第8話 あるいは不可逆性レゾンデートル②
◇◇◇
翌早朝、ミカは覚悟を決めてイチローの部屋を訪れた。
私が遊びに誘っても何も不思議はないはず。
だから大丈夫よ、ミカ。
彼女は心の中で己を鼓舞した。
そうして部屋のドアをノックしようとした、その瞬間───ガチャリ───先にドアが開いた。
「うおっ! びっくりした!」
彼───イチロー少年はドアを開けた瞬間、そこで佇むミカを見るや驚いてバッと跳び上がった。ミカはそこで覚悟を決めた。
「あ、おはようございます」
「お、おおう。おはよう」
互いに挨拶すると、イチローがミカに尋ねた。
「こんな朝からどしたの?」
言いなさい、ミカ。言うのよ。
「イチロー、今日は何か用事があったり……しますか?」
思い切って尋ねたミカに対し、彼はしばし考えた。
「用事、か……あると言えばあるんだけど……」
彼の言葉にミカの顔が悲しげに曇った。
「そう……ですか。でしたら、また今度、イチローの都合の合う日にでも───」
引き返そうとした彼女を、彼が呼び止めた。
「違う違う、俺もちょうどミカに用事があったんだよ。
今日一日、付き合ってもらえないか?」
ミカに断る理由はなかった。
イチローとキスをしたとは言え、それはもう一月も二月も前の話である。二人が超が付くほどに奥手であることと、《鏡の迷宮》攻略後すぐにアンジェリカがパーティに加わったこともあって、彼らの恋愛的な進展はほぼゼロであった。だから、今日は久しぶりの好機と言えた。
「あー、じゃあよ、もう少しでできるから……いったん部屋に戻っといてくれるか? 準備が済んだら俺がそっちに向かうからよ」
「『もう少しでできるから』? そもそもイチローはこんな朝早くから何をされてるのですか?」
「覚えてるかな……前にミカと約束したろ……? アップルパイを焼いてやるってさ」
───ならよ、ちょっと落ち着いたらアップルパイ俺が作ってやるよ
忘れるわけがなかった。
彼との思い出は、そのどれもが宝物だ。
しかし、なぜかミカは己の胸が軋むような感情を覚えた。
久しぶりの休日に、久しぶりに二人の時間。
わくわくして、心が踊るはずなのにどうして───
「なら、その準備を今?」
「だな。生地を作ってた。あとはちゃちゃっと仕上げて冷蔵機で寝かせるだけだ。それでミカと出掛けて戻ってきたら、ちょうどいい感じになってると思う」
「イチロー、ありがとうございます。それからよろしければ、で構わないのですが」
「おう、何?」
「貴方が作るのを横で見ていても構いませんか?」
「お、おおう……別に良いけどよ……見ててもそんなに楽しいもんじゃないぞ」
少しでも彼の側にいたかった。
そして彼が自分のためにしてくれていることを間近で見ていたかった。だから───
「貴方が私のためにしてくれてるのです。
楽しくないわけがありませんよ……」
飾らない心からの言葉がするりと出たのだった。
◇◇◇
イチローがパイ生地の仕上げをするのまじまじと眺め、二人で軽口を交わしながら時を過ごした。
それが終わると、二人は手早く支度を整えて、街へと繰り出した。
最初にアタックした迷宮は《鏡の迷宮》であった。彼が召喚されてから最初期に挑戦したということもあり、攻略までに半年を要した。もちろん就寝は別の部屋であったが、その半年間は四六時中ほとんど二人は同じ時間を過ごした。
そんなわけだから、当時は毎日のように二人だけで街を歩き、イチローの趣味で本屋を巡ったり、ミカの好みで甘味を食べ歩いたりとしたものであった。
けれど、今日はイチローがアップルパイを作ってくれるのだ。だから、
「あそこの店にシュガートーストあるけど食べる?」
だとか、
「さっき通ったガレットの店からめちゃくちゃ良い匂いしたけど、入ってみる?」
などとイチローに聞かれたとて、甘い物に目がないミカは、何とか自制心を振り絞り、首を振ったのであった。
「いえ、やめときましょう。せっかくイチローが作ってくださるのですから、その時まで今日のお楽しみをとっておくことにします」
「えぇ……若干期待が重い気がするけど……わかった! なら楽しみにしといてくれよ! あとでパイを焼くとしても、とりあえず小腹を満たそうか」
ミカが頷くのを確認し、手早く屋台で腸詰めを挟んだパンを購入したのであった。
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