一条明 -0- ⑬
それから、明は一人で北に向かって移動した。
メモにあった「北の学校」を目指し、拡大したライラ森林を抜けて街の北部へ向かう。魔物を避けながら、慎重に進路を取った。
道中、いくつかの人の痕跡を発見した。
廃墟と化したコンビニで見つけた日記。最後の記述は一週間前で、「食料が尽きた。明日、北の避難所に向かう」と記されていた。
アパートの一室で見つけた家族写真。血痕と共に散らばり、もはや誰の写真なのかも判別できない。
学校の体育館で確認した避難所の跡。黒板には「全員、西の工場に移動」と書かれていたが、その工場はすでに魔物の巣と化していた。
――どこへ行っても、同じ光景が広がっていた。
人がいた痕跡はある。だが、その人々はもう、どこにもいない。
魔物に襲われたのか、別の場所へ移動したのか。
真相は分からない。ただひとつ確かなのは、この世界に「生きている人間の気配」が、どこにも感じられないということだった。
「ここも、ダメか……」
明は項垂れた。
また一つ、希望が潰えた。
それでも、明のレベルは着実に上がっていた。
いまやステータス画面に記されたレベルは21。
体力や筋力といった基礎能力値も、初期と比べれば格段に向上している。戦闘そのものも、かつてのような死と隣り合わせの緊張感は薄れつつあった。
一人でも戦える。魔物を倒し、生き延びる術は手に入れた。
――だが、それで何になるのか。
強くなったところで、誰にも会わない。
誰かを助けることもできず、誰かに感謝されることもない。
ただ生きるために戦い、経験を積み、数字だけが機械的に積み上がっていく。
まるで、空っぽの世界でひとり、無意味に数値だけを眺め続けているようだった。
このままレベルを上げ続けて、いったい何を目指せばいいのか。
そんな疑問が、心の奥に静かに沈んでいた。
……そもそも、レベルを上げたところで限界はある。
特に、複数の魔物に囲まれた時は致命的だ。
もはや死そのものに恐怖は感じなくなりつつあったが、痛みだけはどうしても慣れない。
そして、死ねば三日間のロスという重すぎる代償がついてくる。
不死であることは、無敵を意味しない。死ねば何もかもが止まり、戻ってきたときには何も残っていない。
「はぁ……」
しかし、そのすべての問題でさえ、今の明にとっては取るに足らないものだった。
本当に彼を蝕んでいたのは、別の恐怖だ。
――それは、深い孤独だった。
誰とも言葉を交わせない。
共に歩む仲間も、支えてくれる存在もいない。
助けを求める声もなければ、それに応える誰かもいない。
ただ、狂った世界を、たった一人でさまよい続ける日々。
それは、死ぬことよりもなお恐ろしい。――生きながら、永遠に閉じ込められる〝牢獄〟に他ならなかった。
そんな世界を歩き続けて二日目。
異変が起きたのは、その正午のことだった。
ふいに、チリンと軽やかな音が鳴り、見たこともない画面が開かれた。
――――――――――――――――――
世界反転率が25%を超えました。
世界反転率が25%を超えたため、異なる世界の常識が一部適用されます
――――――――――――――――――
「異なる世界の常識……?」
明は画面を見つめながら呟いた。
しかし、それ以上の情報は表示されず、画面は数秒後にすっと消えてしまった。
だが、その意味はすぐに体感することになる。
ささくれ立っていた心が、不思議と落ち着き始めたのだ。
田村の裏切りへの怒り。
誰とも繋がれない孤独感。
それらが、まるで霞が晴れるように静かに消えていく。
思考は澄み渡り、この異常な環境さえも受け入れられそうな奇妙な落ち着き――いや、全能感さえあった。
(なんだ……この感覚)
自分の変化に戸惑いながら、明はステータス画面を開いた。
――――――――――――――――――
一条 明 25歳 男 Lv21
体力:24(+40)
筋力:22(+40)
耐久:16(+40)
速度:23(+40)
魔力:0(+20)
幸運:14
――――――――――――――――――
月の効果による補正値が、変わっていた。
日が経つにつれて、赤い月は徐々に欠け始めている。
月が欠けるにしたがって、幸運値を除いた各身体能力値は徐々に低下している。
最後に見た能力値の補正値は+20だ。
にもかかわらず、その補正値が増えている。
さらに驚くべきなのは、魔力値の補正だった。直前で確認した時は補正値が+10だったのに、今では補正値が倍になっている。これまでの法則とは明らかに異なる変化だった。
「月の効果が倍になったのか……?」
おそらくそうだ、間違いない。
だとすれば、この妙にスッキリとした感情も月による効果だ。やはり、あの蒼い月は精神を落ち着かせる効果があるのかもしれない。
(月の補正が倍になったのは嬉しいけど、月の光が魔物に及ぼす効果も倍になっただろうな……。より一層、気を引き締めないと)
明はそう心で呟くと、また歩き出した。
目的の学校に到着したのは、その日の夕方のことだった。
しかし、そこで明が目にしたものは絶望的な光景だった。
校舎は半壊しており、グラウンドには巨大な穴が空いていた。明らかに、大型の魔物による破壊の跡だ。念のために明は校内を探索したが、生存者はおろか、最近まで人が住んでいた形跡すら見つからなかった。
その日の夜、明は、紅と蒼の月が交互に輝く空を見上げながら、彩夏のことを思い出した。
彼女がいれば、この孤独も和らいだだろう。一緒に戦い、一緒に人を探し、一緒にこの世界で生き抜いていけたかもしれない。
しかし、彩夏はもういない。
そして、田村は裏切者だ。
「俺は、本当に一人なのか……」
三日目の夕方。明はそんなことを考えながら、破壊された学校から街の中心部に戻り、傾いた廃ビルの屋上で休憩していた。
明の目の前には、世界反転率を示す画面が開かれている。
そこに記された数値は、すでに27%を超えていた。
あと数日も経てば世界反転率は30%を超えてしまう。反転率による影響が最後に記されたのは、25%の数値を越えた時だが、30%になればそれもどうなるか分からない。
(俺たちの世界の、三分の一が消えた世界か)
明は茫然と画面を見つめながら、考えた。
すでにこの街のほとんどが森に飲まれていた。空には紅と蒼の二つの月が浮かび、混じり合う異彩をわずかに残った街の残骸へと光を落としている。
人間の気配よりも、魔物の気配だけが濃くなった街だ。それを、もはや街と呼んでいいのかすらも分からない。
「このまま、もしかしたら俺は……」
と明が小さな声で呟いた、その時だった。
「よお、明」
下から馴染みのある声が聞こえた。
その軽薄な声に、明の全身に怒りが駆け巡った。
慎重に屋上の端まで行き、下を覗く。
そこに立っていたのは、紛れもなく田村だった。
相変わらずの軽い笑みを浮かべ、まるで散歩でもしているかのような余裕の態度でビルの屋上を見上げている。
明を見捨てて逃げてからはそれなりの苦労を重ねたようで、服は泥や血に汚れて、身体にはいくつもの大きな傷が増えていた。
「見つけたぞ〜。隠れてても無駄だって」
それでも、田村は手を振りながら、人懐っこい笑顔を見せていた。まるで、久しぶりに友人と再会したかのような態度だった。
「あの野郎……ッ!!」
明は短剣を握りしめた。
ヘラヘラとしたあの顔を見ていると、怒りが込み上げてくる。自分を見捨てておきながら、よくもまあ何食わぬ顔で現れることが出来たものだ。そして、その表情には一片の後悔も罪悪感も見えない。
明は半ば飛び降りるようにして階段を駆け下りると、田村の前に立った。
「田村……」
明の声は低く、殺気を帯びていた。拳が自然と握られ、全身から怒りのオーラが立ち上っている。
そんな明を見て、田村がへらっとした軽い笑みを浮かべた。
「お、なんだなんだ。機嫌悪い感じ?」
「機嫌が悪いのかだと……」
明の声が震えた。
「お前、俺が死んだことを何とも思ってないのか?」
「思ってないよ」
田村は即答した。
「だって、君は生き返るんでしょ? 死んでも大丈夫なら、問題ないじゃん」
その言葉に、明の怒りは頂点に達した。
「よくも俺を見捨てやがって!」
明は短剣を抜き、田村に向かった。
しかし、田村は慌てる様子もなく、両手を上げた。
「待て待て。話を聞いてよ」
「聞く話なんてない!」
「まあまあ、そう怒るなって」
田村は肩をすくめた。
「君、確か言ったよね? 『危険な任務でも引き受けられる』って。だから俺は、君にその危険な任務をお任せしただけじゃないか」
「ふざけるな! それは仲間としての信頼関係があってこその話だ!」
「仲間?」
田村が首をかしげた。
「俺たち、そんな深い関係だったっけ?」
その言葉に、明は言葉を失った。
確かに、田村とは数日しか行動を共にしていない。しかし、明は彼を信頼し、秘密まで打ち明けた。
それなのに——
「君は死なないんだから、何の問題もないでしょ?」
田村の開き直った態度に、明は絶句した。
「むしろ、君のおかげで俺は生き延びることができた。感謝してるんだ」
「感謝だと?」
「そうそう。お礼に、この一週間で分かったことを教えてあげるよ」
田村は明の怒りなど意に介さず、軽い調子で続けた。
「まず、世界反転率が20%を超えた時に、あの蒼い月が現れた。あの月が現れてから、俺たちの能力値には魔力って項目が追加されたんだ」
明は短剣を構えたまま、田村の話を聞いた。自分でも確認していた情報だったが、黙って聞き続けた。
「それから、魔物の行動パターンが変わった。昼間はあまり活動しなくなって、夜になると動き回るようになった。」
「……それで?」
「あと、避難所をいくつか見つけたんだ」
その言葉に、明の動きが止まった。
「避難所?」
「そう。でも……」
田村の表情が曇った。
「全部、襲撃された後だった。生存者はいなかった」
明は田村の顔を見つめた。嘘をついているようには見えない。
「他にも、いくつか生存者のグループがあったみたいだけど、全部やられてる」
田村は深刻な表情を浮かべた。
「多分、生き残ってるのは俺たちだけだと思う」
その言葉に、明は愕然とした。
本当に、自分たちだけなのか?
「嘘だろ……」
「嘘じゃない。この一週間、必死に探し回ったんだ」
田村の声には、わずかに疲労が滲んでいた。
「君がいない間、俺一人でこの街を調べ続けた。でも、生きてる人間は一人も見つからなかった」
明は短剣を下ろした。怒りは消えないが、今は現実を受け入れなければならない。
「つまり……」
「そう。俺たちは、この街で最後の生存者かもしれない」
田村が静かに言った。
「だから、また一緒に行動しない? 一人じゃ、さすがに限界があるよ」
明は田村を睨みつけた。
「お前を信用すると思うか?」
「信用しなくてもいい。でも、協力は必要でしょ?」
田村の言葉は的を射ていた。
確かに、この世界で一人で生き延びるのは困難だ。魔物は強くなり、世界はどんどん変化している。
だが、田村は自分を裏切った。
「……条件がある」
「何?」
「二度と俺を見捨てるな。約束しろ」
田村は苦笑いを浮かべた。
「見捨てるって言葉は心外だなあ。俺は合理的な判断をしただけだよ」
「約束しろ!!」
明の声が鋭くなった。
「分かった分かった。約束するよ」
田村は軽く手を上げた。
「君を見捨てたりしない。満足?」
明は田村の顔を見つめた。この男の言葉を信用することはできない。
だが、今は他に選択肢がなかった。
「……次に裏切ったら、ゴブリンの肥溜めに突き落としてやる」
「それはマズイね。裏切らないようにしないと」
田村が軽やかに手を叩いた。
「それじゃあ、改めてよろしく、相棒」
明は返事をしなかった。
この男は相棒ではない。単なる利用価値のある道具だ。そして、機会があれば捨ててやる。
そんな冷たい決意を胸に、明は田村から顔をそむけた。




