一条明 -0- ㉒
――三日後。
明は冷たい石の感触で目を覚ました。
身を起こすと、辺りには見慣れた光景が広がっていた。崩れ落ちた石造りの壁に、折れ曲がった柱。そして静寂。
誰もいない、一人の世界だった。
「リアナ……」
明は掠れた声で呟いた。
彼女の遺体を探そうとしたが、ギガントに踏み潰された神殿跡は完全に瓦礫の山と化していた。石と木材が入り混じった残骸の中から、人の形を見つけることは不可能だった。田村の墓も、跡形もなく消えている。
明は膝をつき、瓦礫の山を見つめ続けた。胸の奥から込み上げてくるのは、悲しみというよりも、むしろ深い虚無感だった。
「また、一人になった……」
彩夏を失い、田村を失い、そしてリアナも失った。出会っては別れ、別れてはまた出会う。そして最終的に、自分だけがここに取り残されている。
『黄泉帰り』という力は、確かに死から救ってくれる。しかしそれは同時に、大切な人々との永遠の別れをも意味していた。
「……行かなきゃ」
明は重い腰を上げ、瓦礫の中から使えそうな物資を探し始めた。彩夏から受け継いだ短剣と、街で手に入れた剣は幸い無事だった。フレリアのペンダントも首にかかったままだ。
リアナが大切にしていた預言書も探したが、見つからなかった。代わりに、半分埋もれた状態で一冊の古い書物を発見した。
「これは……」
表紙には『アルムストリア神話事典』と刻まれている。ページを開くと、異世界の様々な事象について詳しく解説されている事典のようなものだった。
「アルムストリア……これが、この世界の名前か」
明は呟いた。リアナからも、他の誰からも、この世界の名前を聞いたことがない。初めて知る、自分たちが巻き込まれた異世界の正式名称だった。
明は事典をめくりながら、何か有用な情報がないか探した。そして、ある項目に目が留まった。
『軍神マルス』
――アルムストリア古代神話の戦神。古代より戦と勇気を司る神。かつて悪神との最終決戦において、己の肉体を天に捧げ、永遠に戦士たちを見守ることを誓った。現在は赤い月として夜空に浮かび、その加護は人間には勇気と力を、魔物には欲望と好戦性を与える。知の神イリスと対をなし、両者は決して同時に満ちることはない――
明は息を呑んだ。
まさか、赤い月の正体が、古代の神の肉体だったとは。
続いて『知の神イリス』の項目を読んだ。
――アルムストリア古代神話の知神。古代より知恵と魔術を司る神。軍神マルスと共に悪神に立ち向かい、己の肉体を天に捧げて永遠に人々を導くことを誓った。現在は蒼い月として夜空に浮かび、その加護は人間には聡明さと魔の力を、魔物には欲望の抑制をもたらす。軍神マルスと対をなし、一方が満ちれば他方は欠ける運命にある――
「なるほど……だから赤い月と青い月は、交互に満ち欠けするのか」
明は空を見上げた。現在は赤い月が欠け始め、青い月が満ちつつある。つまり、軍神マルスの加護が弱まり、知の神イリスの加護が強くなっているということだ。
「ステータス」
明は現状を確認するため、画面を開いた。
――――――――――――――――――
一条 明 25歳 男 Lv25
体力:28(+25)
筋力:27(+25)
耐久:20(+25)
速度:25(+25)
魔力:0(+40)
幸運:16
――――――――――――――――――
固有スキル
・黄泉帰り
――――――――――――――――――
スキル
・集中Lv1
・急所狙いLv1
――――――――――――――――――
赤い月の効果が大幅に減少していた。補正値は+25まで下がっている。代わりに、青い月の効果は+40まで増加していた。
「進行度」
続けて、明は『世界反転』の術式の進行を知るために、画面を出した。
――――――――――――――――――
現在の世界反転率:38.24%
――――――――――――――――――
やはりというべきか、三日間で6%進行していた。以前と変わらず半日に1%のペースで世界は変化し続けている。
明は事典を閉じ、懐にしまった。崩れた神殿を後にして、森の中へと足を踏み入れる。一人でも生き延び、なんとしてでも『座』を探さなければならなかった。
(正直、最悪な状況だ……)
森の中を歩きながら、明は自分の置かれた状況を整理していた。田村の『危機察知』も、リアナの知識もない。頼れるのは、自分の力だけだ。
森で食べられそうな木の実を集めた。リアナから教わった知識を頼りに、毒のない植物を選んで口にする。だが、植物だけでは満足に腹も膨れない。抗議するように鳴り続ける腹の虫を、明は湖畔で確保した水を飲んで誤魔化した。
夜になると、小さな洞窟を見つけて身を隠した。焚き火は魔物を引き寄せる危険があるため、明は寒さに震えながら夜を過ごした。
静寂の中、一人でいると、どうしても彩夏や田村、リアナのことを思い出してしまう。彼らの声が聞こえない現実が、胸を締めつけるように苦しかった。
そんな寂しさを紛らわすため、明は事典を取り出した。
「せめて……何か知ることができれば」
ページを開くと、アルムストリアの神話体系について記されている項目が目に入った。
どうやら、この世界には三つの神の系統が存在していたようだ。
軍神マルスや知の神イリスのような『古代神』、フレリアや他の現役の神々である『現神』、そして世界に災いをもたらす『悪神』だ。
古代神たちは遠い昔に悪神との戦いで己の肉体を犠牲にし、今は天体や自然現象として世界に加護を残している。現神たちは人々の信仰を受けて活動し、この世界の人々に力を貸していたようだ。
「だけど、その現神も今となっては消えてしまった……」
明は事典を読みながら呟いた。一人で声に出すことで、少しでも孤独感を和らげようとしていた。
ページを読み進めていると、興味深い記述を見つけた。
フレリアという名前には注釈があったのだ。
――豊穣の女神フレリア。他次元世界においては、フレイヤの名で知られる。愛と美と豊穣を司り、多くの世界で崇拝されている――
「フレイヤ……北欧神話の女神か」
明は驚いた。リアナが仕えていたフレリアが、現実世界の神話に登場する女神と同一の存在だったとは。
「ということは……他の現神も俺たちの世界にいた神様なのか?」
その予想は当たっていた。
この世界の人々に力を貸していたという現神の多くは、明たちが住まう世界の神話で出てくる神様だったのだ。
明はその事実に驚きながらも、夢中で事典を読み進めた。
その本を読んでいる間だけ、明は孤独を忘れることができた。まるで、知識を通じて失った仲間たちと会話をしているような気持ちになれたのだ。
そうして寒さに震えながら夜を明かした、その日。明は、ゴブリンの群れに遭遇した。
「……来たか」
明は剣を構えたが、心の内には絶望が広がっていた。紅い月の加護が弱まった今、以前のような身体能力は発揮できないことが分かっていたからだ。かつて容易に倒せたゴブリンも、今では手強い相手になっている。
「ギギッ!」
三体のゴブリンが、明を囲むように配置を取った。蒼い月の加護で魔物の好戦的な本能が抑制されているためか、以前より冷静な戦術を取ってくる。
明は『集中』スキルを発動し、最も小さなゴブリンを狙った。『急所狙い』で弱点を見極め、一撃で仕留める。
だが、残り二体との戦いは苦戦を強いられた。紅い月の加護が弱いため、筋力や速度が大幅に低下しているのだ。
「ぐっ!」
ゴブリンの棍棒が明の脇腹を直撃した。革鎧越しでも鈍い痛みが走り、バランスを崩す。
何とか二体目を倒したが、最後の一体との戦いで明は深手を負った。左腕に深い切り傷を負い、血が止まらない。
戦闘終了後、明は木の幹に背を預けて休息を取った。治癒手段もないため、自然回復を待つしかない。
「一人じゃ……やっぱり限界があるな」
じわりじわりと、死神の鎌が首筋にかけられているのを感じる。
それでも明は簡単に死ぬわけにはいかないと、一人でサバイバル生活を続けた。
魔物との戦闘は毎日のように発生し、そのたびに明は傷を負った。食料も十分に確保できず、体力は徐々に削られていく。
そして夜になるたび、明は事典を開いた。孤独な夜を過ごすには、知識だけが唯一の慰めになった。
ある夜、明はアルムストリアの地理について記された項目を見つけた。この世界には七つの大きな国があり、それぞれが異なる神を信仰していることが分かった。
別の夜、古代神についてより詳しく記された項目を見つけた。軍神マルスと知の神イリス以外にも、多くの古代神が存在していたらしい。
その中で、明の目を引いたのは奇妙な記述だった。
――運命を司る古代神【名前削除】。生と死、そして魂の輪廻を管理する最高位の古代神。その真名を記すことは禁忌とされ、多くの文献で意図的に消去されている。伝承によれば、この神の加護を受けた者は死してなお甦ると言われているが――
「……『黄泉帰り』と関係があるのか?」
明は自分の固有スキルを思い返した。死んでも三日後に蘇る力。それが、この名前を消された古代神の加護によるものだとしたら。
そう考えた時、明はふと気づいた。『黄泉帰り』について詳しく思い返そうとすると、違和感があるのだ。
自分がいつからこの力を持っていたのか、どうやって取得したのか、それ以前の自分はどんな人間だったのか――そうした記憶が、まるで霧がかかったように曖昧になっている。
特に、会社での日常、同僚との会話、実家の両親の顔。それらの記憶が、まるで他人事のようにぼんやりとしていることに気がついた。
誰かが缶コーヒーを差し入れてくれた記憶があるのだが、その人の顔も名前も思い出せない。大切な人だったような気がするのに、どうしても記憶の奥から引き出すことができなかった。
「……誰だったんだろう」
明は頭を抱えた。きっと親しい同僚だったはずなのに、その人の記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。まるで、重要な何かを失ったような喪失感があった。
鮮明に覚えているのは、最初にミノタウロスに殺された夜からのことばかりだ。
「まさか、これがリアナの言っていた『黄泉帰り』の副作用なのか?」
明は不安になった。
もしかすると、死から蘇る代償として、過去の記憶を失っているのかもしれない。それも、大切な人ほど忘れてしまうような、残酷な代償を。
だが、今はそれを確かめる術もない。明は事典を閉じ、不安を押し殺して眠りについた。
四日目の夜、明は大型のボアに遭遇した。
かつて田村と協力して倒した相手だが、今の明には荷が重すぎた。紅い月の加護が弱いため、ボアの突進を完全に避けることができない。
「うぉおおおっ!」
明は必死に剣を振るったが、体力の限界が近づいていた。魔力は蒼い月の加護で増強されているが、明には魔法を使う術がない。
最終的に、ボアの牙が明の胸を貫いた。
「がふっ……」
血を吐きながら、明の意識は闇に沈んでいった。
◇◇◇
そして三日後。
明は森の中で目を覚ました。
辺りの景色は、また変化していた。木々はより異世界的になり、空気も重くなっている。そして空を見上げると――
紅い月は完全に新月となり、蒼い月は満月になっていた。
軍神マルスの加護は最低限まで下がり、知の神イリスの加護は最大になっている。
「ステータス」
――――――――――――――――――
一条 明 25歳 男 Lv25
体力:28(+10)
筋力:27(+10)
耐久:20(+10)
速度:25(+10)
魔力:0(+50)
幸運:16
――――――――――――――――――
身体能力の補正が+10まで落ちていた。
これでは、ゴブリン一体と戦うのも苦労するだろう。代わりに魔力の補正は+50まで上がっているが、この力も使い道がない。
「進行度」
――――――――――――――――――
現在の世界反転率:51.24%
――――――――――――――――――
ついに50%を超えていた。
リアナの話では、この数値を超えた時に『座』が現れるかもしれないという話だったが、その姿はどこにも見えない。
明は慎重に行動した。マルスの加護が最低限まで下がった今、正面からの戦闘は自殺行為だったからだ。
幸いにも、イリスの加護で魔物の欲望が抑制されているためか、以前ほど積極的に襲ってこなかった。
それでも油断は禁物だった。魔物を避けながら、食料と水を確保することに専念することにした。
しかし、三日間の空白で体力は底をついていた。
木の実だけでは満足に栄養を摂取できず、明の身体は痩せ細っていく。頬はこけ、手足も細くなっていた。
「何か……もっと栄養のあるものを……」
そんな時、明は森の奥で奇妙な光景を目にした。
大型のボア――明を殺したのと同じ種類の魔物が、地面に倒れている。既に死んでおり、身体には大きな傷跡があった。おそらく、別の魔物との戦闘で命を落としたのだろう。
明は迷った。
魔物の肉を食べるという選択肢が、頭をよぎったのだ。
「魔物を食べる……」
かつて異世界の街で読んだ領主の日記にも、魔物を調理して食べるという記述があった。その世界の住民も、食糧難の中で魔物を食料にしていたのだ。
明は短剣を取り出し、ボアの肉を慎重に切り取った。血抜きをして、焚き火でしっかりと火を通す。魔物とはいえ、元は動物だ。十分に加熱すれば食べられるはずだ。
「……いただきます」
明は恐る恐る、調理した魔物の肉を口に運んだ。
味は……意外にも悪くなかった。少し獣臭さはあるが、久しぶりに摂取する動物性蛋白質は明の身体に力を与えてくれるような気がした。
「これなら……」
明は安堵した。魔物の肉という新たな食料源を見つけることが出来て、栄養不足の問題も解決できたと思った。
しかし、その判断は致命的な誤りだった。
食事から数時間後、明の身体に異変が起き始めていた。激しい腹痛と共に、全身に痺れが走る。
「がぁ……っ!」
明は地面に倒れ込んだ。魔物の肉には、人間には有害な毒が含まれていたのだ。火を通しても、その毒性は消えなかった。
冷や汗が額に浮かび、呼吸も浅くなっていく。手足の感覚がなくなり、視界も霞んできた。
「くそ……っ」
明の意識は急速に薄れていく。身体は痙攣し、最後に激しい嘔吐に襲われた。
毒により、明は再び死を迎えた。
◇◇◇
再び三日後。
明が目を覚ましたとき、世界は一変していた。
空が、文字通り割れていた。
天空に巨大な亀裂が走り、そこから青みがかった灰が雪のように降り続けている。かつて異世界の街で見た、あの世界の欠片と同じものだった。
地面にも、建物にも、木々にも、すべてが薄っすらと灰に覆われている。空気は重く、呼吸するたびに口の中に灰の味が広がった。
「ついに……ここまで来たか」
明は震える手で画面を開いた。
「進行度」
――――――――――――――――――
現在の世界反転率:57.24%
――――――――――――――――――
ついに50%を大きく超えていた。
だが、『座』の姿はどこにも見えなかった。
明は立ち上がり、灰が降り積もる世界を見渡した。森は枯れ始めており、魔物の気配も薄くなっている。まるで、世界全体が死に向かっているかのようだった。
「『座』……どこにいるんだ……」
明は歩き始めた。灰が降り続ける中、世界の境界を探すために。リアナの言葉を信じて、『座』という存在を探すために、明は灰が降りしきる世界を歩き続けた。
だが、灰が降り積もる世界での旅は過酷だった。視界は悪く、足場も不安定だ。魔物は少なくなったが、代わりに瘴気のようなものが漂い始めており、それを吸い込むと意識が朦朧とする。
明は何度も倒れ、何度も立ち上がった。食料はなく、水も灰で汚染されている。身体は衰弱し、歩くのもやっとの状態だった。
三日目、明は力尽きて倒れた。そして、汚染された空気により、再び息絶えた。
しかし、明は諦めなかった。
蘇るたびに、また歩き続けた。灰は更に厚く積もり、世界は死の色に染まっていく。
「座……座はどこだ……」
本当に『座』なんて存在するのだろうか?
リアナの話は、ただの言い伝えじゃないのか?
俺は、存在しないものを探して、永遠に彷徨い続けるのか?
明の心に、徐々に絶望が忍び寄る。
それでも、明は奥歯を噛みしめて歩き続けた。
他に選択肢がないから。希望が残っているから。そして、彩夏、田村、リアナ――彼らの想いを背負っているからこそ、立ち止まるわけにはいかなかった。
明は死に、蘇り、また死んだ。瘴気に侵され、魔物の残骸に躓き、灰に埋もれて。何度も、何度も、何度も何度も何度も。
そして―――…世界反転率が99%に達したその日。
一条明の目の前に、『それ』が現れた。
次回で過去編終わり。
フレリアが豊穣と水を司っていたのは、ギリシャ神話のデーメーテールと同じく北欧神話のフレイヤが同一視されてるってところからきていました。という裏話