一条明 -0- ⑦
――三日後。
明は激しい呼吸と共に目を覚ました。
胸を締め付ける息苦しさと、全身を駆け巡る生の実感。死から蘇る時特有の、焼けつくような痛みが身体中を襲う。
しかし、それよりも先に脳裏に浮かんだのは、彩夏の姿だった。
「彩夏……!」
明は跳ね起きた。辺りを見回すが、彼女の姿はどこにもない。慌てて、彼女が最後に倒れていた壁際へと駆け寄った明は、息を呑んだ。
「っ……」
彩夏の身体は、魔物に食い荒らされていた。床に散らばっているのは、骨の欠片と血痕、そして引き裂かれた衣服の切れ端だけ。そこに、人の形はどこにもない。傍にある重たい蹄の痕を見て、彼女の身体を食い荒らしたのがミノタウロスだと、一発で分かった。
「そん……な……」
凄惨な現場を見て、膝から崩れ落ちる。現実が重たく胸にのしかかり、明はその場に蹲った。
彩夏は死んだ。
ミノタウロスに殺され、喰われてしまった。
死体は残らず、どこにもない。彼女の死も尊厳も、この世界のどこにも残されていなかった。
「なんでだよ……」
明は身体を震わせて、拳を握りしめた。爪が皮膚を破り、拳の内側に血が滲む。しかし、物理的な痛みなど、今の明には何の意味もなかった。
「何でッッ! 俺たちがこんな目に合わなきゃいけないんだッッ!!」
明の叫び声が廃ビルに響いた。目の前に突き付けられる数々の理不尽に、ふつふつと怒りが湧き上がる。
「意味が分からねぇよ! 俺は、ついこの間までただのサラリーマンだったんだぞ! いつも通り残業して、いつもの帰り道を通ってただけなのにッッ!」
なぜ、魔物がこの世界に現れたのか。
なぜ、世界がこのようになってしまったのか。
そして何より――
「なんで俺だけが、この世界で死ぬことが出来ねぇんだよ!!」
明は涙を流しながら、何度も心からの叫びをあげた。
「どうして、こんなことに……なってんだよ……ッ」
胸の奥を支配するのは、深い絶望と後悔だった。
結局、何も守れなかった。力もない。経験もない。ただ死んでも生き返るというだけの、役立たずの存在。そんな自分を庇って、彼女は死んだ。
「すまない……彩夏……すまない……」
涙が止まらなかった。
明は彩夏との短い時間を思い返した。初めて出会った時の凛々しい表情。魔物から守ってくれた時の頼もしさ。そして最後の夜、友達のことを語った時の悲しげな笑顔。
全て、もう二度と見ることはできない。
『黄泉帰り』のない彼女は、生き返らない。
「…………」
どのくらい間、そうしていただろうか。
涙が涸れて、ようやく明は顔を上げた。その時、瓦礫の隙間で、何かが光っているのが見えた。
「なん、だ……?」
明はそれに手を伸ばす。それは、彩夏が腰に差していた短剣だった。刃は魔物の素材で作られており、柄には細かな装飾が施されている。明を守るために最後まで握りしめていたであろう、彼女の形見だった。
「これは……」
明は震える手で短剣を握った。
冷たい金属の感触が、彩夏の記憶を蘇らせる。彼女の身体はもうないが、まるで、明に託すかのようにこの短剣だけは残っていた。
明は涙を拭い、短剣を胸に抱いた。
『あんたを守るくらい、朝飯前だから』
彼女が最後に言った言葉を思い出した。
その言葉には、冗談めかした響きがあったけど、彼女は本当に、自分の命を賭けて明を守ってくれたのだ。
ならば、その想いを無駄にするわけにはいかない。
「俺は……生きなきゃいけない」
明は震える声で呟いた。
「君の分まで。この世界で、俺は生き抜かなきゃいけない」
明は短剣を腰に差した。彩夏の温もりは既になく、冷たい温度だけが残っている。しかしその冷たさが、剣の重みが、彼女の決意を伝えているようだった。
廃ビルを抜け出す。
外の世界は、三日前と変わらず荒廃していた。街は相変わらず森に飲み込まれ、魔物の縄張りと化している。
ふと夜空を見上げると、そこには二つの月が浮かんでいた。
一つは見慣れた白い月。そしてもう一つは、血のように赤い月。
三日前にも赤い月は空に浮かんでいたが、今は完全な満月となり、強烈な光が大地に降り注いでいる。その光に照らされた廃ビルの瓦礫が、まるで生き物のように蠢いているように感じた。
「赤い月が……満月になってる」
明は呆然と空を見上げた。前回復活した時にも赤い月はあったが、今夜の光は段違いに強い。明らかに何かが変わっている。
「ゲゲイッギギィ!!」
気配に気づいたのは、そんな時だ。
通りの向こうから響く異様な鳴き声に、明は小さな悲鳴をあげた。
(何か、近づいてくる)
慌てて、明は近くにある瓦礫の陰へと身を隠した。しばらく息を殺していると、明の傍をゴブリンの群れが通りかかった。
「ギギッ、ゲゲイギギル」
ゴブリンたちの動きが、明らかに変化していた。以前は単独で動き、それぞれの個体が思うがままに襲いかかってくるだけで、連携など取れていなかった。
しかし今は違う。
軍隊のように統制の取れた動きを見せている。偵察役、攻撃役、支援役――それぞれが明確な役割分担をしているかのように、戦術的な動きを見せていた。
(魔物が、賢くなってる……)
明は心で呟き、息を呑んだ。
これでは以前のように逃げることすら難しい。見つかれば最後、あの群れに襲われ殺されてしまうだろう。
幸いにも、ゴブリンたちは明に気づかず、遠ざかっていった。明はゴブリンの姿が完全に消えたのを見て、十分に時間をかけて安全を確認した後、ゆっくりと瓦礫の陰から這い出た。
「これから、どうしよう」
思わず、不安が口についた。
魔物が蠢くこの街で、たった一人で生きていけるはずがない。知り合いに連絡を取ろうにも、電波は三日前の時点ですでに圏外だ。頼れる人は誰も居ない。
「そう言えば……」
明はふと、前回出会った佐藤と名乗った元自衛官の男を思い出した。
あの避難所の話。明日の夜まで待つと言っていたが、それももう過ぎているだろう。しかし、彩夏が警戒していたアーサーという人物のことを考えると、素直にその避難所に向かうのは危険かもしれない。
(だったら、行先は一つか)
彩夏が言っていた、もう一つの避難所――。
そこに向かうことが出来れば、誰か生き残っている人に出会えるかもしれない。
(けど……それがどこにあるのか、分からないんだよな)
明は心で呟いて、ため息を吐き出した。
彩夏は案内すると言ってくれたけど、結局、詳しいことは聞けずじまいだった。そもそも、あれから三日が経ったこの世界で、その避難所がまだ機能しているのかどうかすら分からない。
「…………」
明は立ち止まり、周囲を見回した。
一人で、この世界を生き抜いていかなければならない。
彩夏のような頼れる仲間もいない。彩夏が使っていた、『索敵』というスキルもない。
あるのは、『黄泉帰り』という死んでも生き返るスキルだけ。
だが、それでも――
「やってみせる」
明は呟いた。
死ぬことがないという利点を活かして、他の人間には不可能なことに挑戦することもできるはずだ。まずは情報収集。彩夏が言っていたもう一つの避難所を探すか、それとも他の生存者を見つけるか。
明は歩き始めた。
しかし、自分の身体の違和感に気づいたのは、歩き始めてすぐのことだった。
(なんだ?)
心臓の鼓動が、やけに力強い。筋肉に、普段感じたことのないような力が漲っている。
少し力を籠めただけで、筋肉が今までにないくらいパンパンに膨らんだ。まるで血液の流れが加速しているかのようだった。
「これは……」
明は、まじまじと自分の手を見つめた。試しに、近くの瓦礫を持ち上げてみる。
「なっ!?」
普段なら到底持ち上げられないような重い石塊が、驚くほど軽々と持ち上がった。
明らかに、自分の身体能力が向上している。
「いったい何が……」
呆然と呟き、そこで明は彩夏から教わったことを思い出した。確か、自分の身体能力を見ることが出来る言葉があったはず。
「えっと……す、ステータス」
小さな声で呟いた。
すると、目の前に青白い画面が現れる。
――――――――――――――――――
一条明 25歳 男 Lv1
体力:3(+50)
筋力:3(+50)
耐久:2(+50)
速度:2(+50)
幸運:2
――――――――――――――――――
「なんだ、これ……!」
明は驚愕し、声を上げた。前回見た時から、幸運を除く全ての数値が50も向上している。
「なんで、こんなに上がってるんだ?」
知らないうちにレベルが上がったのかと思ったが、そうではない。ステータス画面に記された自分のレベルは、いまだに最弱を示す1のままになっている。
(俺の知らないところで、何かが変わったのか?)
明は心の中でそう推測した。
その推測は正しかった。ここは前回から三日後の世界だ。明が死んでいる間に、この世界に変化が起きていても不思議ではない。
だとしたら、この変化は何の影響によるものだろうか。
「世界反転率……」
明は彩夏が言っていた言葉を思い出した。
彩夏は、この世界に魔物が現れた直後のことを教えてくれていた。その数値が1%を超えた時に魔物が強化され、4%を超えた時に街が森に飲まれたと、そう言っていた。
ならば、この能力値の変化も、その数値による影響が生じている可能性が高い。
(彩夏は、世界反転率ってやつが、〝この世界〟が〝あっちの世界〟に侵食されている度合いだと言っていた。この三日間で、世界反転率はさらに進んでいるはずだ。その間に何かしらの変化が起きて、こうなっているはずなんだが……俺にはそれが分からない)
明は画面を見つめて、深いため息をついた。
「せめて、今がどのくらいの『進行度』なのか分かればいいんだけど」
愚痴を漏らすように、小さな声でつぶやいた。
その直後だった。
チリン、という音が鳴って、明の前に別の画面が開かれた。
――――――――――――――――――
現在の世界反転率:13.77%
――――――――――――――――――
「13%……」
目の前に開かれた画面の数値に、明は茫然とした声を漏らした。
「たった六日間で、この世界の十分の一が異世界に飲み込まれたのか……?」
信じたくはなかった。
けれど、信じるしかなかった。
急速な勢いで、この世界は消えようとしている。このままいけば、あと43日後には、この世界のすべてが異世界の理に飲み込まれていることになる。
「どうにかしないと」
けれど、どうやって?
明は方法を探るようにして自分の能力値を見つめた。そこでしばらくの間、目の前に表示された文字を見つめて、決心した。
「戦うしかない」
彩夏のように、魔物と戦うしか方法はない。
幸いなことに、なぜか、自分の能力値はすべて上がっている。この数値が高いか低いかは分からないが、少なくともゴブリンぐらいはなんとか倒せるはずだ。
赤い月は、ギガント編で明が目にしていた月と同じです。4%超えて、異世界の一部が現代に現れたと同時に空に出来たものです。