第3話 私の世界②
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出奔後の私の生活は惨めの一言に尽きた。
それまで過保護に育てられた私には、そもそもどのように生計を立てれば良いかわからなかった。
私にとって生活とは魔法の練習だった。
鍛練さえ積めば食事や寝床に苦労することはなかった。
そんな温室育ちの私が突然に貴族の冠を外され、外の世界へと放り出されたらどうなるか───火を見るよりも明らかだった。
働いて、暮らすという───そんな当たり前のことすら知らない私にとって、ただ生きるということは困難を極めた。
◇◇◇
出奔に際し、最低限の援助はあった。
私はマジックバックに入れたものをもう一度確認してみた。
自らの選別した荷物(日用品や書物や魔法関係の道具など)。
これまで使い道がなく貯めていた少しのお金。
そして両親から渡された手切れ金である数十枚の金貨。
あっさりと家から放り出したにしては、手厚い扱いと言えるかもしれなかった。私の悲しい気持ちは一切変わらないけれど。
それは彼等の罪の意識(そんなものが少しでもあったのならだけど)を少しでも和らげるための行為かもしれないし、娘を身一つで追い出すなどといった余りにも露骨な追放は、オネスト家の外聞に悪影響を及ぼすことを憂慮したからかもしれない。
いづれにしろ、私はこの金貨は使うつもりはなかった。
王立アルカナ学園に入学するために必要だからだ。
私は家を追放されたとしても、魔法を絶対に諦めなかった。
とはいえ、お披露目の日を境に転落し始め、二年経ったころの当時十二歳の無知な私には、何を大事にして、何を選んで捨てなければならないかという最低限のことすら理解出来ていなかった。
だから世俗に疎い私の身に、何が起きても不思議ではなかった。
情けない話ではあるが、出奔してからたった一月足らずで、私は行き倒れたのだった。しかもマジックバッグの中の金貨を一枚たりとも使わないまま。
愚か者とはまさにこのことを言うのだと、後の私はそう回顧することになる。
◇◇◇
目が覚めるとベッドだった。
「知らない、天井」
見知らぬ部屋で目が覚めたときに使うお決まりのセリフだった。
過去の勇者様から伝えられたギャグで、これを勇者ギャグというらしい。
「おや、起きたかい」
声は、恰幅のいい人の良さそうな女性からだった。
「お嬢ちゃん行き倒れてたんだよ。覚えはあるかい?」
彼女の声音から朗らかさを感じた。
「覚えて、ます」
甦る空腹。耐え難い喉の渇き。
目的地はオネスト本家のあるアルカナ王国首都より二つ離れた街だった。
バカな私は、王都から一つ離れた街へと徒歩で向かった。通常は馬車で向かうのが当然の距離なのだが、お金をケチったわたしは徒歩で一つ目の街へと歩き切った。
そこで休めば良いものの、一刻も早く王都から離れたいという感情からか、一夜休むことすらせず、そのまま目的の街へと足を進めたのだった。
道中でようやく、これはマズイことをしたのではと気付いたが後の祭りだった。
距離を考えると下手に引き返すことも出来なかった。
私は胸中に押し寄せる不安と戦いながらも、やっとの思いで目的地に到着したのだった。
そこでわたしは極度の疲労と空腹から意識を失った。
これが後先何も考えずに馬車を使うことすらケチった私の顛末だった。
◇◇◇
「嬢ちゃんにも事情があるんだろう?けど私は聞かないよ。誰にでも込み入った事情はあるもんだからね」
彼女は、まぁそんなことよりと続けて、
「パン粥だよ。行き倒れてたことだし、いきなり普通の食事なんてしたら胃がびっくりしちまうからね」
彼女の善意に、私は上手く手を伸ばせなかった。
いや、善意に対してどのように手を伸ばせば良いのか分からなかった。
俯く私に、しばらく黙って見ていた彼女は「食べらんないんならスプーンを口に突っ込んででも無理矢理食べさせるよ」と皿を手渡した。
私は今でもあのときの粥の味が忘れられない。
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そこからは、飢えや寒さ、モンスターの恐怖と無縁の生活を送ることとなった。
「はい!岩蜥蜴の唐揚げ2つ! 揚げポテト二つとエール二つで!」
私はおばさんの食堂で住み込みで働かせてもらうことになったのだ。
「アン! 向こうのエルフさんのとこにこれ持っていってくれ! あの人は特に丁重にもてなすんだぞ!!」
食堂は繁盛していて、特に夜には目の回るような忙しさであった。あっちこっちで次々と注文で私達(私含めて三人)給仕を呼ぶ声が上がった。それに加えて厨房からもひっきりなしに料理の皿や酒を渡された。
ひーっと内心悲鳴を上げながら配膳を続けたのだった。
それからもひたすらに働き、ようやく忙しさのピークが過ぎた。そのときふと、せかせかと動き回る私自身の様子を、まるで独楽鼠のようだと思った。
「ふひ」と変な笑いが出たのだった。
ホールでの仕事が終わっても、洗い物と掃除がある。
一日の終わりになると床やテーブルには酒や脂がこれでもかと飛び散り、私はそれをゴシゴシと拭いていく。生半可な力では取れないので何度も何度も擦る。
やっとこさ汚れを落とし切ったときにはいつも時計は一時を越えていた。
◇◇◇
毎日くたくたになるまで働いた。
今年ちょうど料理人の修行としておばさん達の息子は王都で働くべく家を出たのだった。そんな彼の部屋を、私は使わせてもらっていた。
身元のわからない何の取り柄もない世間知らずな少女の住み込みのお仕事にしては、部屋などの住環境はもちろん、美味しい食事はいただけるし、お給金まで支払ってもらってと、破格の条件だったろう。
ただ一つ問題があった。
それは、私が自分のために使える時間はわずかであったということだ。
だから私は、いつも眠気眼を擦りながら、自分に使える時間の全てを魔法の勉強と訓練に費やしたのだった。
自分を貫いて生きることは、幼い私にとって大変なことだった。
◇◇◇
私にとって辛いことは疲労や時間の無さだけではなかった。
おじさんとおばさんの理解を全くといって良いほど得られなかったことだ。
彼女達と食事をするときにも、度々諭された。
そして、この日もそうだった。
「アンちゃん、魔法の勉強なんかしても一文の得にもなりゃしないよ。実際今の生活をしていく上でアンちゃん、アンタ魔法を使わないといけないことが一度でもあったかい?」
おばさんがパンをスープに浸して朗らかな声で言った。
「そうそう、そんなことに時間使うならさ、どうだい、ウチで料理でも習わないかい?
それでゆくゆくはアンもウチの息子と二人でこの店を盛り立てていってくれればよ、俺たちも安泰だ!」
エールを美味しそうに呷り、ガッハハハとおじさんは笑った。
「それもいいかもしれませんね」
私は何とか笑顔を作った。
誰か、私のことをわかってよ。
誰か、誰か、誰か────
誰からも理解されないことは───
何よりも苦しい。
◇◇◇
転機は不運から始まった。
修行に出たはずの息子が帰ってきたのだ。
彼は挨拶も早々に切り上げ、おじさんとおばさんに泣きついた。
昼の営業の準備をしている彼ら二人は、自分の息子から無心され、呆然と立ち尽くした。
そしてこのことがきっかけに、私は彼らの前から去ることになる。