拾弍:悪鬼
まるで何かが軋み、割れる直前のようなその音に、樹が歯噛みする。
「まずい……!」
一拍遅れて、椿も何が起きたのか理解する。
祠の屋根に入ったヒビが、より深く大きくなっている。
「梅に取り憑いた鬼を撃ったはずが、それを利用された……!」
向日葵の霊力は強い。
それこそ彼女ならば、悪鬼を封じている祠を破壊するなど造作もないだろう。
それだけの威力を持った向日葵の攻撃。梅に当てたはずのそれを、そのまま祠へ流されてしまったのだ。
「封印が破られるぞ……!」
樹が構える。
かつて暦の人間を何人も葬ったとされる化け物が、今まさに封印を破って出てこようとしているのだ。
それが出てきた瞬間に再度封印する以外、自分たちに残された道はない。
背中に冷たいものが這い、どくどくと心臓が蹴り上げられたように早鐘を打ち始める。
その時、祠の屋根が真っ二つに割れ、黒い瘴気が凄まじい勢いで噴き出した。
「禁!」
椿が唱えて結界を張るが、まるで紙のように、ものの数秒で破られてしまう。
そんなこと、今までに一度だって起きたことがない。
「っ!」
「破!」
「祓!」
紫苑と向日葵が同時に叫ぶが、瘴気の一部を祓っても、祠から噴き出る瘴気の威力と量の方が多く、すぐに戻ってしまう。
「何なのこの量は!」
向日葵が珍しく戸惑った声を上げる。
「これが、封じられし悪鬼……!」
何人もの暦の退魔師を死に追いやり、時の当主が三人の弟子と共に封じるのがやっとだったという、その理由が、よくわかった。
こんな膨大な量の瘴気を孕んだ鬼など、今までに見たことがない。
「こんなもの、どうやって……!」
椿も愕然と呟く。
こんなものを祓うなんて無理だ。封じ込めるのだって、自分たちでできるかどうか。
とにかくこの瘴気を森の外に出さないように結界を張るが、それだっていつまで保つかわからない。
「……暦はお前か?」
声がした。低く、妙に艶めいた、心に直接響くような声。
はっとして見ると、樹の前にあの赤眼の鬼、アキが立っていた。
「……そうだと言ったら?」
「積年の恨みだ。殺す」
無表情で言い放ち、アキは手を突き出した。
そこに、禍々しい妖力が集まる。
あんなものをぶつけられたら、人間などひとたまりもない。
「駄目……!」
椿が咄嗟に両手で印を組む。
「禁!」
力の限り叫び、全身全霊の結界で樹を包む。
椿の張った結界が、アキの攻撃を防ぐ。
しかし、それもずっと保つ訳ではない。
どうしたら。
思考を巡らせる椿の耳に、向日葵の凛とした声が響いた。
「祓え給い清め給え」
向日葵は両手で印を組み替える。
彼女の言葉に呼応して、霊力がバリバリと稲妻のように迸った。
「遠神能看可給!」
組んだ印で、刀を振り下ろすように斜めに空を切る。
その刹那、アキが目を瞠り、胸を押さえてその場に蹲った。
「ぐっ……! なんだ、この、圧倒的な、陽の気は……っ!」
アキが向日葵を睨む。
今の呪文は、神道で用いられる浄化の祝詞だ。
樹も椿も、知識としてそれは知っていたが、向日葵がそれを操るところは初めて見た。
驚く同胞をよそに、彼女は再び印を組んだ。
「オン、アボキャ、ベイロシャノウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン!」
続けて唱えたのは、光明真言。
仏教のある宗派で用いられる真言だ。
意味は『不空なる御方よ大日如来よ、偉大なる印を有する御方よ、宝珠よ、蓮華よ、光明を放ち給え』。
向日葵らしい内容ではあるが、通常暦に連なる退魔師は、暦の祖が編み出した退魔術を使い、仏教や神道の真言や祝詞を唱える事はない。
それなのに、向日葵がその真言と共に放った術は、凄まじい威力を発揮した。
アキは雷に打たれたように、体をのけ反らせ、そして地面に膝をついた。
「向日葵……?」
唖然とする樹の視線の先で、彼女は更に素早く印を組み替える。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」
九字を切り、再び印を振り下ろす。
これは陰陽師が好んで使っていたという術。
もう滅茶苦茶だ。
「ぐぁぁぁっ!」
アキがもんどりうちながら絶叫する。まるで断末魔だ。
宗派も何もかも滅茶苦茶だが、効果は抜群だったようだ。
そこへ、向日葵は二回、大きく柏手を打った。
パン、パン、乾いた音が響いた刹那、その場からあの膨大な瘴気が消え去っていく。
「……嘘、あの瘴気を……?」
淀んだ空気が一旦、一気に清浄なそれに変わる。
「……流石は、歴代最強だな」
樹はもはや呆れに近い感情で呟き、それからアキを顧みた。
地面に倒れた悪鬼からは、しゅうしゅうと音を立てて湯気のようなものが立ち昇っている。
「……ふぅ! 一度やってみたかったんだぁ! すっきりした!」
妙につやつやした顔で、向日葵が満足そうに笑う。
「一度やってみたかったって……」
「だって、退魔師として一応仏教神道陰陽道の除霊術や浄化術を学ぶでしょう? やってみたくなるのが人間の性じゃない? なのに、暦に連なる者は暦流の退魔術しか扱っちゃいけないなんて……その掟に従っていたら、今頃全員死んでいたわよ?」
腰に手を当てて力説する向日葵。
樹は苦笑いしながら頷いた。
「わかった。今回の件は、功績の方が大きいから不問にする」
「当然よ」
相手が暦の当主である事を忘れているのか、向日葵は軽口を叩き、それからはっとしてアキを振り返った。
そして何か思いついたようににやりと笑う。
「……縛!」
向日葵の霊力が、アキを縛る。
既に虫の息だった鬼は抵抗する事もなく、されるがままだ。
「貴方、名前は?」
「……ア、キ……」
掠れた声で答えた彼に、向日葵は僅かに首を傾げた。
「アキ……?」
「人間共は、俺を、そう呼んで、いた……だから、そう名乗っ、ている」
呻くように答えた彼に、向日葵は少し悲し気に目を伏せた。
「……悪鬼だからね……なるほど。じゃあ、私が名前を付けるわ」
向日葵がそう言い、その意図に気が付いた樹が制止しようとするが、それよりも彼女が言い切る方が早かった。
「赫耀」
彼女が名を告げた刹那、その鬼が一瞬かっと光った。
その次の瞬間には鬼の体から傷が全て消え去っていた。
樹は額を押さえて唸る。
「……向日葵、お前、正気か?」
「勿論」
にっこりと笑い、彼女は鬼―――――赫耀の肩に手を置いた。
「って訳で、この子は私の使役になりましたー! 以後よろしく!」
椿は、驚きのあまりに顎が外れそうになるくらい口をあんぐりと開けて固まった。
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