漆:婚約発表
夕食は、先程分家の者が一堂に会した広間に用意されるとのことだった。
しかしその時間よりもかなり早く、暦家に仕える使用人が椿を呼びに来た。
「樹様より、椿様のご準備を仰せつかっております」
洗練された仕草で一礼する老年の女性は、根元と名乗った。
根元は霊力は持たないが古くから暦家に仕えている一族で、先代当主の秘書的存在だった側近も根元家の家長だ。
彼女は壁に掛けられていた椿柄の着物を素早く畳むと、椿についてくるよう促した。
彼女は広間から程近い個室に入り、着物を再び壁に掛ける。
結局根元が運ぶのなら、わざわざ先程自分が受け取って部屋に持ち帰らなくても良かったのでは、と一瞬思ったが、おそらく『求婚の証である着物を相手が受け取った』という事実が必要なのだろうと解釈した。
「さぁ、お召し替えと、髪も結いましょうね。それからお化粧も! 腕が鳴りますね!」
根元が腕捲りをして素早く襷を掛ける。
妙に張り切った様子に気圧されながら、されるがままに着付けされ、髪を結い上げられ、軽く化粧も施された。
それらが終わってすぐに、樹が部屋に入ってきた。
椿柄の着物に袖を通した椿を見て、一瞬驚いたような顔になったが、すぐに満足そうに微笑む。
しかし、樹が何か言うより早く、根元が彼に詰め寄った。
「まぁ! 坊ちゃん! いくら婚約者だからといって、淑女の部屋に断りなく入ってはなりませんよ!」
「シゲ、俺は当主になったんだから、もう坊ちゃんはやめてくれ」
不満げに唇を尖らせた樹に、シゲと呼ばれた女性は朗らかに笑う。
「そうでした。大変失礼をば。しかし、このシゲにとって、樹様はいつまでも坊ちゃんですから」
暦の当主に対して失礼とも取られかねない物言いだが、樹は軽く嘆息して肩を竦めるだけだった。
「ああ、椿様、驚かせてしまいましたね。私、根元シゲは、幼少期から樹様の世話係をしておりまして、その関係でこういった軽口も許されているのです」
「そうだったんですね」
「それよりも、樹様、着飾った婚約者様を前に、無言とはいただけませんね。何かお声をかけて差し上げたらいかがです?」
「声を掛けようとしたのを遮って、詰め寄ってきたのはシゲだろうが」
心外そうに答えて、樹は椿の前に立ち、こほんと咳払いした。
「綺麗だ。よく似合ってる」
「あ、ありがとう」
褒められたことがない椿は、真っ赤になって俯く。
そんな彼女の手を取って、樹は自分の左腕に添えさせた。
「行くぞ。もう皆揃ってる」
「うん」
緊張しながら頷く椿の手は小さく震えている。
その手に、樹は優しく自分の右手を重ねた。
「大丈夫だ。誰にも反対はさせないし、お前は俺が守るから」
優しく微笑む樹に、椿は胸が高鳴るのを感じた。
早鐘を打つ心臓が煩い。
その音に気付かれないよう、なんとか平静を装って頷く。
「……うん。でも、私も、ただ守られるだけは嫌」
自分の右手に重なった樹の手に、更に左手を重ねる。
「私も、樹のためにできることは、頑張りたいから」
椿が本音を漏らすと、樹は虚を突かれたような顔をして、それからふっと相好を崩した。
「……やっぱり、お前を選んで正解だったよ」
そう言って、樹は椿の額にそっと唇を落とした。
「……今はこれで我慢するが、初夜は覚悟しろよ」
悪戯っぽく耳元で囁かれ、椿が茹蛸のように真っ赤になる。
「……坊ちゃん、早く行かないと、皆様お待ちですよ」
すっかり存在を忘れていたシゲに声を掛けられ、椿が文字通り飛び上がる。
「……ああ、そうだったな」
樹は苦笑しつつ、椿を促して廊下に出た。
樹にエスコートされて広間に入ると、十一人の分家の真家長が揃っており、樹と椿が入ってきた瞬間に、向日葵と紫苑以外の全員が心底驚いた顔をした。
樹と椿が並んで上座に着き、樹が宣言する。
「俺は如月家の真家長にして第一の《鍵》となった如月椿と婚約した。椿が十八になったら入籍する。これからは二人共々、よろしく頼む」
いつ入籍するかをこの場で初めて聞いた椿がぎょっとして樹を振り返るが、彼は横目で彼女を見て唇を吊り上げた。
そして口パクで挨拶しろと促してくる。
急に挨拶を振られて頭が真っ白になる中、なんとか当たり障りのない言葉を絞り出す。
「この度、樹様と婚約いたしました。まだ未熟者ですが、精進しますので、今後ともよろしくお願いいたします」
一瞬、しん、と静まり返ったが、向日葵と紫苑がぱちぱちと手を叩き出したのをきっかけに、他の者も拍手で応えてくれた。
菖蒲だけが、驚愕と憎悪に満ちた顔で椿を睨んできたが、その視線に気づいた樹が彼女を一瞥したことで、彼女はさっと顔を伏せた。
「さぁ、食事を始めよう」
樹の声で、料理が運ばれてくる。
すぐに賑やかな雰囲気になり、真家長たちは代わる代わる樹と椿に挨拶にやってきた。
だから椿は気付かなかった。
菖蒲が長いこと離席していた事に。
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