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黄金機械 ─奴隷少女、10万人を率いて蜂起せよ─  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
第2章
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第11話 ともし火は闇の前(4)

「授業中にお邪魔してすみません。クープの子どもたちの学習習熟度について調査するよう、本国から指令がありましてね」


 つまり抜き打ちの監査である。前代未聞だ。


 それとは気づかれないよう、エルはチラリと視線を上げて大人たちの中を探した。視力の良さには大いに自信がある。


(いた……!)


 総督の外出に伴って、ブレイク隊は護衛の任を果たしていた。


 金髪の隊長の隣で、銀の髪をしたスカーフェイスの青年は後ろに両手を組んだ直立不動の姿勢を取り、今日も規律そのもののような佇まいをしていた。


「習熟度の調査というと……?」


「あ~と、口頭試問だ。教諭は何もする必要はない」


 不安げに尋ねたグンターに対し、文官のうちのひとりが答える。バインダーの書類に目を落とした彼は、垂れ目の顔を見えづらそうにしかめると、少しだけ距離を離してピントを合わせた。


「総督閣下はお忙しい、手短に済ませよう。ここのクラスはアルファだったな。では、ブリタニア七王国を統一したのは?」


 テストは唐突に始まった。


「西グウィネド王国のウェゼルレッド大王です」


 即座に答えたのはキリルだった。「829年、マルシア王国を征服して大グウィネド王国を建国。北方蛮族の侵入を食い止め、後世の連邦へと続く盤石な国を築きました」


「スタンリー朝エリオット二世に対し、議会が提出したのは?」


「権利請願書です」今度はシャロンだ。「王は請願を無視して議会を解散させたため、戦争負債の責任を求めて第二次ベルチェスト内戦が起こりました」


 鉄騎隊、王政打倒、海上覇権戦役、共和制の発足、革命……多様な時代に渡る諮問であっても、クラスからは我先にと手が挙がった。淀みのない回答に総督は満足げに微笑み、青ざめていたグンターの顔色も戻ってきた。


「素晴らしい! さすが勉強熱心なヴァルト州のアルファだけありますね!」


 ハロルドの鷹揚な拍手で、口頭試問は締めくくりを迎えた。


「では最後に、わたしからも一問だけ。……讃美歌『聖なるかな星の祈り』における聖句は?」


 初めて、アルファたちの回答が止まった。


「おいおいおい、だれもわからないのか?」


 バインダーから顔を上げた文官が呆れたように片眉を上げる。よく見ればカミソリ負けした薄い肌に、無精髭が生えていた。


「お、お待ちください」


 冷や汗を拭いながらグンターが反駁(はんばく)した。


「聖句の理解は聖辞学の内容です。つまり統一試験の範囲外にありまして、ギムナジウムのシラバスには含まれておらず……」


「なぜ教えていない! 試験が全てなど教職者として恥ずかしいと思わないのか⁉」


 無精髭の文官とグンターの間にドカドカと割り込んだのは、小太りの文官だった。


「讃美歌は、連邦共和国民の心だろうが!」


 いや、知らんて。


 エルの心中のツッコミは、教室内の全ての生徒と一致した。


 讃美歌とはベルチェスター秘蹟教会において礼拝に用いられる歌で、聖句とは聖典からの歌詞の引用箇所である。


 認定された讃美歌は二百にも上り、そのうえ東部のドウェインでは『輝く百合の丘』、南部のソルフォードでは『主よ来たれ』など地方によって()()讃美歌は異なるといった事情から、聖教徒であっても別の地方の歌は知らないことも多々あった。


 数多くの讃美歌の中から『聖なるかな星の祈り』を上げたからには、この総督、出身は北部ということである。


「まさかとは思うが……余計なことを教えているのではないか?」


 生徒たちもグンターも、教壇の上の資料の山に向かおうとする視線をこらえた。


「あ、ありえません」


「再教育センター行きだな」


 小太りが下した決断は無情だった。息を飲む音とともに、グンターの手から教鞭が滑り落ちた。


「待ちなさいデイヴィッドくん。少々、拙速に過ぎますよ」


「閣下。調査命令の真の目的は、クープに潜む反乱分子の洗い出しです」


 ハロルドの制止に対しても、男は子どもに諭すように首を振りながら、脂肪で膨れた指を立てた。


「ネズミのいない倉庫は誰にも褒められませんが、害獣の死骸を咥えてきた猫は飼い主からの評価が上がります。たった一匹のネズミを引きずり出すだけで、共和国議会には誰が倉庫の管理者にふさわしいのか教え、下級国民たちにはその身の程をわかりやすく知らしめることができるのです。かくして、クープは明日も平和に回っていく。これほど簡単な計算があるでしょうか?」


 青ざめたグンターは言葉もなかった。大きく息を吸ったフェルディナントは何事かを言いかけたが、「ヴァルト人の代わりなどいくらでもいます。広場のハトみたいなものだ。根暗の策謀家どもめ」という冷たい軽侮に、チョビ髭の下の口を閉じた。


 ブレイク隊の鋭い視線が教壇に向かう。獲物の出現を察し、大人しくしていたハウンドはいつでも飛びかかれると言わんばかりに爪で床を掻く。


「恐れながら高等文官」


 今にも始まりかけた連行を止めたのは、温度のない声だった。


「得体のしれない遠くの脅威もよいですが、愚かな民衆には、目前で流される血がもっとも効果的です」


 淡々と進言する銀髪の青年は、入室した時の姿勢を微塵も崩さぬままだった。高官への(おもね)りもなければ、民への慈悲もカケラひとつない。よくよく見れば隊服の星は三つ――ブレイクの副隊長である。


「ローザント法においては、統治法違反者には猫鞭(キャットテイル)を始めとした各種刑罰が定められています。反社会思想の流布に該当するとすれば……そうですね、猫鞭およそ三十打ほどが妥当かと。ちょうど、フェルゼ広場に新しい処刑台が完成したところです。ギムナジウムの教師ですら公開鞭打ち刑に処される様を見せれば、気が緩んでいる属州民もおのれの立場を改めて理解するでしょう」


 猫鞭(キャットテイル)。九本の細い革鞭から成るそれは、たった一打で皮膚を裂き、五十打を超えれば強健な成人男性の生命すら奪う、悪名高い()()()()()


 三十発も受けたなら、二度と教壇には立てない身体となる。果たして死の収容所の住人となるのとどちらがマシなのか、子どもたちには判断がつきかねた。二十対ほどの緑の瞳は呆然と見開かれ、次いで救いを求めてアガタとフェルディナントを見た。


 無力な教職者たちは凍りついて動けず、唐突に二択の破滅を宣告された青年は、ハシバミ色の双眸にここではない遠い彼方を(のぞ)んだ。


 押し込められた箱庭のどこにもないところ……たとえば、碧玉を塗り込めたように青い空の下に広がる大地を。


 ――きみの声は特別だ。語る時と語る言葉には気をつけなさい。


 時を止めた教室で、最前列の赤毛の頭だけは、誰のものでもない言葉に耳を澄ませていた。


 ――歌は特に、簡単に口にしてはならない。


 小指と小指を絡ませて見上げた翡翠のごとき美しい瞳を忘れたことは、一日だってない。


 生まれ育った村は酷寒の地だった。エルが六歳になった年の瀬、その人は高い熱を出した。元から強い身体ではなかったが、不調が目に見えてわかるようになったのはあれぐらいの時分。新年の御馳走も食べられず苦しそうに咳き込む彼女を前に、少しでも楽になってほしくて子守唄を口ずさむと、その人はしばし翡翠の目を見開き、苦笑いまじりで辛い身体を起こした。そうして娘に約束させた。


 以来、エルは決して歌わなかった。壁の中に紛れ込んだ後、級友たちがどれほど楽しげに声を揃えていても、鼻歌ひとつ口ずさまなかった。


 母であったあの人との約束を破るのなら、それは自分ではない。


 だが、大事なものが手から零れ落ちるに任せるのなら、それもまた自分ではないのだった。


「星(のぼ)りて 乙女あり……」


 最前列の中央から澄んだ調べが立ち上がったのは突然だった。


(おとな)い知るは 地のともしび……」


 優しい春の雨音に似た歌声は、これまで一度も歌ったことのない少女から溢れていた。


 ギムナジウムの面々は信じがたいものを見る顔で眺め、副隊長の青年は眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、稲妻でも受けたように立ち尽くした。

 


 ともしび消えて 星は輝き 救いの歌が木霊せり

 聖なるかな 血なる大河 終わることなく続きますように

 聖なるかな 骨なる大樹 尽きることなく芽生えますように



 出だしの低音は暖かく、高音は蒼天のように清々しく、わずかな乱れすら見せずに讃美歌は歌い上げられた。


「見事だ……」


 ハロルドは目元にハンカチを当てて感涙を押さえた。


「『聖なるかな星の祈り』の聖句は、ネレク書十一章第一節です」


 立ち上がったエルは、慎ましやかに礼をした。


「お許しください、総督閣下。閣下のご威光にみんな緊張して、歌い出せなかっただけなのです。フリーデル先生は連邦で育つことのすばらしさをいつも教えてくれます」


 宝石のような翠の瞳に、輝く涙の膜が張る。


「連邦に人生を捧げることがあたしたちの夢。どうか、先生をどこにも連れて行かないでください。……ベルチェスター連邦共和国に、栄光と自由あれ」


 震えを抑えた声で深々と頭を下げた際にポロリと零れた粒は、床に可憐な跡をつけた。


 讃美歌を歌い教師の助命を切々と訴える少女の姿は、まるで白百合のように眩しかった。胸を打たれた高官たちは、ほうとため息を吐いた。――おぞましき血が流れる子どもでも、自分たちの統治によってこんなにも敬虔な信徒に、そして身の程を知った忠実な(しもべ)へと、作り替えることができたのだ。


「デイヴィッドくんもブレイクの隊員さんも、怖いことを言ってはいけませんよ」


 黒尽くめたちの後ろから、温かな声がかけられる。


 杖を鳴らして進み出た箱庭の支配者は、「申し訳ない、フリーデル先生。シラバスにない試問を不用意に投げたわたしのせいです」と眉を下げた。


 総督から謝罪されるなどというありえない事態にグンターは激しく瞬きしたが、「可愛い子どもたちから先生を奪うようなことはしませんよ。安心してください」と重ねられて、大きく足元をふらつかせた。


「小さなカナリアのお嬢さん。きみの名前を教えていただけるかな?」


 老紳士は少女の頬にハンカチを当て、零れた涙を優しく拭った。


「エル・スミスでございます、閣下」


「おや!」


 ハロルドは空色の目を見開いた。「名前まで素敵だとはね!」


「覚えておきますよ、エル。天使の歌声をありがとう。……私たちの娘も赤毛でね。その色には弱いんだ」


 悪戯っぽいウインクに、目を丸くした少女ははにかんだ笑みを返した。再び従順に下げられた頭の中では、(あしながおじさんに絵をつけるとしたら、きっとこんな感じのチャーミングな紳士に間違いないわ)と考えていた。


 抜き打ち監査は、こうして()()()()()完了した。


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