陸:赤眼の鬼
着物を受け取って、椿は樹に送られて如月の間に戻って来た。
「……信じられない」
壁際に掛けた着物を眺めながら呟く。
夢を見ていたのではないかと思うが、その着物が、刻まれている暦家の家紋が、現実だと教えてくれる。
樹は、これからは敬語も敬称も不要だと言った。
今後は様付けで呼んだら怒る、とも。
「……もう、あの家に帰らなくて良いなんて……」
実感が湧かない。
早速今日の夕食の時に、真当主に向けて自分たちの婚約発表を行うと樹が言っていた。
そして《継承の儀》が済めば、椿は如月家の真当主であり《鍵》であり、樹の婚約者となる。
真当主は本来、《継承の儀》が済み次第自宅へ戻り、通常の退魔の任務に当たることになっているが、《鍵》に選定された者は、それに加えて年に四回、結界の僅かな解れを修繕するために本家に集合し、《修繕の儀》を行う事になる。
原則、真当主から暦の当主の婚約者を選ぶ。
婚約者となった者は、正式に結婚するまでは分家の真当主と兼務することになるが、基本的には暦の本家に留まり、花嫁修業も兼ねて当主の補佐をするらしい。
そして無事に入籍を済ませるタイミングで、真当主自ら分家の次期当主を決めるのである。
とどのつまり、椿はもうあの実家に帰る必要はなく、この家に住んで良いということになる。
如月の家に良い思い出はない。
如月家は、地元である東北の名家として立派な屋敷を構えているが、椿にとっては針の筵だった。
自分の部屋だけが、父親と梅と顔を合わせずに済む唯一のプライベートスペースだったが、それでも何か気に障る事がある度に、梅が乗り込んできて滅茶苦茶にされた事が幾度となくある。
いつ梅の怒りに触れるかと、毎日怯えていた。
「……大丈夫かな……」
梅は、樹の花嫁を目指して精力的に物事に取り組んでいた。
椿が真当主になっただけではなく《鍵》に選ばれ、そのまま樹と婚約したなどと知ったら、怒り狂って殺そうとしてくるのではないかとさえ思えてしまう。
でも、樹が守ってくれると言った。
本家当主の力は、分家の者が遠く及ばない程強いと聞いている。
今は、あの無邪気な笑顔の樹を信じたいと思った。
椿は、懐に入れていた宝玉を取り出して眺めた。
色は灰色だが、淡い光を帯びたそれを、ぎゅっと握り締める。
「……大丈夫、よね」
自分に言い聞かせる。
その時だった。
目の前に、あの黒い靄が突然顕現した。
「っ!」
咄嗟に印を組むが、退魔の呪文を唱えるより早く、その靄が霧散してあの黒髪の青年が姿を現す。
「何なの、貴方……!」
驚きながら呟くと、青年はぐるりと周囲を見渡して、呑気にもぐっと伸びをした。
「やっとまた外に繋がったと思ったが……近くにヤバい奴がいるな。すぐ削られる」
意味深に呟きながら、壁に掛けられた着物に目を留める。
「ほぉ。椿か。こりゃ縁起の悪い柄だな」
「悪かったわね」
退魔師の間では、椿は魔除けの意味を持つ。
一方で、椿は枯れるときに花が丸ごと落ち、それは首を落とされることを連想させると、古くは武士から忌避されてきた花でもある。
「……貴方は何者なの?」
この青年はどう見ても普通の人間ではない。
自分に対して悪意も敵意も見せていない事に、うっかり気を許しかけてしまっていた。
「俺は……まぁ、アキとでも呼ぶが良い」
「アキ?」
「ああ……おっと、時間切れだ」
言うや、彼はその場に溶けるように消えてしまった。
「……何だったの」
彼が現れる直前に顕現する黒い靄は、間違いなく瘴気だ。
しかし、不思議なことに、あの青年からは悪意も敵意も殺気も、妖ならば必ず漂わせているはずの妖気さえ感じられなかった。
そのせいか、彼に対する嫌悪感は微塵も感じていない。
「……まるで、意識だけ此処に来たみたいな……」
そう、あれは上辺だけで、本体は別のところにある、そんな印象だ。
「樹に伝えておいた方が良いかな」
さっきの今で樹に連絡するのも気が引けるが、暦家の敷地内に鬼が現れたのだとしたら大問題だ。
本来なら、朝にあの鬼が現れた時点で報告すべきだっただろうが、その後に色々あってすっかり忘れてしまっていた。
椿は自分の持参してきた鞄から和紙を一枚取り出して、筆ペンでさらさらと印を書いた。
昔はわざわざ墨をすって書いていたというが、現代文明のお陰で随分と手軽にできるようになった。
「風鳥」
印を書き終えて唱えると、和紙が収縮して小鳥の形になった。
それはパタパタと羽ばたいて窓の外へ飛んでいく。
退魔師の連絡手段となる式神だ。
普段はスマートホンを使用することもあるが、暦家の敷地内で暦家の人間に連絡をする方法は式神を飛ばす以外にない。
すると十分ほどで、椿が放ったのとは異なる白い小鳥が部屋に入って来た。
それは椿の指に止まると、樹の声で話し始める。
『報告感謝する。こちらで調査しよう』
淡々とした、しかし優しい声色に、椿はほっとする。
しかしその後も、特に妙な気配がすることもなく、樹からも音沙汰はないまま、夕食の時間になってしまった。
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