら、こうやって封じられたんですよ」


 物騒なことを言いながら指先を擦る。「もっとも、今ではチャチな火花しか出ませんけど」


「火花しか出ないのは、ロスさんが不良軍人だから? それともここが箱庭だから?」


「真面目な軍人だったとしても火花しか出せません!」


 軽口に笑ったロスは何かを思案するように、「そうですね」と紅茶に目を落とした。


「……それはまた、後日。ゆっくり行きましょう。おれはまずエルさんに、おいしいものを食べてほしいんです」


「……」


 こんなとんでもない代物を渡しておきながら悠長にティータイムだなんて、いったい何を考えているのだろう? 端正な顔が作った出来すぎた微笑から本心は読み取れず、エルは渋々と、蜂蜜ケーキの三角形の先端にフォークを入れた。


 たっぷり乗ったクリームが垂れないよう細心の注意を払って、一口。


「……甘い!」


 唾液腺が爆発した。灰色のパンと缶詰スープだけを給餌されてきた身体は突然のハイカロリーの供給に狂喜乱舞し、全脳を上げたピカピカの電飾パレードを開催した。「お、おいしすぎるぅ……っ!」


 突っ伏して涙ぐむというレディーには程遠い反応だったが、コーチは壁掛けの静物画に興味を持ったらしく、ちょうど視線を外していた。……あらぬほうを向いたロスはさらに口元を隠すことで、緩んでしまった頬がバレないようにした。


「喜んでもらえて光栄だ」


 腕にトーションをかけた店主も口髭の下でかすかに微笑んだ。ヴァルト人の彼の名はゲルハルト。


 白手袋の手が、エルの前にもティーカップを置く。透明なガラス製のカップの中には、小さな鞠が鎮座している。何だろうと見つめていればポットから湯が注がれ、透明なお湯は一瞬にして、よく晴れた宵空のような青に染まった。


 熱湯が当たってほぐれた鞠から小さな花々が溢れ、ピンク、黄色、翠……宝石の欠片が散る。水色(すいしょく)には黄金が滲み、群青はカップの底で渦を巻き、柑橘類に似た(かぐわ)しい蒸気が鼻腔を満たした。


 一杯のカップで成立した芸術を、エルは食い入るように見つめた。


星茶(オルドゥーズ)ですか、懐かしい」


「わたしが作った(まが)い物だがな」しみじみと目を細めたロスに反して、ゲルハルトは不満げだった。


「魔法のことはよくわからんが、三千年の歴史を持つ国家の元首だというのにベルチェスターごとき新参国のマナーを学ぶというのは、どうにも腑に落ちない。自国の習俗を優先すべきではないか?」


「仰るとおり。壁を壊した暁にはたっぷりと」


「フン、いつになることやら」


 ゲルハルトの言から察するに、この花の開く茶はどうやら自国の習俗――トゥランの産物であるらしい。興味深い知識はしかし、赤毛頭を通り過ぎていった。


 今は小さなカップの中にある宇宙を、両手いっぱいに見上げていたことがある。


 息をすれば肺が痛むほど冷たい空気も、凍りついた睫毛が上瞼に触れる感覚も、よく知っていた。




 ――聖顕歴(イニティウム)1920、最果てのトリカ


「可愛いエルちゃま、おはよう。今日もいい朝よ」


 魚脂ランプに火を入れた老婆が、こんもりと丸くなった毛皮の山に声をかける。


 大きな白樺の柱時計、円形に石を積んだ炉、鉄製の薪ストーブ。壁には黒地に鮮やかな刺繍が映えるトリカ織りのタペストリー、温まった空気で天井から揺れているのは幸運を呼ぶ八角形の金属細工。


 毛皮の中からもぞもぞと赤毛の頭を出せば、温かなミルクが鼻先で湯気を立てた。


「おはようおばあちゃん……」


 ヘンナはいい朝よとは言うものの、三重窓に映るのはオイルランプに照らされた室内ばかり。外は真っ暗闇だ。


 極夜のころのトリカでは、正午前後に淡い薄明がもたらされるだけで、あとはずっと夜が続く。


「お前さんのママはいつもどおり朝寝坊。朝食はおいしいチーズとお芋。ごはんのあとはポポたちのお世話をしてお勉強よ」


 よく回る口で歌うように告げるのは、毎日変わらないタイムテーブル。世話好きの村長(むらおさ)はふわふわのジンジャーブロンドを手早くおさげに編み込むと、シカ模様の赤いケープを羽織らせた。小さなお盆に朝ごはんが並べられていく。樹木粉のパン、バターサーモン一切れ、ポポヨラのチーズ。


 最果てのトリカは、麦類の栽培北限を過ぎた土地である。苦肉の策で生み出された樹木パンはアカマツの内皮を乾燥させて挽いたもので、味はえぐみが強く、食べ過ぎたら腹も下るとんでもない代物だ。だが料理上手なヘンナが焼けばパリッと香ばしい(クラスト)肌理(きめ)細かいクラムがもっちりと伸び、樹の香りも(かぐわ)しく漂う一品となった。もちろん炙りたての濃厚な鹿チーズも欠かせない。


 食欲をそそる朝餉の匂いに、胃がぐるると動き出す。エルは思いっきり伸びをして、大きな翠眼をパチリと開けた。


「任せて」


 トリカ西北の丘陵、帆角鹿(ポポヨラ)と生きる半農半猟の村スュクス。


 ニルファルとエルを除いてあとはみな老人揃いの村人たちは、白い肌に銀の髪と目をした民族だった。彼らと同じ祖を持つというニルファルもまた、真珠の肌に銀髪の美しい女だった。雪から生まれたような人々の中にあって、エルだけが遥か南の血脈を露わにしていた。


「どうしてエルちゃまはみんなと色が違うの? 大きくなったらおんなじになる?」


 自分と周囲の差異に気づいたのは三歳のころ。


「いいや、エル。大きくなっても、きみとみんなの色は違う」


 嘘をつかないニルファルは、幼い娘に対しても真実を伝えた。


「どうして?」


「きみが世界一可愛いから」……嘘はつかないが、褒めそやして(けむ)に巻くことはよくあった。


「日の当たる大地の色をした肌、黄金と血潮の間の髪、闇を照らす大きなペリドット。特別可愛いきみが雪の中でも目立つように、神々は鮮やかな色をつけられた」


 まるで真っ白な風花ウサギの群れに混じった夏毛のオコジョだというのが、エル本人の見解だった。だが育て親たちはお姫さまだのチビかぼちゃだの思い思いの愛称で呼び、世界一可愛いと毎日褒めてくれた。


 他人と違う外見を厭うことなく、健やかに少女は育った。最愛の母とお揃いの翠眼は、銀眼と同じくらい素敵だと誇らしかった。


 いびつな人口比を疑問に思うのは、ずっと先のこと。ニルファルが生みの母ではないということ、ヘンナが祖母ではないということ、それどころかスュクスの村と自分の血は一滴も関係がないのだということを教えてもらえるのは、少し大人になってから。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 愛されて育つ無邪気なエルちゃまが可愛いです! そして最高のアフタヌーンティー。 食事もお茶も描写が丁寧で、うっとりしました。 ああ、参加したい!! 静物画を見ているふりをして、ニヤニヤを…
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