魔人
逃げ切れていなかった。
最初から、あれは獲物を逃す気などなかったのだ。
「コレで終わりダ」
イフリートの低い声が、断罪のように響いた。
腕が振り下ろされる。
爆発のような衝撃が、時差なく襲いかかってくる。
爆風が路地を貫き、瓦礫を吹き飛ばし、世界を焼き尽くすような熱量が全てを呑み込んでいく。
逃げるという選択肢は、すでに失われていた。
――視界が、赤黒く染まった。
煙と炎の中で、皮膚が焼ける感覚だけが妙に生々しく残っていた。
呼吸を試みるたび、喉がひゅう、と湿った音を立てる。空気を吸い込むたびに痛みが走り、肺の奥が焼け焦げているのが分かった。
地面に叩きつけられた龍一の身体は、もはや自分のものではないように動かなかった。
かろうじて動いた指先が、ひび割れたアスファルトを掻いていた。
「が、ぅ……」
声を出そうとする。けれど喉は掠れ、空気を震わせることすらできなかった。
それでも首を巡らせ、視界の端を探る。
――見えた。
倒れた瓦礫の向こうに、彩夏が横たわっていた。
顔は煤で汚れていたが、わずかに胸が上下している。
生きている。
それだけの事実が、崩れかけた意識の底でわずかな希望を繋ぎ止めていた。
しかし、そんな希望もすぐに打ち砕かれる。
影が差した。
見上げると、そこにイフリートがいた。
振り下ろされるようにして、その巨大な手が龍一の首を掴んだ。
「が……ッ!」
喉が潰れ、空気が流れなくなる。
視界が歪み、全身の力が指先から抜け落ちていった。
焦げた肉の臭いが鼻を刺す。炎のように熱を帯びた指が首に巻き付き、皮膚をじりじりと焼いていく。
ミシリと、骨が軋んだ。
耳鳴りが鼓膜を揺らし、意識が白く揺らいだ。脳に酸素が届かない。思考がじわりと霞み始めていく。
「ヨワいな。こんなヤツらの世界を奪うタメに、我ラハ贄ニサレたノか」
イフリートの低い声が、空間を震わせる。
龍一は血走った目で、その顔を睨み上げた。
「弱い……だと? ハッ、笑わせんな……俺たちとてめぇじゃ……最初っから、種族が違ぇんだよ」
「種族? ソレダケデハナい。次元ガ違うノダ。オマエたちは、我々に捕食サレるダケノ存在にすぎナイ」
捕食。その言葉に、龍一の意識が引っかかった。
イフリートの指がさらに食い込み、呼吸が止まりかける。
「……なあ。お前ら……なんでこんな世界に来た?」
龍一の問いに、イフリートは一拍置いてから口を開いた。
「ソレも知ラズに、抵抗スルとハ……ワタシたちニは、捕食スル場所ガ……必要ナのだ」
イフリートの双眸は、渦巻く炎の中で不気味なまでに澄んでいた。
龍一はイフリートの言葉に眉を寄せる。
「捕食する、場所……?」
「ソウだ。オマエたちノ世界は、ワタシたちにトッては豊カな餌場ダ。だからアノ提案にも乗った」
あの提案。
その内容がいったい何を示すのかは分からない。だがそれでも、イフリートの言葉は一条明が語った『術式』に繋がる言葉なのだろうと分かった。
(明のやつなら、コイツの言葉の意味も理解出来たんだろうが)
残念ながら、龍一にはその言葉の意味が分からない。
清水龍一は、一般人だ。
特定の時間軸を何度も繰り返したわけでも、この世界そのものを何度も繰り返したわけでもない。
この世界で生きる誰もと同じように、突如として現れたモンスターに必死に抗い、生きて、そして家族を失っただけの人間だ。
だからこそ、彼にはここで死ねない理由がある。
妻を、息子を、あの幸せを。男の元から奪い取ったこの世界に、復讐をせねば気が済まなかった。
「クダらない話は終わりダ」
イフリートは龍一へと口元を近づけた。炎の熱が肌を焦がす。燃え盛る唇が開き、真っ赤な炎の内部が見えた。文字通り、イフリートは龍一を捕食しようとしていた。
その瞬間だった。
龍一の中に、忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇った。
それは、リリスライラに捕らわれていた、あの記憶。
食料は尽き、空腹がすべてを侵食していった地獄のような日々。
生き延びるため、彼はありとあらゆる魔物の肉を口にした。初めは吐き気と拒絶感しかなかった。喉が拒み、胃が嘔吐を訴えた。
それでも、慣れてしまった。
食べなければ死ぬ。そう理解した瞬間、倫理は飢えに負けていた。
(死にたくねぇ……)
飢えの記憶と、生き延びるための捕食。
それは、この瞬間にも重なる。
その本能が、今の状況と重なり合う。
(こんな奴らになんか、負けたくねぇッ!)
魔物どもの世界のルールは単純だった。
食うか、食われるか。
捕食者になるか、捕食されるか。それだけだ。
(このまま喰われるのか? 違う)
薄れゆく意識の中で、思考だけが鋭く立ち上がる。
忌まわしく封じた記憶の中に、今の自分を救う鍵があった。
モンスターを喰らい、力を得た日々。
飢えに耐え、己の人間性を疑いながらも生きた時間。
それが、今必要な行動の答えだった。
(俺は捕食される側じゃない。喰う側だ)
龍一の瞳に鋭い光が戻った。
引き攣った唇に笑みが浮かぶ。
常軌を逸したその笑みは、本能による生への渇望だった。
「ああ……腹が減ったな」
それは弱音ではなく、捕食者としての意思表示だった。
龍一は首に力を入れ、イフリートの腕を強引に引き寄せる。
体を捻り、掴まれた首から一瞬だけ抜け出すように肩を落とし、落下の勢いを使って腕へとしがみついた。
燃えるような皮膚が顔を焼いた。
だが構わず、そのまま喰らいついた。
バキリ、と骨が軋む音が響く。
血の味と魔素が混ざり合い、焼けた肉が舌にまとわりつく。
喉が灼ける。歯茎が裂け、奥歯が砕けそうになる。
それでも龍一の顎は外れなかった。
「グッ、ガァアアアアッッ!!?」
イフリートが痛みに叫び、腕を引こうとしたその瞬間。肉が裂け、指の一部が口内に転げ落ちた。
それを、龍一は飲み下した。
直後、内臓を貫くような激痛が腹を突き抜ける。
火の針が胃から背骨まで貫通し、血管が煮えたぎる。
血管の内側を、暴れ狂う魔素が駆け巡っていた。かつて感じたどんな痛みとも違う。命を代償に得る、何かへの踏み越えだった。
チリン、と音が鳴る。
龍一の眼前に青白い画面が開かれた。
――――――――――――――――――
体内魔素率が50%を突破しました。
――――――――――――――――――
肉体の許容量を超えた数値です。
――――――――――――――――――
視界が、歪んでいく。
パキパキとした音とともに、体内から皮膚を突き破って表出した黒い結晶が、龍一の全身を覆い始めた。
骨の軋みと共に筋繊維が膨張し、眼球の奥に鋭い熱が走る。
息を吸い込むたびに、肺が裂けるような痛みを訴えていた。
警告を知らせる画面は、まだ続いている。
――――――――――――――――――
魔素による結晶化が急速に進んでいます。
……体内に微量の魔石が生成されました。
――――――――――――――――――
龍一の皮膚が裂け、黒い不可思議な紋様が浮かび上がった。
視界が赤に覆われる。
風が、炎が、イフリートの動きがすべて、ゆっくりと映るようになる。
「……っづ、ア゛アッッ!!」
全身を貫く激しい痛みに、龍一の口から雄叫びがあがっていた。
――――――――――――――――――
魔石の影響により体質が変化します。
……条件が満たされました。
――――――――――――――――――
特殊スキル:魔人化 を取得しました。
――――――――――――――――――
そして画面は、終わりを告げる。
同時に、全身の細胞が裏返るような感覚と共に、龍一の肉体は異形のものへと変貌を遂げていた。
魔素が、臓器の隅々にまで滲み込んでいた。
もはや血液ではない。それは、呪いにも似た液体で全身を巡り、骨の髄から彼を作り替えていた。
呼吸をするたびに、瘴気が漏れる。
空間が軋み、世界が悲鳴をあげている。
まるでこの場にいる龍一を拒絶しているかのような、そんな音が周囲から鳴り響く。
(あァ……痛ェなァ)
息をするのもやっとの状態だ。
けれど――まだ、動ける。
心臓は、まだ打っていた。異物に支配された肉体の中心で、なおも原初のリズムを刻み続けていた。
イフリートが身を引く。龍一が噛み千切った指はすでに再生されていた。
「ナんだ、そノ姿ハ」
それはこの戦闘が始まって以来初めて見せた、警戒。
獣の直感が、警鐘を鳴らしているのだ。
それが敵であるという認識を超え、目の前にいる理解不能の何かに対して、イフリートは本能的に後退していた。
龍一が静かに顔を上げた。
怯えたイフリートの姿を目にした途端、頭蓋の奥、灼け爛れたような喉の奥から嗤いが漏れていた。
「……ク、クク……フ、ハ……」
音が空気を裂いた。
それは笑いというには静かすぎて、嗤いというにはあまりに深いものだった。
自分でも意味がわからなかった。ただ、どうしようもなく、込み上げてきた。
「サァな……俺も分かラねェよ」
ようやく絞り出した声には、かつての自我の残響すら感じられなかった。
槍が呼応するように揺れた。
砕けたアスファルトの上、踏み込んだ足元から魔素が奔流のように巻き上がる。
槍の周囲に集い、渦を巻く黒紫の魔力。もはやそれは、武器ではない。意思を持つ呪いのごとく、龍一の怒りと飢えに共鳴していた。
嗤いは次第に熱を帯び、空気を支配する。
世界が凍りついた。
それは、獣の咆哮よりも冷たい殺意だった。




