呪詛
海岸を駆け抜ける。
瓦礫と黒く焦げた砂浜を踏み越えながら、明は荒い息を吐いた。
視界が揺れる。全身に痛みが巣くったままだ。それでも、走らずにはいられなかった。
(奈緒さんが危ないって……どうしてだ?)
奈緒の固有スキルである『不滅の聖火』は確かに発動していた。再生を促す水薬も飲ませた。あとは気力さえ続けば、問題なく回復できるはずだった。
なのに、なぜ――。
「こっち!」
彩夏の指が示したのは、崩れた瓦礫に囲まれたコンクリートの影だった。熱で撓んだ鉄骨の奥、明の目にその姿が映る。龍一が、奈緒の身体を抱きかかえるようにして支えていた。
「明……!」
駆け寄った明に、龍一が顔を上げる。
その姿は、見るも無惨な姿だった。全身の至るところに黒紫の結晶を生やし、どす黒い血を流している。皮膚の表面には異様な紋様が浮かび、その変わり果てた変化を目にした瞬間、明は悟った。
――龍一の体内魔素率が、すでに50%を超えている。
「……龍一さん、その姿……」
「俺のことはいい。それよりも、七瀬のことだ」
呼吸を乱しながらも、龍一は視線を奈緒へと向けた。
「俺たちが追いついた時には、もうこの状態だったんだ!」
その腕の中で、奈緒は微動だにしない。
白い。異常なまでに、血の気が引いた顔だ。呼吸はかすかに続いているが、その肌にはまるで命の色がなかった。
全身に火傷の痕が残り、一部は赤黒く腫れ、焦げた皮膚が今にも剥がれ落ちそうになっている。肌の奥で、まだ炎がくすぶっているかのようだった。
「……ッ!」
焦げた肉の匂いが鼻を突く。熱はとうに引いているはずなのに、奈緒の身体からは、どこか異質な気配が立ち上っていた。
これが本当に、スキルの効果下にある肉体なのか――そう疑いたくなるほどに、傷は癒えるどころか、むしろ悪化しているように見えた。
まるで、何かが奈緒の再生を意図的に妨げているかのようだ。
「嬢ちゃんの回復スキルも効かない。それに……火傷の範囲が、まだ広がってる!」
「すぐに調べます!」
明は膝をつき、奈緒のそばに身を寄せた。
(呼吸はある。『不滅の聖火』がまだ働いてる……けど!)
生命活動はスキルによってかろうじて維持されていた。本来なら〝持続再生の水薬〟で、時間と共に癒えていくはずだが、今は、何かがその再生を明らかに妨げている。
その原因を確かめるため、明はすぐにスキルを起動した。
「『解析』!」
視界が一瞬、青白く染まり、情報が展開される。
――――――――――――――――――
個体情報
・現界の人族。
・体内魔素率:12%
・体内における魔素結晶:心臓および肝臓に散在
・体外における魔素結晶なし。
・身体状況:重度の熱傷と火傷
――――――――――――――――――
個体は 『火精霊王の怨念』による呪詛を受けています!
・毎秒、魔力属性ダメージ(火)を受け続けます
・全耐性 -30%(累積)
・自然回復、無効化中……
解除には《祝福》または同格以上の浄化効果が必要です
――――――――――――――――――
(これは……)
浮かび上がる異常な干渉。
その内容に、明の瞳が揺れた。
「……『火精霊王の怨念』による呪詛だ」
低く、絞り出すように言った。
明の言葉に、仲間たちの顔色が変わる。
「怨念……?」
彩夏が呟く。明は頷き、淡く光る解析画面に視線を落としたまま続けた。
「この状態異常は、通常の火傷や汚染とは違う。これは〝呪詛〟――イフリートが放った、残留魔力による灼熱の呪いだ。いま奈緒さんの体は、毎秒、火属性の魔力ダメージを受け続けている」
「え……でも、スキルも薬も使ってるのに……」
「それすらも無効化されている。自然回復も再生効果も……すべてが遮断されてる」
彩夏の顔が真っ青になる。
声を震わせながら、それでも彼女は言葉を絞り出した。
「それじゃあ……七瀬の傷を癒すには……その呪詛を解かなきゃいけないってこと……?」
明は静かに頷いた。
「――ああ。解除には、『祝福』……もしくは、それと同格以上の浄化スキルが必要だ」
「ッ、だったら! だったら、あたしの『解呪』で―――!」
彩夏が立ち上がりかけ、手を構える。
「無理だ」
明は、即座に遮った。
はっとしたように振り向く彩夏に、淡々と現実を突きつける。
「そのスキルは……この状態異常には効かない」
「どうして……!」
「『解呪』は中級スキルだ。この呪詛を解除できるのは、それよりも上位の『祝福』だけなんだよ」
沈黙が落ちた。
海鳴りすら、遠くへ引いたように感じられる。
「ッ、そんな……そんなはずありません!」
今度は柏葉が声を上げた。
奈緒の焦げた手を、震える指で握りしめながら叫ぶ。
「待っててください! 今すぐ、『回復薬』の材料になるモンスターを討伐してきて……!」
「悪いが嬢ちゃん、そりゃ無理そうだ」
龍一が呟く。声は悔しさを含んでいた。
「見たところ、この呪いは今も進行してる。俺には『解析』スキルがないからどんな状況なのかさっぱりだが……それでも、七瀬の命を確実に削り続けてるのは分かる……!」
視線が、明に集まる。
その中央で、彩夏が絞り出すように言葉を吐く。
「何か……何か方法はないの!? ねぇ、オジサン……! 教えてよ!」
明は答えられなかった。
答えなど、持っていなかったからだ。
奈緒の呼吸は、確かに続いている。しかしそれは、『不滅の聖火』が生きているからにすぎない。
限界まで小さくなったその炎は、いまにも吹き消されようとしている。
(今の俺にも……この状態異常をどう解除すればいいかなんて、分からない)
けれど、心のどこかに、ひとつだけ引っかかっていた。
――第六感。
この世界の〝本質〟を察知し、理解することが出来る特殊なスキル。
そしてその派生スキル『超感覚』は、先ほどの戦いで得た新たなポイントによって、今や進化の寸前にある。
(もしかしたら……)
明は静かにステータス画面を開き、『超感覚』に視線を向けた。
次のレベルアップに必要なポイントは100。
だが今の彼には、それを満たしても余りあるポイントが残されていた。
「……賭けるしかないか」
誰にともなく呟く。
そして、画面の中で『超感覚』のレベルを、ひとつ上げる。
――――――――――――――――――
スキル:超感覚Lv2を取得しました。
スキルの進化条件が満たされています
スキル:超感覚 が スキル:真我同調 へ進化します
――――――――――――――――――
無機質な画面が切り替わり、別の文字が表示された。
視界の奥で、何かが砕けた。
次の瞬間には、経験した覚えのない情景と感情が、一瞬にして明の意識を満たしていた。
「ぐっ……!」
思考と感覚が渦を巻いている。それらすべてが、理由も順序もないまま明の内側を飲み込んでいく。
見知らぬ戦場、聞いたことのない断末魔、追いつけなかった足音。崩れていく街。間に合わなかった選択。そして、救えなかった名前。
その一つひとつが、過去の断片としてではなく、現在進行形の痛みとして突き刺さってくる。
「ぅ、ぅううっ……」
喉が詰まり、息がうまく吸えない。思考が空転し、身体の重さが抜け落ちる。
ただ、何かを取り戻そうとする衝動だけが、感情の底でまだ微かに灯っていた。
そしてその奥に、一つの光景が立ち上がる。
誰もいない街だった。
空が焼け落ち、世界が壊れて灰が降っていた。
すべてが死に絶えた世界で、剣を杖に歩き続けている男がいる。
それは、かつてのこの世界で、ただ一人生き残った自分の姿だった。
次回から過去編。一条明という存在の始まりの話です