一条明 -0- ③
「花柳彩夏。……そっちは?」
「一条……一条明。って……名前を名乗ってる場合か?」
明の声はまだ荒れていたが、それでも疑問と恐怖を混ぜ込んだ問いが込められていた。
彩夏はそれを真正面から受け止めることなく、ひとつ深く息を吐いた。
「さっきので、ある程度わかったと思うけど、あれは〝魔物〟。少なくとも、こっちの世界の生き物じゃない」
「世界……?」
「三日前。5月21日。東京を含む世界中で、同時に変化が起きた。異界の侵食――魔物またはモンスターって呼ばれる生き物がこの世界に現れて、人々を襲い始めた。……そして人間の一部にも異変が起きた」
明の眉がひくりと動く。
「異変……って、なんだよ」
「覚醒。魔物に対抗できる力――〝スキル〟を発現した人間が、ごく一部で現れ始めた。私もその一人」
彩夏はそう言うと、明の膝へと目を向けた。
いつの間にか、傷が出来ていた。さきほど転んだ時に擦りむいたものだ。ズボンが破れ、血が滲んでいる。
彩夏はその場にしゃがみ込むと、明の膝へと手を当てた。
「……じっとしてて」
そう言って、軽く息を吸う。
次の瞬間、彼女の掌から淡い光がにじみ出した。
まるで霧が夜を照らすような、やわらかな光。濃く滲んだ血の赤を包み込むように、膝の傷口へと染みわたっていく。
明は息を呑んだ。
肌に直接触れているわけではないのに、傷口の奥からじんわりと熱が広がっていく。焼けるような痛みではない。ただ静かに、痛みが引いていく。
数秒の沈黙のあと、彩夏はすっと手を引いた。
「これでいい」
明が膝に目をやると、破れた布地の下、血はすでに止まり、擦り傷はうっすらと痕を残す程度に癒えていた。
「……治ってる」
震える声でそう言うと、彩夏はわずかに目を細めた。
「これが〝覚醒者〟の力。繰り返すけど、誰にでもあるわけじゃない。全体の中でも、こういう力を持ってるのはごくわずか。大半の人間は、何の力も持たずに……死んでいった」
その口調には、静かな怒りと哀しみが滲んでいた。
明は言葉を失ったまま、癒えた膝を見下ろす。やがて、ぽつりと呟く。
「じゃあ……俺は」
彩夏は即座に首を振る。
「覚醒してない。少なくとも、今のあんたには、何の力も感じない」
その言葉は冷たかった。けれど、それが事実なのだと、明自身も痛感していた。
無力だ。何もできない。ただ逃げて、助けられただけの存在でしかない。
それでも――
「それでも、生きてる」
ぽつりと、彩夏が言った。
その声音には、どこか引っかかるものがあった。安心や労わりとは違う。むしろ、不審と警戒が混じっている。
明が顔を上げると、彩夏は真っすぐに彼を見ていた。彼女の射抜くような視線と明の瞳がぶつかる。静かな沈黙が、重く張り詰めた。
「……ねえ、ひとつだけ聞かせてくれる?」
その口調は変わらず落ち着いていたが、瞳の奥は僅かに揺れていた。
「あんた……どこから来たの?」
「どこって……駅の……近く。気づいたら、倒れてて……」
明は口ごもりながら答えた。
彩夏が質問を重ねてくる。
「怪我は?」
「いや、転んだ時の擦り傷だけで……」
彩夏は黙って明を見つめた。その沈黙が、言葉以上に意味を持っていた。
「おかしいわね」
低く言う。
「この三日間、あの辺りは完全に魔物どもの縄張りだった。誰も近づけなかった。あそこに人がいたら、まず間違いなく……」
言葉を切り、わずかに目を細める。
「……死んでる」
その一言が、刃のように明の胸を突く。
けれど、それは明自身も感じていた違和感だった。自分は確かに〝あのとき〟死んだはずなのだ。背中を叩き潰され、肺が潰れ、意識が途切れた。その記憶は鮮明に焼きついている。
それなのに、こうして生きている。
無傷で。まるで、何事もなかったかのように。
「あんた、なんで生きてるの?」
彩夏が問うた。探るように、だが決して感情に流されず、冷静に。
明はその言葉にまた、顔を伏せた。
「……わからない。俺にも、何が起きたのか……全然」
その答えに、彩夏はしばらく沈黙したまま目を伏せた。そして、ごくわずかに唇を動かし、低く呟いた。
「……チートでも持ってるとか、そういうのじゃないなら、マジで意味わかんないんだけど」
皮肉めいた口調だったが、それは単なる冗談とは違っていた。
彼女の視線は、依然として明の全身に注がれている。何か見落としているものがないか、確かめるかのようなその視線が、明の心をさらに締めつける。
言い返す言葉もない。
けれど、胸の内で膨れ上がる違和感は、もはや「偶然」や「運が良かった」では済まされないと告げていた。
自分の身に起きたことは、確実に何かがおかしい。
重苦しい沈黙のなか、彩夏がふいに声を落とした。
「……ひとまず、移動しましょ。こんなところに居たら、また魔物に襲われかねない」
その一言で、空気が現実へと引き戻された。
明は頷いた。返事をする余裕すら、言葉にする自信すらなかった。
彩夏が先に歩き出す。周囲を警戒しながら、素早く足を進めていく。
明もその背を追った。身体はまだ重く、関節の一つひとつがぎこちない。それでも、止まるわけにはいかなかった。
舗装の剥がれた歩道を、ふたりは駆けていく。暗がりの中、彩夏の持つスティック型のライトの微光だけが足元を照らしていた。
街灯の大半は機能を停止し、信号も黒く沈んでいる。まるで、人の営みだけが削ぎ落とされたような都市の静寂だった。
「……全然違う街に来たみたいだ」
漏れた明の独白に、彩夏は一歩先を行きながら答えた。
「三日あれば、変わるよ。人が消えて、モンスターが支配すれば、それだけで十分」
その声には、疲労ではない、別の重みがあった。
「変わるって……どこまでの範囲で?」
「分からない。最初は、都内を含む周辺の地方都市だけだったけど……。今はもう通信網が落ちてるから、正確な被害は把握できてない」
「政府は? 自衛隊とか、そういう……」
「動いてた。最初の半日までは」
「半日だけ?」
その言葉に、彩夏は小さく頷いた。
「魔物が現れてから、半日後の午後十二時。あたしたちの前に画面が現れたんだ。――世界反転率。その数値が、1%を超えたっていう知らせだった」
「それって……どういう意味なんだ?」
明の問いに、彩夏は足を止めなかった。代わりに、言葉だけを静かに投げる。
「〝あっちの世界〟が、あたしたち現実を侵食し始めたってこと」
舗装の継ぎ目が、ガラスのように裂けていた。そこから覗くのは地面ではない。紫がかった靄と、不気味に蠢く肉のような何か。明の背筋に、冷たいものが走った。
「世界反転率が1%を超えたって知らせが出たと同時に、もとから狂暴だった魔物たちがさらに狂暴になった。今じゃあもう、倒すことが出来る魔物たちも限られてる」
「……さっき、ゴブリンが銃を無視して突っ込んできた理由も、それか?」
「あれは別。そもそも、こっちの武器はアイツらに対して効果がない。アイツらに対して効果があるのは、〝あっちの世界〟の武器だけだから」
彩夏はそう言うと、腰に帯びた短剣を撫でた。
「時間が経てば経つほど、〝世界反転率〟は上がってる。数値が上がれば上がるほど、この世界は〝あっちの理〟に侵食され始めてる。……この街が、森に飲み込まれたのもそう。世界反転率が4%を超えたって知らせが出た途端に、街は完全に変わってしまった」
その言葉に、明は思い返す。
駅前で目にした、鉄骨を呑み込みながら成長する異様な樹木。足元から伸びる苔の海、黒ずんだ蔓が街灯を締め上げるように絡まっていた光景――あれも、すべて〝侵食〟の一部だった。
「……あれが、反転した世界ってわけか」
「正確には、混じり始めた状態。まだ〝完全〟じゃない。画面には『異世界の一部』って記されてた。多分だけど、このまま反転率が上がり続けたら……いずれ、こっちの世界が丸ごと置き換えられる」
言いながら、彩夏は周囲に目を光らせる。どこか遠くで、獣じみた唸り声が響いた。
彩夏は獣の唸り声から離れるように、行先を変えるとまた走り出す。
明は、その背中を追いかけながら聞いた。
「……なあ、さっきから言ってる『画面』って何のことだ?」
「嘘でしょ、あんた、そんなことも知らないわけ?」
彩夏は思わず振り返り、呆れたように目を細めた。
しかし、明の顔は真剣だった。冗談を言っている様子はない。
「悪いな。三日前に……死んで、さっき生き返ったばかりなんだ」
軽く、けれどもどこか乾いた声音でそう呟いた明に、彩夏の足が止まる。
「……は?」
彩夏の声が、かすかに裏返った。
走る足音が止まり、静まり返った裏通りに、ふたりの呼吸音だけが残る。彼女は信じられないという顔で、改めて明を頭からつま先まで見下ろした。
「ちょっと待って。死んだって……マジで言ってんの?」
「ああ。俺にもよく分かってない。でも――確かに、あの時、ミノタウロスに殺された。身体が浮いて、背中を強打して……意識が途切れて、それで……」
明は言葉を選びながら、あの夜の記憶をゆっくりとたどる。だが、断片はそこまでしか残っていない。次に気づいた時には、あの場所で目を覚ましていたのだ。
「三日後に、何の前触れもなく……あの場所で目を覚ました。死んだ場所と、まったく同じ場所で」
彩夏は顔をしかめ、喉奥で小さく舌打ちした。
「あんたのつまらない冗談なんか、聞いてる場合じゃないんだけど」
「嘘じゃないッ!! 本当なんだよ! 俺は本当に……一度、死んだんだ!」
明の叫びに、彩夏はまじまじと明の顔を見つめた。その表情には、驚きと疑念と、ほんのわずかに、怯えの色が混じっていた。
「……何それ。じゃあ、あんた――ゾンビか何か?」
冗談めかして吐き捨てたその言葉に、明は小さく首を振るしかなかった。否定も肯定もできない。けれど、確かに生きているという感覚だけは、今ここにある。
彩夏は目を逸らし、短く息をついた。
「……まあいい。どっちにしろ、あんたが〝おかしい〟のは確かだ」
そして、そのまま顔を戻す。先ほどとは違い、今度の視線には明確な警戒が含まれていた。
「死んだ人間が生き返るなんて……あたしが知ってる限りじゃ、聞いたこともない。覚醒者だって、魔物に殺されたらそれで終わり。蘇生なんてシステム、こっちの世界には存在しない」
「システム?」
「……話が早すぎたわね」
彩夏は短く髪を払うと、わずかにトーンを落とした。
「あんたが見てないっていう『画面』のこと。魔物が現れたあと、突如として全人類の前に表示されたインターフェースよ。自分のレベルと能力値ステータス、そしてスキル……まるでゲームみたいなものなんだけど、それが現実世界に割り込んできた」
「それは……どうやって見れるんだ?」
「簡単よ。『ステータス』って呟いてみて」
「ステータス?」
明は彩夏に言われるがまま、呟いた。
その直後だった。
チリン、と響く軽い電子音とともに、明の目の前にそれは現れた。
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一条明 25歳 男 Lv1
体力:3
筋力:3
耐久:2
速度:2
幸運:2
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「なっ……」
目の前に広がる青白い画面に、言葉が詰まる。
明は自らの能力値が記された画面をまじまじと見つめた。体力3、筋力3、耐久2――それが高いのか低いのか、比較する基準は分からない。ただ、現実世界での自分の運動能力や体力を考えると、「妥当」か、あるいは「物足りない」数値に思えた。
だが、それよりも――目を奪われたのは、最下段に表示されたスキル欄だった。
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固有スキル
・黄泉帰り
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「……これ……」
喉がごくりと鳴る。
明の脳裏に、あの夜の光景が再びフラッシュバックしていた。
ミノタウロスに吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられたあの痛み。肺の空気がすべて押し出され、視界が反転し、身体の感覚が消え失せたあの瞬間。
――あの時、一条明は確かに死んだ。
そして、三日後に、何の前触れもなく〝生き返った〟。
(……まさか。これが、その理由か?)
明は震える指で、画面に触れた。
すると指に反応したように、新たな画面が展開された。
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黄泉帰り
・パッシブスキル
・スキル所持者が死亡した際に発動し、スキル所持者は、死亡時点から三日後に自動復活する。
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