見えない力
「誰だ」
アーサーは警戒しながら包丁を構えた。こんな状況で冷静な人間など、信用できるはずがない。
「一条明といいます」
しかし、それでも男は――明は冷静に戦斧を下ろし、両手を軽く広げて敵意がないことを示した。
「あなたがアーサー・N・ハイドさん、そしてオリヴィアさんですね」
「なぜ私たちの名を知っている」
「説明している時間はありません。娘さん――エマさんを助けたいなら、俺の話を聞いてください」
エマの名を聞いて、オリヴィアが前に出た。
「エマを知っているの!? どこにいるか分かるの!?」
「屋上です。キラービーという巨大な蜂の巣に囚われています。まだ生きているはずですが、このまま正面から突入すれば――」
明は廃ビルを見上げた。その表情が厳しくなる。
「キラービーの巣には、少なくとも数十体、おそらく百体以上が群れています。女王蜂もいるでしょう。正面から行けば、階段を上っている途中で蜂の大群に呑まれます」
「百体……」
オリヴィアの顔が青ざめた。
「じゃあ、エマは……」
「まだ間に合います」
明は断言した。
「キラービーは獲物を巣に持ち帰った後、すぐには殺しません。女王の餌として生かしておく習性があります。ただし、時間との勝負です」
明の言葉にアーサーは拳を握りしめた。百体の化物を相手に、包丁二本でどう戦えというのか。
「どうすれば」
「俺が手助けします」
明は亜空間から何かを取り出し始めた。その光景に、アーサーとオリヴィアは息を呑んだ。
何もない空間から、黒い渦のようなものが現れ、そこから枯れた植物片や鉄パイプが出てくる。
「これは……」
「後で説明します」
明は手際よく作業を始めた。枯れたカニバルプラントの残骸を鉄パイプに巻き付け、即席の松明を二本作り上げる。
「カニバルプラントは枯れても油分を含んでいて、よく燃えます。キラービーは火と、この植物の燃える匂いを本能的に恐れる」
明は完成した松明をアーサーに差し出した。
「裏の非常階段から屋上へ。巣には警戒要員が残っているはずですが、この火があれば対処できます」
「君はどうするんだ」
「俺は巣のキラービーを建物の反対側に誘導します」
明は亜空間からガラス瓶を取り出した。中身はどろりとした液体で満ちている。
「これは、あいつらの好物であるカニバルプラントの樹液です。これを使えばキラービーが寄ってきます」
アーサーは明の目を見つめた。本気で、百体もの化物を一人で引きつけるつもりのようだ。その眼には強い覚悟の光が宿っていた。
「君は……死ぬつもりなのか?」
「死にません」
男の声には、奇妙な確信があった。
「俺には、まだやるべきことがあります」
その時、屋上から悲鳴が聞こえた。エマの声だ。
「エマ!!」
生きていることが分かり、オリヴィアの顔が明るくなる。けれど、それも束の間のことだ。すぐにその表情は硬くなった。
「アーサー、時間がないわ! 今は彼の言葉を信じましょう!」
アーサーはオリヴィアの言葉に頷いた。
「そうだな。一条くん……と言ったか。すまない、私たちに力を貸してくれ」
「もちろんです」
明は小さく頷いた。
「一分後に、俺が動きます。建物の東側で派手に暴れますから、その音を合図に西側の非常階段から屋上へ」
明はそう言うと、カニバルプラントの樹液が入った瓶を手に、建物の東側へと走っていった。
アーサーとオリヴィアは、建物の西側へと回り込んだ。錆びついた非常階段が、屋上まで続いている。
ちょうど一分後――
ドガァン!
東側から、建物を壊す大きな音が聞こえた。振動は建物全体に響き、危険を察した屋上から無数の羽音が聞こえてくる。
ついで、ガラスが割れる音と、腐った果実のような甘い匂いがあたりに広がった。
「ギギギギギギ!」
数十、いや百を超えるキラービーの鳴き声が、夜空に響き渡った。東側の窓という窓から、黒い影が次々と飛び出していく。
「今だ」
アーサーは松明に火を点け、妻と共に階段を駆け上がった。
三階を過ぎたあたりで、上から羽音が聞こえた。警戒役のキラービーが降りてくる。
「下がって」
アーサーは松明を掲げた。炎を見たキラービーが一瞬怯む。その隙に、オリヴィアが手にしていた包丁を投げた。見事に蜂の複眼に突き刺さる。
「オリヴィア!?」
「昔、ダーツが得意だったの」
オリヴィアが小さく笑った。
アーサーは妻の意外な一面に小さく息を吐いた。
「知らなかったよ。今度、私にも教えてくれ」
「ええ、いいわよ。その時はエマにも教えようかしら」
「きっと喜ぶさ」
アーサーは妻に笑いかけて、再び階段を駆け上り始めた。
だが、その足がすぐに止まる。背後から続く足音が聞こえなかったからだ。
「オリヴィア?」
アーサーは、階段の途中で立ち止まったオリヴィアの名を呼んだ。
何もない宙を見つめながら呆然としていたオリヴィアが、ハッとした顔でアーサーを見つめた。
「……ねえ、アーサー。これって何かしら」
「これ?」
アーサーはオリヴィアが指さした場所を見つめた。だが、そこには何もない。彼女が指さした場所には、深い闇が広がる夜空があるばかりだ。
「いったい何のことだ?」
「まさか、見えてないの?」
「見える?」
アーサーはオリヴィアの言葉に首を傾げて、再び彼女の指先を見つめた。けれど、何度見てもそこには何もない空間が広がるばかりだ。
アーサーは小さくため息を吐き出した。
「すまない、オリヴィア。私には君が何を言いたいのか、さっぱりだ」
「……ごめんなさい、なんでもないわ。」
アーサーの言葉に、オリヴィアは瞳を落とした。
二人は再び階段を上り続けた。四階、五階、六階――そして七階。
ようやく到達した屋上への扉を蹴破ると、想像を絶する光景が広がっていた。
巣は、屋上全体を覆い尽くすほど巨大だった。六角形の部屋が無数に連なり、その一つ一つが人間の頭ほどの大きさがある。壁面には幼虫が蠢き、粘液があちこちから垂れていた。
その巣の中央部に――
「エマ!」
娘が粘液で巣に貼り付けられていた。周囲には他にも数人、同じように囚われている人々がいたが、動いているのはエマだけだった。
「パパ! ママ!」
エマが泣きながら手を伸ばした。その手を掴もうと動き出そうとした足が、ピタリと止まる。
巣の周囲にはまだ、キラービーが十体以上残っていた。東側の騒ぎに釣られなかった個体たちだ。女王を守る精鋭たちなのか、その身体は他のキラービーと比べても一回りほど大きかった。
「くそっ! 思ったより多いッ」
アーサーは唸り声をあげた。
キラービーたちが一斉に羽音を上げ、二人を包囲するように散開し始める。
「オリヴィア、背中合わせに」
二人は背中を合わせ、松明を構えた。しかし、相手の数が多すぎる。
一体が正面から突進してきた。アーサーは松明で牽制し、ギリギリで横に飛んで回避する。毒針が空を切り、コンクリートの床に突き刺さった。針が抜ける音と共に、床が溶けていく。
「なんて毒だ……」
最悪の状況を想像して、ゾッとする。
アーサーは恐怖を噛み潰すように歯を食いしばると、再び強く松明を握りしめた。
側面から別の個体が襲ってきたのは、次の瞬間だった。
アーサーは松明を振り回して距離を取るが、後退した先にも別のキラービーが待ち構えていた。
「くそっ!」
完全に包囲されていた。
三体のキラービーが同時にアーサーへ襲いかかる。彼は必死に松明を振るが、三方向からの同時攻撃は避けきれない。
毒針が、アーサーの胸元に迫る――
その瞬間だった。
オリヴィアの瞳が、一瞬青白く光った。
「やめてええええ!」
彼女が両手を前に突き出した瞬間、信じられないことが起きた。目の前の空気が、まるで見えない壁のように圧縮され始めたのだ。
そして次の瞬間には、その圧縮された空気が爆発的に解放され、キラービーを吹き飛ばした。
「え……?」
呆けた声がオリヴィアの口から漏れる。
「今、私……何を……」
自分でも何が何だか分からない。
そう言いたそうな顔で、オリヴィアは自らの両手を茫然と見つめる。
「オリヴィア、後ろ!」
アーサーの叫びで我に返った。さらに五体のキラービーが迫っている。
オリヴィアは反射的に、また手を突き出した。今度は意識的に、先ほどの感覚を再現しようとする。
「圧縮……?」
彼女が呟いた瞬間、再び空気が歪んだ。五体のキラービーの周囲の空間が、ぎゅっと縮まる。
そして――
ブシュッ!
五体が同時に圧壊した。
「いったい何が……? オリヴィア、君はいったいどんな魔法を使ったんだ」
アーサーが驚愕してオリヴィアを見た。
「分からない、分からないけど」
オリヴィアは震える手を見つめた。しかし、エマの泣き声でハッと顔を上げる。
「エマを助けなきゃ」
残りのキラービーたちが、仲間の異常な死に方に動揺している隙に、二人は巣の中央へと走った。
「エマ、今助ける!」
二人はエマを包む粘液を必死に引き剥がし始めた。粘液は思った以上に強力で、なかなか剥がれない。
二体のキラービーがアーサーに襲いかかってきた。必死で松明を振り回すが、蜂たちは離れようとしない。周囲で旋回する蜂たちの毒針が、再びアーサーの胸元へと狙いを定めた。
「『圧縮』!」
今度は、しかと自分の意思を込めて呟いた言葉が隣から聞こえた。見れば、オリヴィアが両手を突き出している。空間が歪んで、蜂たちが圧壊された。
「今よ、アーサー! 蜂たちは私がなんとかするから、その隙にエマをお願い!!」
「分かった!!」
頼りになる妻の言葉に、アーサーは小さく笑って、再び粘液と対峙した。
「『圧縮』、『圧縮』、『圧縮』……ッ!」
オリヴィアが力を発動し、必死に周囲の蜂たちを潰していく。背後で響く圧壊の音を聞きながら、アーサーは必死でエマを包む粘液を引き剥がし続けた。
ようやく、エマの身体の半分が開放された。残りは下半身を包む粘液だけ。エマのすすり泣く声を聞きながら、アーサーは残りの粘液に手を掛ける。
「あっ……しゅくッ! ゲホッ、ゲホッ」
その時、アーサーの背後でオリヴィアが激しく咳き込んだ。
慌てて振り返ると、地面にぽたぽたと赤い点が出来ていた。それが誰の血であるかなんて、すぐに分かった。
「オリヴィアッ!!」
「だい……じょうぶ、よ」
喉が潰れたような声で、オリヴィアが笑った。
「この力……あまり、連続して使えないみたい。続けて使うと威力も落ちるし、喉も潰れるわ。あまり……無理は出来ないのかも」
口元の血を拭いながら、冷静に、オリヴィアは自らに与えられた力を分析した。そのうえで、アーサーとエマを安心させるように、いつもの穏やかな笑みを浮かべて、前を向いた。
「でも……私は、大丈夫よ。だからアーサー、早くエマをお願い」
「――…ッ! ああッ!!」
アーサーは奥歯を噛みしめて、粘液と向き直った。
彼女の覚悟が分かったからこそ、一秒でも早く、娘を助け出さねばならなかった。
「パパ、早く……他の蜂が戻ってくる……」
アーサーの背後を見ていたエマが、震え声で警告する。振り返ると、確かに。東の空に無数の黒い点が見え始めていた。
先に到達した数匹のキラービーに向けて、オリヴィアが必死に力を発動し続けるが、それもすでに限界だ。
(万事休すか……!)
絶望が重たく胸の内側に広がり、アーサーは唇を噛みしめた。
青白い光が夜空を切り裂いたのは、その時だった。
「『魔力撃』!」
追いかけてきた蜂の群れが、一斉に薙ぎ払われた。両断された蜂たちが命を落とし、墜落していく。
つづけて、建物を破壊する音とともに激しい戦闘音が階下から響いてくる。
(……そうだ。ここで戦っているのは私たちだけじゃない!)
アーサーは挫けかけた自らの心に、喝を入れた。
(あの男も、いまだ諦めずに百体もの蜂たちを相手に戦い続けているんだ! あの青年は見ず知らずの私たちのために戦ってくれているのに……それなのに、どうして……どうして私が先に諦めることが出来る!!)
「くそっ! くそっ、くそぉおおッ!」
今この場で、何も出来ない自分がもどかしい。
大事な妻を、愛する娘を守ることが出来ない自分が、どこまでも憎い。
アーサーは力のない自分自身を呪いながら、髪を振り乱し必死の形相で粘液を引き剥がす。
そして―――
「よしっ!」
エマを包むすべての粘液を剥がし終えた。自由になったエマがアーサーの胸へと飛び込んでくる。
「パパ!」
「エマ!」
アーサーは目の前の娘を全力で抱きしめた。エマが、アーサーの胸に顔をうずめながら呟く。
「怖かった……誕生日なのに……最悪の誕生日になっちゃった……」
「違うよ、エマ」
アーサーは娘を抱き上げた。
「家族みんなで生き残れた。最高の誕生日だ」
「……うん」
「さあ、早く帰ろう。この場から逃げないと」
アーサーは呟き、背後を振り返った。
「オリヴィア、エマは無事だよ。君のおかげだ」
アーサーは、愛する妻に笑いかけた。
その笑みが、固まった。
「―――…オリヴィア?」
オリヴィアの身体がふらりと揺れて、地面に倒れた。慌てて駆け寄ると、息が浅い。顔色は血の気が引いたように白く、全身には大量の汗をかいていた。
「オリヴィア!!」
「……良かった。エマを助けられたのね」
薄く瞳をあけて、オリヴィアが掠れた声で言った。
「ママ!」
エマがオリヴィアに駆け寄った。オリヴィアはエマの顔に手を伸ばすと、そっと撫でる。
「エマ……怪我はない?」
「うん、大丈夫だよ」
「よかった……。私はちょっと疲れちゃったわ」
「ホント? 少し休めば元気になる?」
「ええ、本当よ」
オリヴィアは小さく笑った。その優しい眼差しが、アーサーへと向けられる。
「アーサー。エマをお願い」
「何を言ってるんだ! 君はどうする!!」
「私はここで休んでいくわ」
「オリヴィア!!」
「ほら、早くして。でないと、また蜂たちが来ちゃう―――…」
オリヴィアの言葉が途切れた。巣の奥から地響きのような振動が伝わってきたからだ。
ズン……ズン……
巣の中央部が盛り上がり、六角形の壁が内側から押し破られる。そして、そこから現れたのは――
「なんだ、あれは……」
アーサーが息を呑んだ。
通常のキラービーの五倍はある巨体。黄金色に輝く外殻に、王冠のような突起が頭部に並んでいる。複眼は赤く光り、腹部から伸びる毒針は槍のように太い。
クイーンビー――この巣の主、キラービーたちの女王蜂だった。
「ギィィィィィ!」
甲高い鳴き声が屋上を震わせた。群れの大半を失った怒りか、それとも巣を荒らされた憤怒か。クイーンビーの複眼が、倒れているオリヴィアと、その家族を捉えた。
「まずい」
アーサーは松明を探したが、先ほどの戦闘で失っていた。武器は何もない。
クイーンビーがゆっくりと前進してくる。その巨体が動くたびに、屋上の床が軋んだ。
「エマ、私の後ろに」
アーサーはエマを背後に庇い、素手で構えた。勝ち目などないことは分かっている。それでも――
「パパ……」
「大丈夫だ。パパが守る」
クイーンビーが翅を震わせた。次の瞬間、信じられない速度で突進してくる。巨大な毒針が、まっすぐエマを貫こうとする――――その瞬間。
「させるかよ」
階段から誰かが飛び出してきた。
ガキィン!
金属音が響いた。毒針が戦斧によって受け止められた音だった。
「よかった。間に合ったようですね」
戦斧を握りしめた男が小さく笑う。左腕は完全に使い物にならず、服は至る所が裂け、全身から血が流れている。それでも、男は右手一本で巨大な戦斧を操り、巨大な女王蜂の攻撃を完全に防いでいた。
「お待たせしました。ここから反撃しましょう」
男が――一条明がニヤリと笑う。
そして明は、戦斧を振るってクイーンビーを押し返した。
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食人植物の樹液
・カニバルプラントと呼ばれるモンスターの樹液。おそらく蜜。昆虫型モンスターの好物であり、使えば昆虫型モンスターをおびき寄せることが出来る。ただし、使い過ぎは厳禁。余計なものまでおびき寄せることになる
・分類:魔物素材
・魔素含有量:0.3~0.5%
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圧縮
・パッシブスキル
・スキル所有者の筋力値×1000%のダメージを対象に与える。スキルを連続して使用した場合、対象に与えるダメージは50%ずつ減衰する。
・また、このスキルが発動するたびに、スキル所有者には継続的な肉体ダメージが発生する。
・取得条件:スキル適正のある者がはじめて魔物と戦い、ダメージを与える
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