VS イフリート③
「グッ、ガァアアっ!」
境界を超えたイフリートの巨躯が、海へと落下していく。
燃えさしのような光を放ちながら、空中を裂いて、海面を割った。
数秒遅れて、爆ぜるような水音と、白濁した蒸気の塊が立ち上る。
龍一は、その場に立ち尽くしていた。
正確には、立っているように見えただけだった。
「―――…」
槍の柄を支えに、無理やり身体を預けているだけ。
両足の感覚は、もうなかった。
体内で暴れ続ける魔素が、徐々に肉体を蝕んでいくのがわかる。
視界の端が赤く染まり、血が涙のようにこぼれていた。
「……ハ、ハハ……やっタ、カ……?」
誰にともなく、龍一は声を漏らした。
返事はなかった。
だがそれでよかった。
この結末を見届けたという事実が、唯一の意味だった。
足元に、彩夏が崩れ落ちるように座り込んでいた。
顔は煤に塗れ、片袖は焼けていた。
それでも、その目はしっかりと、龍一を見ていた。
「おじさん」
「……ああ」
もう、言葉も続かない。喉が焼けて、声帯が割れていた。
ただ、彩夏が無事だったことだけが、全てを報いてくれるような気がした。
息を吐くたび、熱い何かが喉から逆流してくる。
肺の奥が、もう空洞のようだった。
(……もう……限界だな)
そう思ったとき、不意に腕を引かれた。
「立って。まだ終わってないでしょ」
彩夏の手だった。
「……無リ……ダ。もウ、あルけねェ」
「歩かなくていい。……運ぶから」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「なニ言ってンダ、オ前……そンな身体デ……」
「言ったでしょ。絶対に、今は死なせないって」
歯を食いしばるようにして、彩夏は龍一の腕を抱え上げる。
「私の目の前で、もう誰も倒れさせない。私が全部守るんだから」
その肩に、焼け焦げた身体を預けながら、龍一は静かに目を伏せた。
遠く、潮騒が聞こえた。
熱と血の入り混じった風に運ばれて来る、水の気配と海の匂い。
(――頼んだぞ、明。あとを、任せた)
最後に残った意識が、ただその名前を呼んでいた。
境界が、揺れた。
明は、その瞬間に異変を察知していた。
肌が粟立ち、空気の層が一枚剥がれ落ちたような違和感が走る。重力とは別の、圧そのものが変質するような気配。
「今の、揺れは……?」
奈緒が問いかけたのは、その直後だった。
明は言葉を返さず、目を細める。
視界の奥、遥か遠く――水平線の先。
波が砕け、空が焼け、そして海が、湯気の塊と化していた。
「……イフリートが、吹き飛ばされた」
明が静かに呟く。
「海に落ちてます! 見てください、あれ……っ!」
柏葉の声が震えていた。
次の瞬間、空を覆うように白濁した蒸気の柱が立ち上る。その中心に、黒い影があった。
巨大なそれは、赤熱の膜を纏いながら、なおも水面上に立ち上がっていた。
「殺したのか……!?」
奈緒が声を上げる。
だが、明は静かに首を振った。口元に、かすかな苦笑が浮かぶ。
「いや――」
赤い光のヴェールが、海水を弾いている。蒸発しきった水面に立つ巨体には、傷一つない。
音がした。否、鼓膜ではなく、感覚そのものを震わせる咆哮が、空間を焦がしていた。
明は吐き捨てるように言った。
「……海水ごときでアイツを倒せるなら」
そのまま、静かに、しかし揺るぎない口調で続ける。
「この世界が、異世界に侵略されることなんてない」
◇◇◇
風が、海から吹き抜けていた。
白く立ち上る蒸気が、熱に焼かれてもなお消えず、海面を覆っている。蒸発した海水の臭いと、焦げた岩の残り香が、鼻を刺した。
その中心に、灼熱の王がいた。
炎に包まれた巨躯。身動き一つするたびに空気が裂け、熱が揺れる。
だが――
「……イフリートを護る加護は、もうない」
明は呟いた。
灼熱の加護は、境界の外へと叩き出されたことにより剥がされた。
作戦は成功した。
龍一と彩夏が、命を賭けてやり遂げてくれたのだ。
(ありがとうございます)
明は、静かに目を伏せた。
ここから先は、自分たちの番だ。
受け取ったものを、結果で返す。
それが、仲間に報いる唯一の方法だ。
「こっちを、見た」
柏葉の声が震えた。
次の瞬間、咆哮が響く。
「ォオオオオオオオオオッッ!!」
空気が震え、海面が割れる。
灼熱が、怒りを帯びて爆発した。
「くるぞ――!」
明の叫びと同時に、イフリートの周囲から火柱が次々と噴き上がった。
自然の炎ではない。術式構築型の広域火撃――
「『劫炎撃』!」
明の脳裏に、過去の死がよぎる。
周回中、何度もこの技に焼かれた。地形そのものを封鎖するかのような、焼却の壁。逃げ場をなくし、逃げ遅れた者から確実に灰にする奴の〝処刑技〟だ。
「回避行動! 足を止めるな!」
明が怒鳴ると同時に、三人は横へと飛び散るようにして分かれた。
地面が割れ、海水が爆ぜ、白煙の中から灼熱の火球が襲い来る。
「もう一発来るぞッ!」
叫びながら、空中で体を捻る。
明の感覚が、次なる熱の奔流を予知していた。
『劫炎撃』に続く連撃、『煉獄炎』――過去のループでしか見たことがない、本気になったイフリートの追撃技。
「連続で来るぞ! 奈緒さん、回避行動! 柏葉さん、支援は後回しだ!」
「了解!」
「っ、わ、分かりました!」
光が世界を焦がす。
だが、明は動じなかった。
(分かる……全部、分かる)
これまでに、何度も焼かれた。
その記憶が、今の明を導いていた。
「オマエらもか……羽虫ドモが……ヨクモ!」
灼熱の王が咆哮する。
海水を蒸発させる熱量をその身に宿し、イフリートは膨れ上がるように力を溜めていた。体表の炎が逆巻き、まるで意志を持つかのように空間を侵食していく。
両腕が、一気に振り上げられる。
「くるぞ――ッ!」
明が叫ぶ。
灼熱を刃に変え、地を這うように振り下ろされる四連撃。左右非対称のリズムで、範囲をずらしながら地形ごと焼き払う死の連撃。
「飛べッ!!」
即座に明が指示を飛ばし、奈緒と柏葉が飛び退く。
足元が割れた。溶けた岩が跳ね、炎が噴き出す。
だがそれすらも布石。
「下だッ!」
明の言葉と同時、地面から火柱が噴き上がった。
「伏せろ、伏せろォッ!!」
爆風に煽られながらも、三人は姿勢を低く落とす。熱が頭上を通り過ぎる。
その直後――
「上空から四発、右上から扇形に着弾するッ!」
「えっ、ど――」
柏葉の驚愕を遮るように、空から赤黒く燃えた火球が降り注いだ。
すべて、明の予告通り。正確に、秒単位で、軌道まで一致している。
奈緒と柏葉が左右に散開。爆裂する魔炎が、すれすれで外れる。
敵の攻撃が、かすりすらしない。
(これが……明の記憶……)
奈緒が目を見開く。
未来を見ているわけではない。けれど、明は知っている。
十数回、何もできずに焼かれた末に掴んだ、正解が彼を突き動かしている。
「フザケルナアアアア!!」
イフリートの怒号が、空気を爆ぜさせた。
怒りで、理性が吹き飛んでいる。
その巨体を包む炎が膨張し、熱が重力を持ち始める。まるで〝核〟のように、自身の内に力を凝縮している。
「……来る」
明は確信する。
「『災厄の焔』だ」
蒸気の幕が、うっすらと風に揺れた。
全身を包む炎が密度を変える。ただの燃焼ではない。意志ある熱が、空間を圧迫している。
「……もう、技を惜しまないつもりみたいだな」
奈緒が呟いた。その額には汗が滲んでいる。けれど、その瞳に迷いはなかった。
明が一歩前に出て、口を開く。
「ヤツも本気になっています。ここまでヤツを追い詰めたのは今回が初めてです。ここから先は、過去の周回でも見たことがない技が来る可能性が高い。だけど……」
イフリートの行動パターンは、ある程度構築されている。痛みに反応する部位、防御の集中、威力と再生の比率――すべては、過去の経験から分かっている。
「今なら、当てられる。奈緒さん、撃てますか」
「もちろん。ここで使わなきゃ、何のために練習してきたのか分からない」
そう言うと、奈緒は魔導銃を構えた。
銃身が蒼白の光に包まれる。弾倉には、あらかじめ最大魔力の魔弾が装填されている。
構えはブレない。狙いはただ一つ。
「装填――『魔砲』」
彼女の魔導銃は、異世界では〝砲撃〟のために使用される戦場兵器だ。
通常の魔法では到達できない距離と貫通力を、魔力収束と放出機構で強引に成立させた重装式の術具として知られている。
奈緒はそれを、かつては『衝撃矢』などの魔導銃には合わない魔法を使っていた。
けれど、今は違う。
本来の用途で。最大威力で。
「狙うは、胸郭中央。ちょうど炎が渦巻いてる場所です。そこが限界点!」
明の声が飛ぶ。
「了解――!」
奈緒は銃口をわずかに持ち上げる。
引き金にかけた指が、わずかに震えた。だがそれは、恐れではなかった。
その一発に、託す覚悟の重さだった。
「――発射」
そして一拍の間を置いて、引き金を引いた。
轟音とともに、魔力砲が放たれる。
赤熱の海を裂くように、蒼白の閃光が空を駆けた。