一条明 -0- ⑲
「そして、その術式を私たちはこう呼んでいます。――『世界反転』と」
明の心臓が激しく鼓動した。
「世界反転……」
震える声でその名前を繰り返す。頭の中で、これまでに見てきた画面の文字が鮮明に蘇ってきた。
――『現在の世界反転率』
そう記されたあの数値は、術式の進行度を示していたのか。
「俺たちが見ている『世界反転率』って表示は、その魔術の進行具合を表していたんだな……」
田村も顔を青ざめさせて呟いた。
「だとすると、あれが100%に達した時―――…」
「完全に世界が入れ替わってしまう」
明が、田村の言葉を継いだ。
リアナが深刻な表情で頷く。
「預言書によれば、術式が完成すると、元の世界は完全に消失し、新しい世界だけが残るとされています。つまり……」
彼女は言葉を区切り、明と田村を見つめた。
「あなたたちの世界が、完全に失われてしまうのは間違いありません」
明は石の床に膝をついた。全身から力が抜けていく。
故郷。実家の両親。会社の同僚たち。七瀬奈緒。そして、明がかつて歩いた街並み、見慣れた景色、日常の全て――それらが、跡形もなく消え去ってしまう。
「そんな……」
田村も壁に手をついて体を支えていた。
「俺たちの世界に住んでいる人たちは、どうなるんだ?」
「分かりません」
リアナが小さく首を振った。
「預言書には、その詳細までは記されていません。ただ……」
彼女は一度言葉を止めて、深く息を吸った。
「この街で起きたことを考えると、おそらく……」
その先を言わなくても、明と田村には分かっていた。
アンデッド化した住民たち。青い灰と化した食料。そして、人の気配が完全に失われた街。
それが、明たちの世界でも起きているかもしれない。
「待ってくれ」
明が立ち上がった。拳を握りしめ、リアナを見つめる。
「その術式を止める方法はないのか?」
「術式を止める……」
リアナが預言書を再び開いた。慎重にページを捲りながら、古い文字を探していく。
「ここに……わずかですが、記述があります」
彼女の指が一行の文字を指し示した。
「『術式の中核を破壊すれば、世界反転は停止する』」
「術式の中核って……。それは、どこにあるんだ?」
田村が身を乗り出した。
リアナが神殿の外を指さす。
「世界反転の術式が発動された場所。そこに、術式を維持している『核』があるはずです」
明は窓から外を見た。遠くでは、まだギガントとミノタウロスの戦闘音が響いている。
「でも、そこまでどうやって行く? この世界は魔物だらけだ」
「それに」
田村が深刻な表情で付け加えた。
「術式の中核なんて、どうやって破壊するんだ? 神々が作った魔術だぞ」
リアナは少し考え込んでから、別の箇所を開いた。
「ここに興味深い記述があります。『次元の管理者は、術式に干渉する力を持つ。その存在こそが、世界の運命を決する鍵となる』」
「また『座』の話か」
明が眉をひそめた。
「でも、その存在にどうやって会えばいいんだ?」
「具体的な方法は分かりませんが……」
リアナが立ち上がった。
「あなたたちは、特別な存在です」
「特別?」
「この世界融合の過程でも生き残っている。……それに、先ほどのお話を聞いた限りでは、どうやらあなたたちには『世界反転』という魔術の進行具合が目に見えている様子。普通の人間には、そんなことはできません」
確かに、彩夏も世界反転率の画面を見ていた。そして、田村も見ることができる。
「つまり、俺たちは偶然ここにいるわけじゃないってことか?」
「その可能性が高いです」
リアナが頷いた。
「『座』は、あなたたちのような存在が現れることを待っているのかもしれません」
明は祭壇の前に歩み寄った。フレリア像を見上げながら、深く考え込む。
「リアナ」
「はい」
「君は、どうしたい?」
その問いに、リアナは一瞬戸惑った表情を見せた。
「どうしたい、とは?」
「この状況を受け入れて、新しい世界で生きていくのか。それとも……」
明は振り返った。
「元の世界を取り戻そうとするのか」
リアナは長い間黙っていた。預言書を胸に抱き、じっと俯いて考え込んでいた。
「正直……私には、分かりません」
「分からない?」
その言葉に、明と田村は困惑した。
「何が分からないんだ?」
「私には、もう何が正解なのか分からないんです」
「どういう意味だ?」
田村が首を傾げた。
そんな田村へと、リアナがわずかに笑った。その表情は、どこか寂しげだった。
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか。あなたたちにとって、私たちは――何なのですか?」
明の眉がひそめられた。
「何って……同じ人間だろう」
「同じ人間」
リアナが呟いた。その瞳には、深い悲しみと諦めが宿っていた。
「確かに、種族という枠組みで見れば同じかもしれません。私は人間種で、別の世界で生まれ育ったあなたたちも、私の世界の定義では、人間種です」
ですが、と。リアナは言葉を続けて、一つ、呼吸を置いた。
そして彼女は、睫毛を伏せながら絞り出すような声で、言葉を継いだ。
「……あなたたちと私たちとでは、立場が違います。あなたたちの世界は、まだ生きている。けれど私たちの世界は――すでに崩壊してしまった。神々は失踪し、魔物が跋扈し、人々は絶望の中で、静かに死んでいます」
「それは……」
「『世界反転』は、私たちにとって最後の希望なのです」
リアナの声に、かすかな感情が込められていた。
「誰がこの術式を起動したのか、私には分かりません。でも……これだけは分かります。『世界反転』という大魔術によって、私たちの世界は崩壊から免れることが出来るんです。……術式を止めるということは、私たちの世界を見捨てることと同じです。それだけは……私には、出来ません」
神殿に重い沈黙が落ちた。
田村はリアナの言葉に声を失い、明は複雑な表情でリアナを見つめていた。
やがて明が、沈黙を破る。
「君の言いたいことは分かった。でも、俺たちの世界だって犠牲になっていいわけじゃない」
「ええ、分かっています」
リアナが頷いた。
「融合が起きれば、あなたたちの世界も大きく変わることでしょう。融合の過程では多くの人が混乱し、犠牲になっているはずです。でも、私たちの世界を救うためなら……それも仕方ないのかもって考えてしまいます」
「仕方ないって、そんな!」
田村が声を荒げた。
「術式が起動し続けることで、多くの人が死んでいるんだぞ!」
「分かっています! でも……私たちにはもう、選択肢がありません!」
リアナも声を荒げた。
「私の世界は、もう手遅れなんです!! 神々はもう戻らないっ! 魔王の影響で、世界は……腐り果てている」
彼女の声が震えた。
「でも、あなたたちの世界は違う。まだ希望がある。私たちの世界と融合すれば、両方の世界が救われる可能性がある」
「それは……一方的すぎる」
明が低い声で言った。
「俺たちの同意なしに、勝手に世界を変えるなんて」
「同意、ですか」
リアナが苦笑いした。
「神々に同意を求められた人間がいるでしょうか? 世界の運命は、いつも私たちの知らないところで決められています」
「だからって、誰かを犠牲にする権利はない!」
田村が立ち上がり、リアナを睨んだ。
「それを言うなら、私たちにだって滅びゆく世界から逃れる権利があります!」
リアナも立ち上がり、田村と向き合った。
お互いの間に長い沈黙が流れる。
明は小さなため息を吐き出して立ち上がると、ヒートアップする二人を宥めるように、努めて冷静な口調で言った。
「二人とも、落ち着けよ。これじゃあ、ただの口論だ。建設的じゃない」
「……確かに。明の言う通りだ」
田村は大きなため息を吐き出すと、わざとらしく前髪をくしゃりと掻き乱した。
「ここで言い合っていても何も変わらないね。『世界反転』はすでに進んでいるんだし」
田村の言葉に、明はこくりと頷いた。
それから視線をリアナに向けて、口を開く。
「リアナ、君もだよ。俺たちは別に、君を責めているわけじゃない。俺たちは君たちの世界についてあまり知らないけど、それでも……君たちの世界で何が起きていたのかは、理解しているつもりだ」
「はい……」
と、リアナが小さな声を出して俯いた。
明はそんなリアナに向けて「でもね」と、諭すように言葉を続けた。
「俺たちのことも分かってほしい。俺たちにも、自分の世界を守る権利があるんだ。君たちの都合で、死んでいい人間なんて誰一人もいない」
「それは……分かっています」
リアナが預言書を見下ろした。
「私も、この状況が正しいとは思っていません。でも」
彼女の声が途切れた。
「私には、この世界の人々を見捨てることができないのです」
「だったら、両方の世界を救う方法を探そう」
明はリアナに向けて提案した。
「術式を止めるのではなく、別の道を探すんだ」
「別の道?」
「『座』の力を借りるんだよ」
明の提案に、リアナの目が見開かれた。明はそんなリアナを見つめながら、言葉を継ぐ。
「『座』は複数の世界の均衡を保つ存在なんだろう? だったらきっと、両方の世界を救う方法を知っているはずだ」
「でも、『座』に術式を制御する力があるとは……」
「制御する必要はない。『座』の本来の役割——世界の均衡を保つこと。それを果たしてもらうんだ」
「なるほど! つまり、無理やり融合させるんじゃなくて、自然な形で両方の世界が共存できる状態にしてもらうってことか」
田村も明の言いたいことを理解したようだ。ぱんっと音を響かせながら両手を合わせると、にこやかな笑みを浮かべた。
「そうだ」
明が頷いた。
「『座』なら、二つの世界をどうにか元の状態に戻せるかもしれない」
その言葉を聞いたリアナは、長い間考え込んでいた。
そして長らく考え込んでいた彼女は、やがて小さな吐息を吐き出すと、結論を出したかのように明たちを見つめて、言った。
「……確かに、それなら私の世界も見捨てることにはならないかもしれません」
「っ、それじゃあ――!」
明の顔に、安堵と希望の色が浮かぶ。
リアナもわずかに微笑むと、手にしていた預言書をそっと開いた。
「『座』について、詳しくお話しします」
三人は再び書庫に座り込んだ。今度は対立するためではなく、共通の希望に向かって知恵を出し合うために、顔を突き合わせる。
「『座』は世界の境界に存在し、複数の世界の均衡を管理する存在です」
リアナが預言書の一節を読み上げた。
「世界が崩壊の危機に瀕したとき、『座』の力によって新たな均衡が創出される――そう記されています」
「新たな均衡……?」
田村が首をひねった。
リアナは、田村へとその金眼を向けると、何でもお見通しだとでも言いたそうな顔で小さく笑う。
「あなたたちが持つ、力のことです」
「……気付いていたのか」
明の表情に、一瞬の警戒が走る。
リアナは静かに頷いた。
「あなたたちが持つ力とは異なりますが、私にも力があります。ですから、あなたたちの現在の状態を把握することは、そう難しくありません」
「把握って、どこまで分かってるんだ?」
「今のあなたたちの身体性能。そして、これまでに習得してきた技能の一覧が視えます」
「……俺が『解析』スキルを使った時に見えるものと、ほぼ同じだよ」
田村が明へと、小さな声で囁いた。
その言葉に明は肩の力を抜き、わずかに苦笑する。
「そこまで見透かされてるなら、隠し事をしても意味がないな。……それで? 預言書には、俺たちが持つ力が『座』によるものだと、そう記されているのか?」
明の言葉に、リアナが小さく頷いた。
「直接、そうだと明記されてはいませんが、『座』は均衡を司る存在です。なんの力も持たないあなたたちが、私たちの世界と融合することになれば、不利になるのはあなたたちだけです。そのため、『座』は均衡を保つために、あなたたちには私たちと同じか、もしくは根源が異なりながらも私たちに匹敵する力を、あなたたちに与えると思います」
「ってことはつまり、君たち異世界人と、俺たちの力は似ているけど別物ってこと?」
田村が問うた。その質問に、リアナが頷く。
「そういうことになります」
「俺たちの力の根源が、『座』によるもの……」
明は自分の手のひらを見つめた。
これまでに習得した『急所狙い』や『集中』のスキル、そして何度も死から蘇らせてくれた『黄泉帰り』。それらすべてが、世界の均衡を保つために与えられた力だと聞いても、この時点の明にはまだ、いまいちピンときていなかった。
「でもさ」
田村が口を開いた。
「それなら『座』はすでに俺たちに関わってるってことだろ? なんで直接現れないんだ?」
田村の疑問に、リアナは預言書の別のページを開いた。
「『座』は世界の境界に存在する者。物理的な干渉は最小限に留め、均衡が大きく崩れた時のみ、その力を顕現させる』……そう記されています」
「つまり、今の状況がまだ『大きく崩れた』状態ではないってことか」
明は複雑な表情を浮かべた。これだけの異常事態でも、まだ均衡の範囲内だというのだろうか。
「これで許容範囲内っていうんだったら、『座』ってやつは相当な楽観主義者だね」
田村が辟易するようにして言った。
「俺たちが『座』に会うことなんて出来るのかな」
「今のままだと無理だろうな」
明が渋い顔をして言った。
「均衡が大きく崩れた時って、世界反転率が大きく進んだ時ってことだろ? 今はまだ、世界反転率が30%を超えたばかりだ。均衡という話だけでいけば、まだ俺たちの世界は70%弱が残ってる。預言書の内容を鵜呑みにするなら、『座』が介入してくるのは世界反転率が50%を超えた時だ」
「うへぇ、それまでに俺たちが生きてればいいけど」
「間違いない」
明は田村の言葉に同意し、小さなため息を吐き出した。
「世界反転率は半日に1%のペースで進んでる。今の世界反転率は32%とちょっとだ。50%を超えるまで九日間は生き残らなくちゃいけない」
「九日間もどこで過ごすのさ」
田村が眉を寄せた。
リアナが控えめに手を挙げて主張する。
「あの、でしたら……。それまで、この神殿で過ごしませんか?」
「神殿に?」
「はい。この神殿にはまだ、フレリア様の加護が残っています。結界も張られているため、魔物たちも寄り付きません。神殿に備蓄されている食べ物はもう残り少ないですが……水は、私が出すことが出来ます」
「水を出すって、どうやって?」
明の疑問に、リアナが立ち上がった。
それからリアナは空いた水がめへと向かうと、そこに手を翳し、言葉を紡ぐ。
「水の創造」
瞬間、リアナの掌に小さな水の塊が出来上がった。水塊は徐々に大きくなると、バシャリと音を立てて水がめの中に落ちてしまう。あっという間に、水がめの中の半分を満たしたその様子を見て、明と田村はあんぐりと口を開けた。
「すっげぇ……本物の魔法だ」
田村が小さな声で呟いた。
「魔法なんて、本当にあるんだな」
と、明も小さな声で呟く。
リアナはそんな二人に穏やかに笑いかけると、水がめの水を陶器のコップで掬い上げた。
「ええ、フレリア様は豊穣と水を司る女神です。私は神官として、その恩恵を授かっています」
「フレリア様は姿を消したんじゃなかったのか?」
田村が疑問を投げかけた。
「確かに、お姿は見えません。でも……」
リアナは祭壇のフレリア像を見上げた。
「神殿に残された加護は、まだ私に力を与えてくれています。完全に失われたわけではないのです」
明はリアナから手渡されたコップの水を見つめた。確かに、澄んだ清水が満たされている。魔法で作られた水とは思えないほど、自然で美味しそうだった。
「それなら、しばらくここに留まるのもいいかもしれない」
明が提案に同意した。
「外は危険すぎる。ギガントやミノタウロスのような化け物が闊歩してるし」
「そうだね。それに、預言書をもっと詳しく調べることもできる」
田村も頷いた。
「『座』について、他にも情報があるかもしれない」
リアナの表情が明るくなった。
「ありがとうございます。久しぶりに……人と一緒に過ごせます」
その声には、長い孤独から解放された安堵が滲んでいた。
それから、明たちはリアナが用意した食べ物で腹を満たした。出されたのは、森で採れた木の実や干し肉が中心で、決して豪勢な献立とはいえなかったが、それでも――久しぶりに口にする〝缶詰以外〟の食べ物は不思議なほど心に沁みて、今の彼らにとっては、何よりも美味しく感じられた。




