詩ありてここに
「昔、天才が言ったんだ」
そう切り出す俺の手の内には、雀の涙だけ。その他にはなにもない。
「月が綺麗ですね、って」
言葉は震えて、その形を保つのがせいいっぱい。だからなにか握っておくべきだったんだ。この期に及んでカンニングペーパーなんてことは言わなくとも、お守りくらいは。話のネタの一つくらいは。
「愛してる、だっけ?」
よいしょと、君は俺よりも一歩前に躍り出て言う。さっきまでは横に目をやれば嫌でも伺えた、彼女のコロコロ表情の変わる顔が見えなくなる。
そうやって、君は俺を試すんだ。いつもの延長線上みたいに。
「そう。でも俺は思うんだ」
でも、俺は折れちゃいけなかった。曲げてもいけないような気がした。だから、そのまま先を歩いて行ってしまいそうな彼女の手を取って、少し強引に引き寄せる。
いくら頭が良くて計算が得意でも、俺がこんなことをするとは思いもしなかったんだろう。
彼女はヒャッという短い悲鳴と共に、体を180度回転させる。
そしてその直後、俺は自分のしたことを後悔した。
「君に対するこの気持ちはそれ以上だ」って
言おうと思ってたんだ。言葉にしなきゃ、伝わらないから。それに、言葉にしたって分かり合えないことのほうが多い俺たちだったから。言わなきゃいけないと、思ってたのに。
「っ……あんまり、見ないで。」
俺に捕まらなかった方の手で必死に顔を隠しながらそう言う彼女の顔は、夜を照らす小さな太陽の光の色を間違うくらいに紅く染まっていた。それも病的なものでもなんでもなくって、ただ色っぽく。
「……っ!」
俺は直視し続けることに耐えかねて、視線を道端のなんでもない石にまで急落下させる。
違ったんだ。彼女は、俺を試してなんかいなかった。彼女はただ、この顔を見られんがために一歩を前に踏み出したんだ。なら、どこまでを悟ってのその顔なのか。そもそも、これは今日に限った話なのか。
俺の脳内はいろんな考えが混濁して大渋滞。いや、この場合は大洪水と言ったほうが正しいかもしれない。とにかく、ひどい有様だった。そしてそれもこれもどれも、彼女の赤面を一挙に受け止めてしまったからに他ならない。
「ねえ。……話の続き。聞かせて。」
乱れて濁って交わって、変な恨み節で一句を読もうとさえした俺の思考をぶった斬るようにして、彼女のしっとりとした声がその場に響く。
その声はいつもよりもなんだか艶めいていて、それでいて迫力があった。声の大きさはいつもと変わらないはずなのに。この違いこそが覚悟なのだと。俺がそう気づくのは、少なくとも今ではないけれど。
「……え、と。なんだ。その……」
だがどんなに良いパスを貰おうと、ここは俺だ。曲げない折れないとどれだけ心に誓おうと、流れが切れてしまえばこの通り。それも仕方ない。だって俺は折木曲太なんだから。
「私は、さ。」
そんな俺を見兼ねた彼女は、そうやって俺の代わりに口火を切る。火がついたように赤かった顔はそのままで、それを見せまいとする手だけを下げて。
「最初は変な人だなって、正直バカにしてた。」
それは独白だった。俺の知らない、彼女の胸の内。聞きたいような聞きたくないような。もっとも、俺がこの状況で話を遮れるような男じゃないなんてことは誰もがわかっていることだろうけど。
「でも毎日毎日、君は来てくれた。病気のことを知っても、私が邪険にしても、変わらずに。」
彼女の目が、ここではないどこかを見るために閉じられる。そして閉じられたまま、言葉は紡がれる。
「いつだったかな。折木君が風邪を引いて来れなかった日。」
彼女は、まるで今まさにその景色を追体験しているような口調で、楽しそうに口を動かす。
「その日はさ、なんでもないやって思って。こんな日もあるよねって。」
「でも、次の日。君の顔を見て私、なんかムカッと来ちゃって。」
「なんで昨日来なかったのって、本を投げられたな。普通に痛かった。」
楽しそうな彼女の口調に、俺も目を閉じてその時を思い返す。そして思い返したものをそのままに、口に出す。ここにこそ本物の無礼講ありといったような気軽さで。
「あれは私の中でも1番2番を争える怒りだったな〜。」
お互いに目をつむっているから、顔は見えない。でも彼女はたしかにクヒヒといつもの忍び笑いを左手で隠していたし、俺もいつものように、大きくなりすぎないように右手を添えた口で笑った。
そしていくらか笑ってから、彼女はその笑いの尾を引くことはせずに、しっかりと鎮火してから話を続ける。
「で、折木君が帰ってからさ、思ったの。なんでこんなにムカッときたんだろうって。」
「その時だったよ。私が初めて折木君を異性として意識したのは。」
話の流れ的にも、そういうことなんだろうなと思ってはいた。でも、いざ面と向かって言われると……なんか……
「……これ、くそ恥ずかしいな。」
「でしょ?……君はこんなに恥ずかしくなるようなことを私にしてたんだよ。」
そう言いながら俺の赤面を見ておっかしーと笑う彼女を、俺は。
「私はそんな感じ。こうして外を歩けてるのも、笑ってるのだって……む?」
それはほんの一瞬の出来事。そりゃ、そうだ。
なにも太陽と月ががっちゃんこを試みたんじゃない。手を伸ばし合えば届くような距離にいた二人が、ゼロ距離になったというだけの話だから。
とはいえ、心の準備もなしにそうなったなら、それはビッグバンのような衝撃をも伴うのだろう。(俺は主犯だったから、その衝撃を受けることもなかったけど)
「な……な、な、な、なにをっ!?」
俺の腕の中にすっぽりと収まった彼女は、目をぐるぐるに回しながら俺にWHATを投げかける。まあ残念ながら舌の方はうまく回っていなかったけど。
そんな彼女の耳元で、俺は囁く。どこかの国の貴公子のように、また、どこかのパラディンのように。
「これが俺の答えだよ。」
彼女は頭がいい。それに、八方美人とは聞こえが悪いかもしれないが、誰に対しても彼女は完璧だった。こんな人が、俺に釣り合うわけがない。
でも、そんなことは正直どうだってよかった。俺はそんなことをいちいち気にしてやれるほど優しくはないし、そこまで草食でもない。……はず。
なら、何が問題だったのか。
それは、俺の語彙にこそあった。
俺は一応、進学校に通ってるはずなんだけど。
それでも、こと彼女に対するこの気持ちに関しては形容する言葉が見つからなかった。
それこそさっき言ったように、天才ならば。その頭脳を駆使して、巧妙な言い回しで自分の心情を伝えたのだろう。でも、俺は天才じゃない。彼女ならばまたどうかはわからないけど、彼女とて俺ではない。
だから、言葉にはできない。
それに、俺は思うんだ。この感情を言葉なんて不確定なもので表しきるなんてことが可能だろうかと。
それでこそ、天才ならば答えが出せそうなものだけど。
それ故に俺は愚者のままで、君を愛す。
わからないからわかるまで側にいる。
言葉では表せないから、行動で示す。
それらを、俺の愚かを、許してほしい。そして、あわよくばーー
その日は、自ら光ることはないとされている月が、ひとりでに光ったように見えた日だった。
そしてその日よりあとの日はずっと、月は自分で光っている。
少なくとも、俺たちの中ではそうなっている。
ーー永遠に。




