第27話 キツネとアップルパイ(1)
頭を上げればそこは一面澄んだ闇で、大気と宇宙に境界はないのだという事実を知らしめるような夜空だった。
果てしなく高いのだと思われたが、ニルファルが語るところによればこの世界には上や下というものは存在せず、ただ中心と周縁があるだけなのだという。我々は星の中心に向かって落ち続け、星も銀河の中心に向かって落ち続けて、銀河も宇宙の中心に向かって落ち続けているのだから、本当はこれも見上げているのではなく見下ろしているのかもしれなかった。
大きな翠の瞳はポポヨラの革で編まれたブーツを見てから、もう一度空を映した。
いま両足で立つ湖氷の上から全て、宇宙の領域。白い息が立ち昇っては消えていくこの場所と、はるか頭上で瞬く天鷲星は同じ地平に存在する。
認識しようと身体感覚を伸ばせば果てのない話に自分自身を見失ってしまいそうで、目眩を感じた幼子の肩を長い腕が支えた。
「眠くなってきたか?」
突然重力が消え、ぐんと視界が高くなる。肩車をしてもらったエルは、女の銀髪を掴んで何度か強めに瞬きをした。睫毛はすっかり凍りつき、目を擦ろうものなら大変なことになるのだ。
「もう少しだ。ほらご覧、ずいぶん高く上がってきた」
女が示す茫洋とした宙の闇には、水筆でひいたような翠の帯が伸びていた。
黄昏刻と夜しかない冬のスュクス村で、数時間をかけて地平線から中天へと昇ってきた光帯は、あと数分で踊り出す。揺らいだ瞬間パッと広がって、光を知らない夜の底を支配下に置く。
果たして女の予言どおり、光帯は揺らいだ。
宇宙の果てから届く風に煽られて、カーテンの裾が舞う。それは爆発の前兆である。
息を呑んだ瞬きの間、天球中に広がった光は無数の色をなし、亀裂から吹き上がる炎となって極北の空をあぶった。
「わあ、すごーい!」
膨大に広い銀世界、幼子の歓声が世界の片隅を揺らした。
「あれが極光。科学界が磁器嵐と呼ぶように、この星の磁極に引き寄せられた太陽風が大気に触れ、千紫万紅の色を発したものだ。共和国の言語ではノーザン・ライツ、我々の言葉ではレヴォントーリと名を変える。雪原キツネたちの巻き上げた粉雪が天空で火花となった、果ての地でしか見れない狐の火。さてエル、きみのその目には何色まで映る?」
この地では神話と歴史の間に境界はなく、精霊と人間は隣人同士であり、魔法と科学は等しく尊い知識であった。気象現象についての学術的な説明は、人々の間で語り継がれてきた民話へとすり替わった。
悪戯っぽく微笑む女の瞳は、翡翠色。
「んーとねえ。上から赤、ピンク、緑、黄色とあれは~……」眠気を含んだ稚い声が思案する。「キッカのジャムの色!」
「キッカのジャム? ああ、ビルベリーのアントシアニンか、さすがの視覚能力だ」
「一番高いところでひらひらしてるのは、エルちゃまの色だわ」
他人に呼ばれるとおりに自分のことを呼ぶのが幼子である。
聖顕歴1920年、エルは七つの年を数えた。
そろそろ他所行きの一人称を覚えてもいい頃だったが、寒村の大人たちは自分に敬称をつける幼児を見ても愛おしそうに相好を崩すばかりで、誰も矯正そうとしなかった。おかげで長じて恥をかいた。
「緑は緑でも、北極星のあたりはママの色よ。夏のナイネン川とおんなじ青、カワセミの背中とおんなじ翠」
どこに指があるか定かではないまんまるのミトンが、青みがかった緑炎を指し示す。
「……」
ニルファルはしばし、片手で顔を覆った。グッとこらえていなければ、天に向かって腹から快哉を叫びそうだった。夏至のお祝いで連れ出したピクニックを覚えていただけでなく、小さな頭が知っている限りで最も美しいものに、自分の瞳を喩えてくれるとは。この子がおくるみに包まれて眠っていたのは、ほんの少し前だというのに。
「……まったく、世界一のお姫さまだ!」
女は幼子を抱きしめて、捏ねたてのパンのような頬に思う存分キスの雨を降らせた。
丘の稜線にいくつかの灯りが滲み、おおーいとたくましい声が届く。
スキーを履いた人々は松明を片手にストックを巧みに操って、あっという間に帆角鹿たちと湖氷へ滑り降りてきた。夜間巡回警備の老人たちである。
「こんな夜更けに何してるんだ先生」
「夜更けじゃない時間がありますか?」
ニルファルは手にした天球図をトンと叩いた。「ご覧の通り、極夜におけるレヴォントーリの活動観察。うちのお姫さまのお勉強の一環です」
「レヴォントーリ?」
警備隊は揃って頭上を仰いだ。
闇をあぶる極彩色のカーテンを見上げる目は、すべて雪のような銀。
「……あんなの見て面白いかね?」
神秘的なオーロラも、彼らにとってはいつもの空模様である。物好きだねえと言わんばかりの相槌に、外の土地からやってきた賢者はコンとひとつ咳をしてから、気が抜けた笑い声を上げた。
極夜にはためく光に照らされた大地は、レムリア大陸北限の亜大陸。
遥か南に下ればザグレタ山脈の最北起点に辿り着き、万年雪の急峻な山岳の先にトゥラン領が広がる。西南へ下れば、葡萄酒色なせるナウィアスカ諸島。この世で最も美しいと謳われる島嶼部を縫って海峡を渡れば、ベルチェスター共和国領の北端へと至る。
あらゆる領土の北の果てより、もっと北。ここより先には古凍海しかなく、高波と氷山が船を砕く極低緯度の海原を越えて帰った者はいまだ存在しない。
冬至を挟んで実に三ヶ月、一度も太陽が昇らない長大な夜に支配されたその地のことを、人々は最果てのトリカと呼んだ。
「レディーが腰掛けるのは、男性が椅子をひいてから。自分の手で椅子を動かしてはいけません」
隠れ街のコーヒーハウス、カフェ・ムネモシュネの二階。ペールブルーのクロスの上に白いエリカを飾ったダイニングは、何も知らなければ高級レストランの個室のよう。
「背もたれと身体の隙間には、猫が一匹入るくらいで。ああ、アン・マリーではなく一般的なサイズの猫をイメージしてくださいね」
「あ、あのですねロスさん」
到着早々開始された淑女教育を、甚だしく眉を寄せた赤毛の少女は片手を上げて制した。
「一晩、状況を整理したんです。それでやっぱり常識的な結論として……こんなことしてる場合じゃないと思うのですが⁉︎」
花瓶の向こうの青年に、胸元から取り出した黄金をビシッ! と突きつける。
こんなこととは、詐欺みたいな流れで決定された淑女教育のこと。
赤毛頭を占める最重要課題は、鍵についてである。
「導きのトゥールって、本来なら大砲だろうと戦闘機だろうと、物理法則をガン無視して何でも出せちゃう魔法のランプなんですよね?」
「ええそのとおり」
「でも実際に登場したのはバナナの皮とクロスボウ、読もうとしたら溶けた歴史書だけ。意識的な使用はバチバチ拒絶するときた」
顔の前で両手を組んだクイーンは、「これは由々しき事態です」とシリアスに告げ、対する青年将校は「そうでしょうか」とのんびり返した。
「だってトゥールの力があれば、すぐにだって戦えるんですよ⁉」
顔の前の黄金を睨みつけ、翠眼は悔しげに歪んだ。「真実あたしが王だっていうなら、今すぐ使いこなせるようにならなくちゃいけないはずです。……クープの中で猶予なんて、一日だってないんだから」
焦燥に駆られて唇を噛み締めた表情は、普段のエルを知る人々が見れば目を丸くするに違いないものだった。
だがロスは何もかも承知しているとでも言うように、あっさり微笑んだ。「焦らないで。大丈夫ですから」
「な、何の根拠があって⁉」カッと言い返すのも、彼女にしては珍しいこと。
「焦らないなんて、そんなの無理です! だってあたし、ずっと、ずっと……」
ずっと、の次の言葉を継げないまま言葉尻はすぼんでいき、エルは胸元のシャツを握りしめて、何かを諦めたように悄然と肩を落とした。エリカの花がかすかに揺れる。
この焦燥は昨日得たものではない。箱庭に収容された時には、すでに根深く生えていた。地の底で産声を上げて以来ずっと、自分を急き立てる何かがあるのだ。
チクタク、チクタク、耳の奥で鳴るのは時計の音。規則正しい秒針の歩みは飽きもせず、同じ白夜をずっと繰り返す。
「エルさん。おれはね、あなたのことが好きなんです」
食えない笑みを浮かべた青年が不意にやってのけたのは、まさかの愛の告白。
「はえっ⁉」
思い詰めていた顔から素っ頓狂な声が上がる。一瞬で耳まで真っ赤に染まり、「どこもかしこも余すことなく」と言い重ねられて、言葉を失った口はパクパクと開閉した。




