第53話 聖女⑥
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これは一体、夢なのか現なのか。
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少女が目を覚ましたのは一月もの時が過ぎたころであった。
枢機卿の中でも実力者とされる者が用いた《禁呪》の一部を身に受けた彼女であったが、その類稀な光魔法の能力によって、目覚めた頃には自力で完治していたのだった。
少女の意識が戻った頃には既に、彼女の上司であるオデッセイは総主教の座を手に入れていた。
そんな彼は少女の回復の知らせを聞き、目覚めたばかりの少女の元へと準備もほどほどにすっ飛んできたのだった。一ヶ月ぶりに対面し互いに労い合い、意識不明時の情報共有を行った。けれどそれが見舞いに訪れたメインテーマではなかった。そういったやりとりもそこそこに、オデッセイは少女へと、相手候補であったコールの処遇を報せたのだった。これこそが本題であった。
コールは事が落ち着き次第に絞首刑に処すとされた。刑が迅速に行われていないのは、少女に謝罪をしたいというコールの最後の願いを、オデッセイが聞き入れたからであった。
翌日、全快に程遠い少女であったが、彼女はオデッセイと共に、コールの元へと赴いた。
少女はコールから謝罪を受けた際に、彼からはもう邪心がないことを悟った。
そこで、少女は、総主教であるオデッセイへと、コールの助命と赦しを願い出たのであった。
しかし、オデッセイは頑なに少女の願い出を受け入れなかった。
コールは同門の命を私欲から狙った上に《禁呪》まで用いた。オデッセイの判断は当然のものであった。
しかし少女は、総主教たるオデッセイがコールの死罪を取り消すまでその場から動かないと主張し、牢の前で両膝を地に着けたのだった。
何を馬鹿なと二人を放置しその場を去ったオデッセイであったが、深夜仕事を終え床に就く前に、ふと少女のことが気に掛かった。
まさかと思い、自らコールの牢へと足を運ぶと、少女は身じろぎもせずにコールの贖罪を求め、一心不乱に神へと祈りを捧げていたのであった。
一目確認するとオデッセイは何も告げずにその場を去った。
オデッセイにしても確たる信念を貫き総主教まで上り詰めた人物であり、少女も後に聖女を引き継ぐ者である。互いが互いに譲らずに自らの意志を通そうとする中で、さらに一週間が経過したのであった。
部下に命じ、この一週間、オデッセイは牢の前で祈り続ける少女についての報告を挙げさせてはいた。
決して折れることのない少女の意志に屈したようで癪だと嘯きながらも、少女の身を安じてようやくコールを収監した牢へと三度足を運んだのだった。
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目の前の少女は病み上がりであった。
にも関わらず、彼女は一週間絶えることなく神へと祈りを捧げた。食事はもちろん、水の一滴すら摂らず。
何という高潔な精神か、否、単に高潔のみならず不屈さを兼ね備えた黄金の精神であるか───オデッセイは少女の尋常ならざる精神性を目の当たりにし涙を流したのであった。
コールに至っては、感服という言葉では言い表わせないほどに少女に心酔し、神に捧げる信仰と同等の念を彼女へと抱いていたのだった。
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この一件を切っ掛けとして、現総主教と、元ではあるがかつての枢機卿の二人が彼女の完全なる後ろ盾となった。
そして彼らの推薦により少女は次代の聖女候補となったのだった。
それから幾ばくも経ない内に、まさに神の思し召しか、ピークを過ぎた当時の聖女ミカが、その座を退くこととなり、少女がその称号と名と莫大な魔力を引き継ぎ、新たなる聖女ミカとなったのだった。
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先代より聖女を引き継いだ後も、弛まぬ鍛錬と常に真摯な祈りを欠かすことなく、聖女ミカは民のためにその身を砕き続けたのだった。
そうして、幾年もの月日が流れ、彼女は召喚された少年と出会うこととなる。
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このように話すと少女───聖女ミカは完全なる存在であるかのように思えるだろう。
現に、彼女は市井では《神の写し身》などと呼ばれてもいる。
しかし、彼女だって一人の人間である。
これはとある少年が召喚されて数日後の話である。
彼は聖女ミカと出会った当初、彼女のことを『表情の変わらないロボット』だと評した。
何もそれは誇張した表現ではなかった。
元々表情の変化がそれほど豊かでない少女であったが、教会に属するようになってからは彼女自身がそうあるべしと意識するように努めていたのであった。
救うべき民には老若男女貴賤貧富の差はない。
感情を顕にせず、誰に対しても違わぬ態度で接する。
それこそが彼女の心がけであった。
けれどその動機の半分は正しく、半分は詭弁であった。
もっともそれは彼女自身ですら気付いていないことであったが。
確かに少女の、他者を慈しむ心には一片たりとも偽りはなかった。
感情を出さない表情は、彼女にとっての仮面であった。少女は、これから先、長きに渡り目の当たりにするであろう悲劇から己を護るために、無表情と言う名の仮面を被ったのだった。
そもそも彼女がその心境に至る切っ掛けとなった出来事は間違いなく少女の父の負傷であった。
身内が亡くなるかもしれない恐怖───それこそが少女が他者を慮ることになった原因であった。と、同時に彼女の心の奥底に刻み込まれた強烈なトラウマであった。
彼女が受けた心の傷は、魔法も使えずもちろん知識すら持たない少女が、強烈な回復魔法に目覚めるほどに激烈なものであったと言えば分かりやすいか。
やがて時は経ち、トラウマは姿を変えて、人が死ぬことに対する忌避感となったが、ただそれは幼き頃の傷であったため、心の奥底の底へと沈められたのだった。
聖女となった頃にはもう、原初の感情───自分がどういった経緯で人を癒やすことを始めたかなど思い出すこともなかっただろう。
まさにかつての彼女が意図したように、そうなるべくしてそうなったのであった。
平常心を保つべきだ。
恐怖心から離れるべきだ。
誰かが死ぬことに対する忌避感から、無意識のレベルで彼女が自身にそう振る舞うように己に課したのだった。
初めは意識的であったものが、続けることでやがては常のものとなったのであった。
こうして、市民から慈愛の聖女であると敬われはするものの、どんな事態が起こっても冷静沈着な鉄面皮な聖女となったのであった。
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硬く硬く、幾重にも重ねられて、罅が入れば補修され、捲れそうになればよりきつく紐を結ばれてきた彼女の仮面は圧倒的な強固さを誇った。
このことは、ボロ雑巾のように倒れ伏した少年へと、無表情で回復魔法を使用したことからもわかるだろう。
けれどその強固な仮面を、これまで誰もが壊すことの出来なかった仮面を、たった一人の少年が壊したのだった。
《鏡の迷宮》を攻略すべく、少年と共に過ごした時間は聖女ミカにとって特別なものであった。
ときには背中を合わせて戦い、ときには夜通し訓練に励む、そしてときには二人で市場を散策する。
どれもこれも、他愛のないエピソードであるが、そのいずれもが彼女にとっての宝物であった。
眩く輝く宝玉のような想い出を、彼女は大事に大事に、己の心の宝石箱にしまい込み、何度となく箱を開けては、彼と過ごした日々を振り返っていたのだった。
そして、これからも増えていくだろう彼との思い出に想いを馳せ、彼女は一人ふふっと微笑んだのだった。
少年が彼女との時間を特別なものと感じていた以上に、二人で過ごした時間は彼女にとって、これまで過ごしてきた全ての時間の中で唯一無二のものであった。
彼女は自身が持つ聖女を聖女たらしめるほどの敬虔な信仰心に匹敵する感情を、少年に抱いていたのだった。
聖女ミカが少年に向けた表情は、彼だけのものであった。
彼は気付かなかったけれど───炊き出しに奮発し金欠に陥り借金を申し出たときの表情も、甘味の話を聞いて喉を鳴らしたときの表情も、およそ誰も見たことのない、彼女から一度は失われたはずのその表情の全ては、彼だけに、彼のためだけに向けられたものであったのだ。
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しかし、結局は、彼女と彼の思いも、想いも、願いも、希望も、絆も、縁も、過去、現在も、未来も、あらゆる全ては歪められ、奪われ、冒涜され、失われ、今はもうない。




