VS イフリート②
更新再開です。のんびりやります。
「貴様ガ、要か」
イフリートの腕が持ち上がる。
灼熱に燃え上がる赤い爪は、彩夏の細腕よりも太く、明の持つ〝巨人の短剣〟よりも鋭く見えた。
「間に合わ――」
目前に迫る死を覚悟して、彩夏は目を瞑った。
――その瞬間だった。
「つぁっ!」
間一髪で間に合った龍一が、彩夏の身体を抱き寄せた。
「おじさん!?」
信じられない思いで振り返る彩夏に、龍一はニヤリと笑った。
「よし、逃げるぞ」
龍一は乱暴に彩夏を担ぐと、地面を蹴ってその場から離脱する。アスファルトが砕け、埃と熱風が渦巻いた。
「あれだけ怒らせりゃ十分だ。アイツは俺たちを完全に敵だと判断した。このまま奴をテリトリーから引き摺り出すぞ」
龍一は呻きながらそう言った。よくよく見れば、背中が抉れて血が滲んでいる。彩夏を助ける時に傷を負ったようだ。
彩夏は躊躇うことなく、龍一の背中に両手を押し当てると『回復』を発動させた。
「ごめん、助かった」
「お互い様だろ。気にすんな」
龍一の声には気丈さがあったが、その呼吸は荒く、顔色も青ざめていた。『回復』の効果は出ているが、それ以上に受けたダメージが大きいようだ。
彩夏は『回復』を発動させながら、呟くように言った。
「……分かってはいたけど、ジリ貧ね。このままだと限界が近いわ」
「分かってる」
と、龍一は崩れ落ちた瓦礫を飛び越えながら言い返した。
「それでも、やらなきゃいけない。明たちが俺たちを待ってるんだ」
「うん」
彩夏は小さく頷いた。
ちらりと背後を振り返る。
背後からはイフリートが怒号を上げ、二人を追いかけてきていた。
「ニゲラレルと思ッているのか!?」
イフリートの声が轟音となって街を震わせた。窓ガラスが割れ、建物の壁が崩れ落ちる。放たれた魔力は熱波に変わり、巨大な火球があたり一面に落ちてくる。
「彩夏、しがみつけ!」
龍一の警告に、彩夏は龍一の首にしがみついた。
龍一は咄嗟に身を翻し、横に飛んで迫りくる火球をかわした。火球が地面に着弾し、爆炎が広がる。アスファルトが溶け、鉄骨が歪んだ。
「チッ、やっぱりそう簡単にはいかないか」
龍一は不安定になる足場を跳ぶようにして躱しながら、必死にイフリートとの距離を取る。龍一の背中には、再び血が滲み始めていた。
彩夏が小さな声で尋ねた。
「どこまで逃げるつもり?」
「水戸市と大洗町の境目までだ。あそこまで行けば、明たちが奴をどうにかしてくれる」
決戦前、明から聞かされた作戦はシンプルなものだった。
パーティ1に振り分けられたメンバーが、イフリートをテリトリーの外へと連れ出す。そして、テリトリーの外へと出たことで『火の加護』が無くなったイフリートを、残りのメンバーが叩く。
内容は至極単純。だが、それを実行するのはかなり難しい。
「走る距離にして、あと十キロメートルってところか」
「持つかな……」
彩夏の声に、龍一は唸った。
「持たせる!」
再び飛んでくる火球を避けながら龍一は走り続ける。背後から迫る炎の勢いは増すばかりだ。イフリートの怒りも頂点に達しつつあった。
「サッキからずっと逃ゲ回ルだけのゴミが!」
両腕をオーケストラの指揮者のように振り上げ、イフリートが巨大な炎の渦を作り出した。龍一たちよりも早く、その炎は前方へと飛んでいく。
「くっ!」
龍一たちの進路を塞ぐように着弾した炎が、あたりを舐めるように広がった。まるで溶岩が流れているかのような光景だ。大洗町へと向かう道が分断された。
「道が……塞がれた……ッ!」
隙間もなく道を覆い尽くす炎の海に、龍一の顔から血の気が引いた。これほどの規模の炎を迂回できる気配はない。すでに背後にはイフリートの熱気が迫っている。
「あっち! あそこならまだ通れる!」
背中の彩夏が瓦礫の隙間を指さした。見れば、その隙間だけが炎の被害を免れている。脱出口は、その一箇所だけのようだった。
龍一は彩夏の指示に従うようにして、瓦礫の隙間に飛び込んだ。鉄骨が肩に引っかかり、肉を抉る痛みが走った。それでも、彼は前へと進む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
龍一は懐から『持続再生の水薬』を取り出すと、中身を一気に飲み干した。青白い光が身体を包み、傷の痛みがやや和らいだ。
「クソッたれ!」
背後を振り返り、毒づく。一歩足を踏み出すたびに、逃すまいと地面を這う炎が龍一の両足を焼き尽くしていた。彼の足首から先は、もはや肉というより炭に近かった。
限界は近い。傷を塞ぎながら走るなど、正気の沙汰ではない。
しかし、止まれば死ぬ。
炎という現象を伴った形作られた死が、ゆっくりと背後から迫っている。
「……やっぱ、やべぇなコレ」
龍一は口の端を上げた。
笑ってる場合じゃないと自分でも思う。それでも、笑うしかなかった。
あのイフリートが本気で怒ってる。そりゃそうだ、胸と腹に風穴を開けてやったんだから。
結果として傷が塞がり、ダメージを与えたとは思えない働きだったが、それでも人間に傷を負わされたという事実が、イフリートのプライドを逆撫でしていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
龍一は地面を蹴り、飛び越えるようにしてフェンスを越える。廃車が積まれたガレージ跡を抜け、焼け落ちたマンションの外壁をすり抜ける。
走るたびに傷口が開く。耐えがたい痛みが全身を貫き、意識が飛びそうになる。
それでも、龍一は止まらない。むしろ速度をあげて、風のような猛スピードで市街地を駆け抜けていく。
「境界まで、どのくらいだ……!?」
咆哮のような問いが喉から漏れた。
走り続ける脚が、そろそろ限界に近い。
それでも振り返る余裕などない。あの灼熱の気配が、背後からじわじわと迫ってきていた。
「あと……あと五キロ!」
背中の彩夏が叫ぶ。
崩れかけた標識に目を留めたのだろう。声にかすかな希望が滲んでいた。
だが、その希望を断ち切るように――
イフリートの咆哮が、街全体を震わせた。
地面が波打つように揺れ、熱と風圧が一気に路地をなぎ払う。
その勢いに、龍一は目を見開いた。
「クソッ、あの火力……ッ!」
舌打ちをしながら、龍一は左手で彩夏の身体を抱え直した。
倒壊寸前の壁を飛び越える。
周囲の建物が、赤黒く染まっていくのが見えた。
死の気配が、形を持って追ってきていた。
「彩夏、回復は!?」
「出来る……けど、限界が近い。あと二回が限界……!」
それで充分だ。
問題は、あと五キロが走り切れるかどうか。
「くっ!」
前方――
逃げ道の先に、黒煙とともに巨大な火塊が落ちてくる。
衝撃でアスファルトがめくれ上がり、視界のすべてが火に呑まれた。
「――っ!」
思考より早く、身体が動いた。
彩夏を庇うようにして飛び込み、壁際に身を伏せる。
その瞬間、熱風が背中を焼いた。爆風と破片が叩きつけられ、意識が霞む。全身が壁に弾かれ、鈍い痛みとともに地面へ転がった。
キィィイン―――…
耳鳴りが響き、焦げた鉄の匂いが鼻腔をくすぐった。焦点が合わず、視界が滲む。咳き込みながら顔を持ち上げると、地鳴りのような足音が背後でピタリと止まった。
「……クソッたれ」
振り返れば、そこにソレがいた。
火焔を纏った巨躯が、焦げた空の下に立っていた。