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この世界がいずれ滅ぶことを、俺だけが知っている  作者: 灰島シゲル
六章

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297/351

魔人

 

 逃げ切れていなかった。


 最初から、あれは獲物を逃す気などなかったのだ。


「コレで終わりダ」


 イフリートの低い声が、断罪のように響いた。


 腕が振り下ろされる。


 爆発のような衝撃が、時差なく襲いかかってくる。


 爆風が路地を貫き、瓦礫を吹き飛ばし、世界を焼き尽くすような熱量が全てを呑み込んでいく。


 逃げるという選択肢は、すでに失われていた。



 ――視界が、赤黒く染まった。



 煙と炎の中で、皮膚が焼ける感覚だけが妙に生々しく残っていた。


 呼吸を試みるたび、喉がひゅう、と湿った音を立てる。空気を吸い込むたびに痛みが走り、肺の奥が焼け焦げているのが分かった。


 地面に叩きつけられた龍一の身体は、もはや自分のものではないように動かなかった。


 かろうじて動いた指先が、ひび割れたアスファルトを掻いていた。


「が、ぅ……」


 声を出そうとする。けれど喉は掠れ、空気を震わせることすらできなかった。


 それでも首を巡らせ、視界の端を探る。



 ――見えた。



 倒れた瓦礫の向こうに、彩夏が横たわっていた。


 顔は煤で汚れていたが、わずかに胸が上下している。


 生きている。


 それだけの事実が、崩れかけた意識の底でわずかな希望を繋ぎ止めていた。


 しかし、そんな希望もすぐに打ち砕かれる。


 影が差した。


 見上げると、そこにイフリートがいた。


 振り下ろされるようにして、その巨大な手が龍一の首を掴んだ。


「が……ッ!」


 喉が潰れ、空気が流れなくなる。


 視界が歪み、全身の力が指先から抜け落ちていった。


 焦げた肉の臭いが鼻を刺す。炎のように熱を帯びた指が首に巻き付き、皮膚をじりじりと焼いていく。


 ミシリと、骨が軋んだ。


 耳鳴りが鼓膜を揺らし、意識が白く揺らいだ。脳に酸素が届かない。思考がじわりと霞み始めていく。


「ヨワいな。こんなヤツらの世界を奪うタメに、我ラハ贄ニサレたノか」


 イフリートの低い声が、空間を震わせる。


 龍一は血走った目で、その顔を睨み上げた。


「弱い……だと? ハッ、笑わせんな……俺たちとてめぇじゃ……最初っから、種族が違ぇんだよ」


「種族? ソレダケデハナい。次元ガ違うノダ。オマエたちは、我々に捕食サレるダケノ存在にすぎナイ」


 捕食。その言葉に、龍一の意識が引っかかった。


 イフリートの指がさらに食い込み、呼吸が止まりかける。


「……なあ。お前ら……なんでこんな世界に来た?」


 龍一の問いに、イフリートは一拍置いてから口を開いた。


「ソレも知ラズに、抵抗スルとハ……ワタシたちニは、捕食スル場所ガ……必要ナのだ」


 イフリートの双眸は、渦巻く炎の中で不気味なまでに澄んでいた。


 龍一はイフリートの言葉に眉を寄せる。


「捕食する、場所……?」


「ソウだ。オマエたちノ世界は、ワタシたちにトッては豊カな餌場ダ。だからアノ提案にも乗った」


 あの提案。


 その内容がいったい何を示すのかは分からない。だがそれでも、イフリートの言葉は一条明が語った『術式』に繋がる言葉なのだろうと分かった。


(明のやつなら、コイツの言葉の意味も理解出来たんだろうが)


 残念ながら、龍一にはその言葉の意味が分からない。


 清水龍一は、一般人だ。


 特定の時間軸を何度も繰り返したわけでも、この世界そのものを何度も繰り返したわけでもない。


 この世界で生きる誰もと同じように、突如として現れたモンスターに必死に抗い、生きて、そして家族を失っただけの人間だ。


 だからこそ、彼にはここで死ねない理由がある。


 妻を、息子を、あの幸せを。男の元から奪い取ったこの世界に、復讐をせねば気が済まなかった。


「クダらない話は終わりダ」


 イフリートは龍一へと口元を近づけた。炎の熱が肌を焦がす。燃え盛る唇が開き、真っ赤な炎の内部が見えた。文字通り、イフリートは龍一を捕食しようとしていた。


 その瞬間だった。


 龍一の中に、忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇った。


 それは、リリスライラに捕らわれていた、あの記憶。


 食料は尽き、空腹がすべてを侵食していった地獄のような日々。


 生き延びるため、彼はありとあらゆる魔物の肉を口にした。初めは吐き気と拒絶感しかなかった。喉が拒み、胃が嘔吐を訴えた。


 それでも、慣れてしまった。


 食べなければ死ぬ。そう理解した瞬間、倫理は飢えに負けていた。


(死にたくねぇ……)


 飢えの記憶と、生き延びるための捕食。


 それは、この瞬間にも重なる。


 その本能が、今の状況と重なり合う。


(こんな奴らになんか、負けたくねぇッ!)


 魔物どもの世界のルールは単純だった。


 食うか、食われるか。


 捕食者になるか、捕食されるか。それだけだ。


(このまま喰われるのか? 違う)


 薄れゆく意識の中で、思考だけが鋭く立ち上がる。


 忌まわしく封じた記憶の中に、今の自分を救う鍵があった。


 モンスターを喰らい、力を得た日々。


 飢えに耐え、己の人間性を疑いながらも生きた時間。


 それが、今必要な行動の答えだった。


(俺は捕食される側じゃない。喰う側だ)


 龍一の瞳に鋭い光が戻った。


 引き攣った唇に笑みが浮かぶ。


 常軌を逸したその笑みは、本能による生への渇望だった。


「ああ……腹が減ったな」


 それは弱音ではなく、捕食者としての意思表示だった。


 龍一は首に力を入れ、イフリートの腕を強引に引き寄せる。


 体を捻り、掴まれた首から一瞬だけ抜け出すように肩を落とし、落下の勢いを使って腕へとしがみついた。


 燃えるような皮膚が顔を焼いた。


 だが構わず、そのまま喰らいついた。


 バキリ、と骨が軋む音が響く。


 血の味と魔素が混ざり合い、焼けた肉が舌にまとわりつく。


 喉が灼ける。歯茎が裂け、奥歯が砕けそうになる。


 それでも龍一の顎は外れなかった。


「グッ、ガァアアアアッッ!!?」


 イフリートが痛みに叫び、腕を引こうとしたその瞬間。肉が裂け、指の一部が口内に転げ落ちた。


 それを、龍一は飲み下した。


 直後、内臓を貫くような激痛が腹を突き抜ける。


 火の針が胃から背骨まで貫通し、血管が煮えたぎる。


 血管の内側を、暴れ狂う魔素が駆け巡っていた。かつて感じたどんな痛みとも違う。命を代償に得る、何かへの踏み越えだった。


 チリン、と音が鳴る。


 龍一の眼前に青白い画面が開かれた。




 ――――――――――――――――――

 体内魔素率が50%を突破しました。

 ――――――――――――――――――

 肉体の許容量を超えた数値です。

 ――――――――――――――――――




 視界が、歪んでいく。


 パキパキとした音とともに、体内から皮膚を突き破って表出した黒い結晶が、龍一の全身を覆い始めた。


 骨の軋みと共に筋繊維が膨張し、眼球の奥に鋭い熱が走る。


 息を吸い込むたびに、肺が裂けるような痛みを訴えていた。


 警告を知らせる画面は、まだ続いている。




 ――――――――――――――――――

 魔素による結晶化が急速に進んでいます。


 ……体内に微量の魔石が生成されました。

 ――――――――――――――――――




 龍一の皮膚が裂け、黒い不可思議な紋様が浮かび上がった。


 視界が赤に覆われる。


 風が、炎が、イフリートの動きがすべて、ゆっくりと映るようになる。


「……っづ、ア゛アッッ!!」


 全身を貫く激しい痛みに、龍一の口から雄叫びがあがっていた。




 ――――――――――――――――――

 魔石の影響により体質が変化します。


 ……条件が満たされました。

 ――――――――――――――――――

 特殊スキル:魔人化 を取得しました。

 ――――――――――――――――――




 そして画面は、終わりを告げる。


 同時に、全身の細胞が裏返るような感覚と共に、龍一の肉体は異形のものへと変貌を遂げていた。


 魔素が、臓器の隅々にまで滲み込んでいた。


 もはや血液ではない。それは、呪いにも似た液体で全身を巡り、骨の髄から彼を作り替えていた。


 呼吸をするたびに、瘴気が漏れる。


 空間が軋み、世界が悲鳴をあげている。


 まるでこの場にいる龍一を拒絶しているかのような、そんな音が周囲から鳴り響く。


(あァ……痛ェなァ)


 息をするのもやっとの状態だ。


 けれど――まだ、動ける。


 心臓は、まだ打っていた。異物に支配された肉体の中心で、なおも原初のリズムを刻み続けていた。


 イフリートが身を引く。龍一が噛み千切った指はすでに再生されていた。


「ナんだ、そノ姿ハ」


 それはこの戦闘が始まって以来初めて見せた、警戒。


 獣の直感が、警鐘を鳴らしているのだ。


 それが敵であるという認識を超え、目の前にいる理解不能の何かに対して、イフリートは本能的に後退していた。


 龍一が静かに顔を上げた。


 怯えたイフリートの姿を目にした途端、頭蓋の奥、灼け爛れたような喉の奥から嗤いが漏れていた。


「……ク、クク……フ、ハ……」


 音が空気を裂いた。


 それは笑いというには静かすぎて、嗤いというにはあまりに深いものだった。


 自分でも意味がわからなかった。ただ、どうしようもなく、込み上げてきた。


「サァな……俺も分かラねェよ」


 ようやく絞り出した声には、かつての自我の残響すら感じられなかった。


 槍が呼応するように揺れた。


 砕けたアスファルトの上、踏み込んだ足元から魔素が奔流のように巻き上がる。


 槍の周囲に集い、渦を巻く黒紫の魔力。もはやそれは、武器ではない。意思を持つ呪いのごとく、龍一の怒りと飢えに共鳴していた。


 嗤いは次第に熱を帯び、空気を支配する。


 世界が凍りついた。


 それは、獣の咆哮よりも冷たい殺意だった。


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― 新着の感想 ―
超えて魔石ができたら完全に魔物寄りになってしまうんだなぁ 魔人化というスキルな点では一応まだ人といえるギリギリの範囲なのだろうか
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