一条明 -0- ①
過去編。いわゆる0周目の話です。
「……じょう! おい、一条っ!」
耳元で誰かが怒鳴るように呼ぶ声が響いた。
明は反射的に顔を上げた。首筋に鈍い痛みが走り、重たいまぶたの向こうに、蛍光灯のまぶしさが差し込む。
視界がゆっくりと焦点を結び、そこに立つ人影が形を成した。
ダークグレーのテーラードジャケットに、淡いブルーのブラウス。シンプルなタイトスカートに身を包み、長い黒髪をひとつにまとめた女性が、仁王立ちでこちらを睨んでいた。
きっちりしたオフィススーツ姿にもかかわらず、どこかラフな雰囲気をまとうその態度に、明はようやく目の前の人物を認識する。
七瀬奈緒――明の上司でもあり、中学時代から顔馴染みのある先輩だった。
彼女は腕を組み、小さくため息をつく。
「ようやく起きたか。ったく……白目むいて突っ伏してるから、倒れたのかと思ったぞ」
その声に、現実感がようやく戻ってきた。
天井の蛍光灯が冷たく瞬き、積み上げられた書類、開きっぱなしのスプレッドシートが視界に入る。
シャツの襟元はじんわりと汗ばんでおり、手首の腕時計はすでに午後十時を回っていた。
どうやら、残業の途中でいつのまにか眠り込んでいたらしい。
「……すみません。少し、気絶してたみたいです」
ぼそりと漏らす明に、奈緒は呆れたように眉をひそめた。
「そんな大げさな。だいたい、あの量をひとりで片づけようとするのが無茶だったんだ。一条、ちゃんと自分の身体も労われよ」
そう言って、奈緒は手に持っていた缶コーヒーを明のデスクに置いた。ブラックと微糖――彼の好みを把握した上での、いつもの組み合わせだった。
その気遣いに、明はわずかに口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
「ほどほどにしろよ」
素っ気ない口調の奥に、どこか柔らかな気配が混じっていた。
奈緒は背を向け、そのまま自席へと戻っていく。その後ろ姿を目で追いながら、明は額に手をやり、深く息を吐いた。
いつの間にか、社内に残っているのは明と奈緒、そして一人ふたりの管理職だけになっていた。静まり返ったオフィスにわずかな機械音だけが響いている。
明は残りの業務に手をつけることなく、机上の資料をざっと整えると、デスクの引き出しにしまった。
ノートPCを閉じ、ネクタイを緩め、上着を手にして立ち上がる。
終電には――間に合うかもしれない。それでも小走りは必要だ。
タイムカードを打刻してエントランスを抜けると、外気が肌に刺さるようだった。
日中のぬるい暑さが嘘のように、夜風は乾いて冷たい。足早に駅へと向かうすがら無言でスマートフォンを確認し、最終電車の時刻を確認してから、画面をスリープに戻す。
駅までの道はいつも通りだ。コンビニの灯り、夜間清掃のトラック、そして一杯飲み屋から漏れてくる笑い声。
けれど、不意に胸の奥が空洞のように冷えた。
(……何やってんだろうな、俺)
自分でも気づかぬうちに、そんな言葉が脳裏に浮かんでいた。
残業を終え、終電に駆け込む。疲れて寝落ちし、誰かに起こされて、缶コーヒーを飲んで、明日もまた同じように働く――
それは、どこにでもある社会人の一日かもしれない。
だが、何かが欠けている気がした。いや、とうの昔に手放していたのかもしれない。
熱中できるもの。
突き動かされる理由。
それとも、昔は確かにそこにあったはずの「意味」。
それらはすべて、日々の仕事に擦り減らされ、書類の隙間に紛れ、静かに風化していった。
明は何も言わず、改札を抜けた。ホームへと続く階段を上りながら、足音だけが、やけに響いて聞こえた。
電車は数駅を静かに揺られながら進み、やがて明の降りる駅に到着した。
改札を抜けると、時刻はすでに深夜零時近く。駅前の通りは人の気配もまばらで、街灯の下に浮かび上がるアスファルトの照り返しがやけにまぶしく感じられる。
コンビニはシャッターを下ろし、居酒屋のネオンも消えかけていた。
明は肩を回し、ゆるくあくびをひとつ漏らすと、もう何度通ったかわからない、帰宅ルートを無言で歩き出した。
マンションまでの道には、特に変わったところはない。
通い慣れた坂道。古びた電柱。深夜でも煌々と明かりの点いた自販機。
ただ、その夜の空気だけが――妙に、重かった。
風が止んでいた。
虫の音も、葉擦れもない。まるで音そのものが、世界から抜け落ちてしまったかのような静寂。
足音だけが、自分の存在を確かめるようにアスファルトを叩いていた。
そんなときだった。
先の路地で――何かが動いた。
「……なんだ?」
明は立ち止まり、目を細めた。
人影にしては、でかすぎる。明らかに異様な質量がある。光の届かない闇の中、その〝影〟は確かに立っていた。
異様に厚い胸板。腕というよりも柱のように太い上肢。そして頭部には、角を持っていた。
――獣、だ。
牛。いや、それにしては立ち姿がおかしい。逆立つ筋肉と黒光りする体毛はまるで精巧に鍛え上げられた鋼の塊を思わせた。肩幅は異様に広く、動くたびに鎖のような血管が皮膚の下で脈打つ。肩で呼吸をしているように、胸が上下していた。
街灯の光が、そいつの輪郭を舐めた瞬間―――明の脳内でひとつの名がはじけた。
ミノタウロス。
伝説の怪物――ゲームや神話の中にしか存在しないはずのその異形が、夜の住宅街に現れていた。
「は、ハハ……まだ寝ぼけてんのかな」
明は口先だけの笑みを浮かべ、目の前の怪物を凝視した。
その視線に気づいたかのように、そいつはゆっくりと明の方へと首を傾ける。
眼窩の奥、沈んだ黒い瞳が、はっきりとこちらを捉えていた。
ドスンッ。
重い蹄が静寂を破る。
一歩。
また一歩。
それはまっすぐ、明に向かって歩み寄ってくる。
「ははっ……は……」
現実味がない。けれど、汗がにじむ。心臓が早鐘を打つ。
ドスンッ、ドスンッ。
蹄の音を鳴らしながら、それは止まらない。
幻想ではない。
明の身体が、先に理解していた。数歩、後ずさる。背筋を冷たいものが這い上がる。
――日常が、軋んでいた。
(……逃げ、なきゃ)
呼吸が浅くなる。
(早く逃げなきゃ!)
理屈より先に、足が動いていた。
明は踵を返し、来た道を駆け戻る。駅へ戻るか、それとも曲がり角の向こうにある交番まで行って助けを求めるか――そんな判断をしている余裕はなかった。
とにかくこの異常から離れること。それだけを本能が叫んでいる。
背後で、重い足音が鳴る。
石畳を削るような轟音。明らかに人のものではない蹄の響きが、じりじりと間隔を詰めてくる。
(ふざけんな、なんなんだよこれ! なんで、なんでこんな……)
肩がぶつかる。街路樹の陰をかすめ、バランスを崩した。
なんとか体勢を立て直しながら、明は自分の呼吸が異様に浅くなっていることに気づく。
走れない。足がすくむ。怖い――いや、違う。「恐ろしい」ではない。理屈の通じない「死」が、すぐそこにいる。
次の瞬間だった。
風を裂くような音が、すぐ真横を通り過ぎた。
「ぅぁあああああッッ!!」
明は反射的に身を屈める。
直後、背後のアスファルトが炸裂した。
振り返るより早く、空気の重みが変わる。何かが振り下ろされたのだと、身体が直感で察知した。
視界の端に、棍棒のような腕が見えた。
逃げる暇などない。すでに目の前に迫っていた。
(死ぬ……)
そう思った瞬間、視界が反転する。
突き飛ばされたのか、それとも吹き飛ばされたのか。身体が宙を舞い、回転した。
着地の衝撃さえわからない。ただ、背中に石のような硬い何かがぶつかる感触と、次の瞬間に肺から空気が抜ける音だけが、耳に残った。
「……がふっ」
動けない。呼吸もできない。
視界が滲む。何が起きているのかも、もはや判然としなかった。
それでも――ミノタウロスの姿だけは、見えた。
夜の闇の中、そいつはまっすぐにこちらへ歩いてくる。
口元が、かすかに歪んでいた。嗤うように、あるいは肉を喰らう直前の獣のように。無表情よりも、なお冷たいその顔が、殺意を隠しもせず歩み寄ってくる。
(いやだ……死にたくない)
唇が震える。けれど、声は出なかった。
視界が暗転する。
何かが砕けたような音が、遠くで響いた。
――チリン。
かすかな音が空気を揺らす。
その正体に気づく間もなく、明の意識は闇に呑まれていった。
◇◇◇
「……っ、はっ――」
明は荒い息を吐きながら、目を覚ました。
「あっ……か、は……っ」
破れた呼吸の隙間で、大きく空気を吸い込む。
肺が焼けつくように痛み、喉の奥がヒリつく。瞬間、視界を刺すような光が差し込み、反射的に目を細めた。
眼の奥がじんと痛む。胸は締めつけられ、心臓の鼓動が異様に早い。
けれどそれ以上に、身体中に染みわたる、生の実感が異様なほど鮮明だった。
(生きてる……?)
そんなはずがない。
確かに、自分は殺された。あの異形に、無惨に踏み潰された。
にもかかわらず、目の前には夜空が広がっている。
周囲を見渡すと、見覚えのある古びた街灯が立ち、足元には夜風に揺れる木々の影が落ちていた。耳を澄ませば、虫の声さえ聞こえる。それは、明らかに現実の気配だった。
夢にしては、あまりにも細部が鮮明すぎる。
明は、冷たい路面の上に横たわっていた。
アスファルトの硬さが背中にじわりと染み入り、徐々に皮膚の感覚が戻ってくる。風の冷たさがむき出しの肌を刺すように伝わった。季節は冬ではないはずなのに、空気は妙に冷たい。
「……は……ここ……は……?」
掠れた声が漏れる。喉が乾ききっていて、声帯がうまく動かない。
それでも、自分が発した問いは、誰に届くでもなく宙に浮かんだ。
「……なん、で……?」
喉の奥で声が震える。
明はゆっくりと手を動かし、足を伸ばした。四肢は問題なく動く。痛みも、骨の軋みもない。
だが、着ていた服は血で硬くなっていた。背中にも、何かに強く打ちつけられた痕が残っている。
現実感のないまま、明は上体を起こし、足をついて立ち上がった。
道は静まり返っている。人影はない。ミノタウロスの姿も、影も、何も見えなかった。
ただ一つ、確かだった。
〝ここ〟で自分は、死んだ。
辺りを見回すと、壁面に血痕の跡があった。破片のような何かが落ちている。街灯の一つは根元から折れかけ、黒く焦げていた。
誰も処理していない。警察も来ていない。封鎖も、規制線すらない。
(……そのまま、放置された?)
心で呟き、そして気づく。
見慣れたはずの風景、そのすべてが――壊れている。
ひび割れた舗装。砕けたガラス。ねじ曲がったフェンス。
住宅は無惨に壊され、瓦礫と化していた。記憶の中のこの場所には、そんな破損などなかったはずだ。そして何より、都市の喧騒が一切、聞こえてこない。
「……なにが……起きてる……?」
明は誰にともなく呟いた。
その声だけが、沈黙の路地に落ちる。返答も、気配もないまま、夜の闇だけが広がっていた。
立ち上がった明は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夜風が静かに吹き抜ける。
けれど、その音さえも妙に遠い。耳の奥に残るのは、血の巡る鼓動の音ばかりだった。
――何かが変だ。
その確信だけが、胸の奥でじわじわと膨らんでいく。
足元の舗装は、つい最近補修されたはずだった。しかし、目の前のアスファルトには、深くひびが入り、まるで重機にでも踏み潰されたような圧痕が残されている。
街灯の柱には、黒く煤けた跡があった。火災か、それとも爆発か――そう思わせるほどの焦げつきだ。けれど、そんな事件の記憶は、どこにもなかった。
明はポケットからスマートフォンを取り出す。
スリープを解除すると、画面がゆっくりと光を放った。
電波は圏外だった。
それだけで、ぞっとするほどの寒気が背中を這い上がる。都内の住宅街で、圏外などあり得ない。
ふと、時計の表示が目に入る。
――午前四時二十八分。
(こんな時間まで……寝てたのか?)
いやそれよりも。
(通知が……凄い)
未読メッセージ:48件。
不在着信:七瀬奈緒(5)、総務部(3)、母(2)。
慌ててLINEを開く。画面は緊迫した文面で埋め尽くされていた。
《どこにいるんだ!? 返信してくれ!》
《都内でも怪物が出たって噂ある。早く連絡を!》
《政府の緊急放送……本当なの?》
「え?」
ぞわり、と違和感が首筋を這う。通知に記された送信日時。どれも「5月21日」から始まっていた。そして画面右上には、はっきりと現在時刻が表示されている。
《5月24日(金) 午前4:28》
「……三日……?」
脳の奥を何かで殴られたような衝撃。現実が、すぐには頭に入ってこない。
けれど、数字は否応なく事実を突きつけてくる。
「嘘だろ……?」
画面に表示された「5月24日」の文字が、視界の中心に焼きつく。
しかし、自分の記憶は、あの化け物に襲われた場面で途切れている。
それ以降に何があったのか、思い出そうとしても、まるで三日分の時間そのものが抜け落ちていた。
それでも――今、自分はこうして立っている。
意識もある。息もしている。鼓動も感じる。
どう考えてもおかしい。なのに、目の前に広がるこの現実は消えてくれない。
三日間の空白。
そして、この身体が確かに「今」ここにあるという事実。
たどり着いた答えは、信じがたく、けれど否定できなかった。
「……俺は、三日後に生き返ったのか?」
その声は、自分でも信じられないほど、かすれていた。




