報酬と代償
「……終わった、のか……」
かすれた声が、風に溶けていく。
そのとき、肩にふと温もりを感じた。
倒れかけた明の身体を、柏葉がそっと支えていた。その手は、驚くほどに温かかった。
「大丈夫ですか?」
「……今にも死にそうです」
明はかろうじて答えたが、言葉の軽さとは裏腹に、体は限界を迎えていた。
痙攣する身体を柏葉に預けながら、荒れた呼吸を繰り返す。
体内では、暴走した魔力の熱がなおも渦を巻いていた。わずかに身じろぎするだけで、全身を引き裂かれるような激痛が走る。咳き込んだ瞬間、大量の血が喉の奥から溢れた。
――確認するまでもない。
魔力回路は、完膚なきまでに壊れてしまった。それはもう、粉々に。今までは魔力回復薬で短時間ながらも魔力を使用することが出来たが、この状態ではもう、それすらも叶わない。
砕けた回路には、魔力は流れない。
(けど……無理をした甲斐はあった)
そう思えたのは、確かに結果があったからだ。
明は視線を上げ、イフリートが崩れ落ちた場所を見やった。
たとえこの先、二度と魔力が使えなくなったとしても、これまで幾度となく命を奪われてきた強敵をようやく討ち果たしたのだ。
この一戦で、ついに決着がついた。
これで、もう。世界反転の術式は稼働しない。術式の核となっていた最後のモンスターを討ち取った今、敵の根幹は断ち切られたのだ。
本来なら、ようやく得たこの静寂に、しばし身を委ねていたい。
しかし、現実はそれを許してくれない。
(……急がないと。奈緒さんが危ない)
戦闘中、致命傷を負った彼女の姿が、鮮明に脳裏を過ぎる。
奈緒の固有スキル『不滅の聖火』が確かに発動していたのは見た。傍を離れる前に〝持続再生の水薬〟も飲ませた。命だけは、繋がっているはずだ。
それでも――あれから時間が経ちすぎている。どんな変化があってもおかしくない。
本当なら、今すぐにでも駆け出して、彼女のもとへ向かいたい。
だが、足が動かなかった。
肉体の限界は、すでに目前だった。
立っていることすらままならず、ただ呼吸を保つのが精一杯だ。無理に一歩でも踏み出せば、全身が崩れ落ちる。そんな感覚が、確かにあった。
(くそ……っ)
思い通りにならない身体に、苛立ちを募らせ唇を噛む。
そんな明の想いとは裏腹に、チリン――と、無機質な音が空気を裂いた。現実の情け容赦なさを突きつけるように、視界の端からそれは現れた。
戦いが終わったことを知らせる、システム画面だった。
――――――――――――――――――
レベルアップしました。レベルアップしました。レベルアップしました……。
ポイントを5つ獲得しました。
消費されていない獲得ポイントがあります。
獲得ポイントを振り分けてください。
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「終わった……? これで、すべて終わったんですか?」
柏葉もまた、同じ画面を目にしていたのだろう。呆然とした声が漏れていた。
明は画面から視線を外して、柏葉へと目を向けた。
「どうやら、そのようです」
「……っ、それじゃあっ! 異世界からの侵略はこれ以上なくなったってことですよね!?」
「そうですね。術式の核となっていたモンスターや異世界人はすべて消滅し、俺たちがいるこのエリア――日本を含む周辺諸国は、異世界からの侵略に晒されることがなくなりました」
その言葉に、柏葉の口から大きな安堵のため息が漏れ出た。
「良かった……。これで世界は元に戻るんですね」
「それは……」
明は口ごもった。その言葉に対する答えを、持っていなかったからだ。
これまで幾度となくイフリートに挑み続けてきたが、イフリートを倒したのは今回が初めてだ。ゆえに、これから先、この世界がどうなっていくのか明にも分からない。
けれど、これだけは確信を持って言える。
「すでにもう、進んでしまった反転の影響は変えられません。この世界は異世界からの侵略に怯える必要はなくなりましたが、この世界に現れたモンスターがすべていなくなったわけじゃないんです」
「それじゃあ」
「ここからは、この世界に現れたモンスターをすべて討伐しなければいけません」
その言葉に、柏葉の表情が暗くなった。
視線を俯かせて、彼女は呟くように言葉を漏らす。
「そう、ですか……。それは、すごく大変ですね」
「はい。ですから、これからも力を貸していただけると―――」
チリン。チリン。チリン。
会話中にもひっきりなしに鳴り続ける電子音に、明の言葉が途切れた。見なくても分かる。イフリートの討伐報酬画面だ。まるで催促するように鳴り続ける画面の音に、明は小さなため息を吐き出して、柏葉に言った。
「すみません、少し待っててください。報酬画面がうるさくて」
言いながら、明は再び画面に目を向けた。
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条件を満たしました。
ゴールドトロフィー:灼界の終焉 を獲得しました。
ゴールドトロフィー:灼界の終焉 を獲得したことで、以下の特典が与えられます。
・対象の魔力に炎属性を付与
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まず目を向けたのは、トロフィーの取得を知らせる画面だった。初めて見るトロフィーだ。過去の周回でも、このトロフィーは見たことがない。
(まあ、当然か。イフリートを討伐したのは今回が初めてなんだ)
報酬は、魔力に炎属性を付与するというもの。
その内容に、明の眉間にわずかな皺が寄った。
(魔力に属性が付与される? 魔力に属性なんてあったのか)
魔法には炎や雷、水や風といった様々な種類の魔法があることは知ってはいたが、魔力そのものに属性があったことは初耳だ。過去の周回中でも、そのような話は聞いたことがなかった。
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魂に刻まれた困難を乗り越えました。
固有スキル:黄泉帰り のスキルに新たな効果が追加されます。
固有スキル:黄泉帰り の追加効果により、以下のシステム機能が解放されました。
・世界編選
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次に表示されたのは、『黄泉帰り』に追加された新たな機能だった。
――世界編選。
オールリセットとも呼ばれる、『黄泉帰り』システム最後の追加機能だ。
効果は、すべてをやり直すだけのもの。これまでの苦労も、喜びも、すべてを無にしてまた一から始めるリセットボタン、とでも言えば分かりやすいだろうか。
これまで何度も使ってきた機能なだけに、明は確認もそこそこに次の画面へと目を向けた。
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一条明のシナリオ【魂の誓い】が進行中。
特定モンスター イフリートの討伐1/1
一条明のシナリオ【魂の誓い】に記されたすべての条件の達成を確認しました。報酬が与えられます。
シナリオクリアの達成報酬として、一条明に固有スキルとポイントが与えられます。
・固有スキル:異界渡り が一条明に与えられました。
・ポイント300が一条明に与えられました。
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(……異界渡り?)
この内容には、さすがの明も画面を操作する動きを止めた。
イフリートを討伐したのが初めてなのだから、当然、固有シナリオのクリアも初めてだ。その報酬として得られるものが、まさか『黄泉帰り』とはまた別の、新しい固有スキルだとは思わなかった。
(内容は……遮断された空間内部に侵入することが出来るようになる?)
スキルの効果を示す画面を開いて、首を傾げる。
過去の周回で得た知識の中に、似たようなものがないかと探ってみたが、それらしきものは何もなかった。
(この世界の〝外側〟に干渉できるようになるということか)
境界を越える力。
その意味を、今はまだ明自身も理解していなかった。
(これは後で調べよう)
心で呟き、画面を閉じた。
そうしている間にも、また次の報酬画面が目の前に開かれる。
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ボスモンスターの討伐を確認しました。
世界反転の進行度が減少します。
……術式の稼働が停止しています。
対象エリア内に存在していた、術式の稼働に必要な〈核〉の消滅をすべて確認しました。
・ギガント 討伐済み
・異世界人ニコライ 討伐済み
・イフリート 討伐済み
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日本エリアの術式:『世界反転』が無効化されました
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初めての功績!
閉ざされた世界に新たな可能性を示しました。
一条明と〝座〟の管理者との繋がりがより深くなります!!
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画面にそう表示された瞬間、世界がほんのわずかに――確かに「正常」に近づいた気がした。
画面が消え、淡い光が空に溶ける。
明は、深く息を吸い込んだ。重く淀んでいた空気が、ほんの少しだけ澄んでいる。そのわずかな変化に、明は指先で触れられるような手応えを感じていた。
「……空気が、変わりましたね」
柏葉の声は、海風に乗って静かに届いた。
明はゆっくりと顔を上げ、彼女の方へと目を向けた。
「ええ。確かに」
それは、長く続いた悪夢の終わり――
あるいは、新たな悪夢の入り口かもしれない。
けれど、いま目の前にあるのは、誰かが未来を描ける世界だった。
「ここから先は、俺たちだけの戦いじゃない。これからの世界は、きっと……」
その言葉を紡ごうとした瞬間だった。
「おじさん!!」
風を裂くように、叫び声が飛び込んできた。
海鳴りと混じるように、砂浜の向こうから血相を変えた少女が駆けてくる。龍一とともにいたはずの、彩夏だった。
「七瀬が……七瀬が危ない!」
叫びは、恐怖と切迫のままに突き刺さった。
明の胸が、一気に締め付けられる。
「……奈緒さんが?」
問い返すまでもなく、明の足は反応していた。全身に走る痛みも、まだ熱を帯びた傷も、思考の後ろに押しやられる。ふらつく足で駆け出そうとすると、「危ない!」と言ってすぐに肩を柏葉に支えられた。
明は数歩前に進みながら、彩夏に言った。
「状態は?」
「わからない……でも、急に容態が変わって、スキルが、再生が止まって……!」
言葉が震えていた。
明は剣を傍に引き寄せると、その場から駆け出した。




