命の使い方
奈緒視点から
耳元で響く心臓の鼓動が五月蠅かった。
背後から追いかけてくる怒号と足音が、一歩、一歩と足を踏み出す度に大きく近くなっていく。
ローブからはみだしていた手足が、爆発で焦がれてじりじりとした痛みを発している。
大きく息を吸い込めば喉が痛んだ。
どうやら、逃げ出す際に炎を吸い込んで気道が焼かれたらしい。
(それでも、なんとか生きていたな)
心で呟き、前を向く。
背後を振り向かずにひた走る。
懸命に、夜の街を駆けていく。
――そうして、共に逃げた仲間たちから十分な距離が出来たと確信したところでようやく、七瀬奈緒はちらりと背後を振り返って状況を確認した。
「……ッ、くそ! 運がないな!!」
目にした光景に思わずぼやきが零れた。
「追いかけてくる人数が予想以上に多いッ。連中の、半分近くが追いかけてきてる!!」
「大丈夫?」
すると、囁くような言葉が耳にかかった。
「逃げきれそうなの?」
彩夏の声だ。奈緒に抱えられる形で身動きが取れない上に、視界をすっぽりとローブで覆われていて状況が分からないのだろう。囁かれるその声は、緊張と焦りで僅かに震えていた。
奈緒は彩夏を落とさないように腕に力を込めると、囁くように言い返す。
「分からない! そもそも、一条が言うには連中のステータスが私達よりも上なんだ!! 速度値も差があるだろうから、このままだとあっという間に追いつかれると思う!」
「だったらもう、あたしを降ろしてよ! 一応は連中を分散させることに成功したんでしょ!? もう、あたしを抱えて走る必要なんてないじゃん!!」
「――――それが、そうもいかないみたいだぞ」
もう一度、ちらりと奈緒は背後を振り向きながら言った。
「喜べ、花柳。私達はどうやら、大物を釣ることに成功したみたいだ」
「大物?」
「アーサーだ」
吐き出した言葉に、彩夏の身体がビクリと震えた。
「……マジ?」
「大マジだ。民家の屋根を飛び越えながら、一条並みの速度で追いかけてくるヤツがいる。まだ顔はハッキリと見えないけど、あれだけの動きが出来るのはヤツしかいないだろうな」
ため息を吐きながら、奈緒は言葉を続ける。
「距離的に、もうすぐで追いつかれる」
「ヤバいじゃん! それならもう、さっさとあたしを降ろしてよ! 抱えながら走ってたら、走りにくいでしょ!?」
「だから、そうもいかないんだよ!! アイツが私達を追って来てるのは、誰が蒼汰を抱えているのかが分からないからだ。ここでお前を降ろしてネタバラシをすれば、アーサーはすぐに標的を変えるぞ!」
「っ、それは……そうだけど!」
「私達はあくまでも陽動だ。出来るだけアイツを引き留めるのが仕事なんだよ!!」
「……分かった」
奈緒の言葉に自分たちの役割を思い出したのだろう。彩夏がこくりと頷いた。
「でも、このままじゃあマズイのは事実でしょ? どうするの?!」
「連中の攻撃を防ぎながら、出来るだけ逃げるしかない。……花柳、『聖楯』を一度発動すればどのくらい持続するんだ?」
「だいたい五秒ぐらい。けど、ギガントのような馬鹿みたいな力で殴られると、一瞬で壊れる!」
「っ、そうか」
呟き、奈緒は頭の中で街の地図を思い浮かべた。自分たちの位置と、明達が作ったモンスターハウスの位置を照らし合わせる。その上で、『聖楯』の発動時間とそのスキルで身を守りながら進める距離を計算する。
「……ダメだ。全部の『聖楯』使っても、モンスターハウスまでアーサーを煽動することは出来そうにもない」
奈緒は首を横に振った。
「モンスターハウスに辿り着く前に、アーサーに追いつかれる方が早い」
「ってことは、アイツと戦うしか道はないわけか」
呟く彩夏の言葉に、奈緒は頷いた。
「ああ。……どちらにしろ、遅かれ早かれアーサーの相手はするつもりだったんだ。アーサーの他に数十人ぐらい他の信者が追いかけてきているぐらいで」
「そのオマケが一番厄介なんだって! 七瀬、言っておくけどこれで死んだら意味ないからね!?」
「分かってる」
呟き、奈緒は思考するように視線を巡らせる。
「花柳。私の合図に合わせて『聖楯』を発動してくれ。もう少しだけ進めば、準備していたあの場所に辿り着く。アレを使おう」
「ここで!? 正気!?」
「当たり前だ。そのために用意したんだ。今ここでやらずにいつやるんだ」
「~~~~ッ、分かった。分かった! あたしも、覚悟決める」
奈緒の腕の中で、彩夏はそう呟くと大きな息を吐き出した。
「ここから、七瀬の用意した罠の場所までは?」
「三百メートルぐらい。多分、それまでにアーサーと交戦することになると思う」
「上等っ!!」
言って、彩夏は七瀬の背後へとローブ越しに手を向ける。
「いつでもいいよ!」
「よし…………。今だッ!」
奈緒の叫びと、
「さあ、その顔を見せてもらおうか!」
雑居ビルの上から迫り飛び掛かって来たアーサーが、手にした短剣を奈緒に振るうのはほぼ同時。
「『聖楯』ッ」
奈緒の叫びに応じて、彩夏がスキルを発動させた。
瞬時に展開されたそのスキルは、奈緒の首を跳ねようと迫るナイフの刃を大きく弾き飛ばす。
「っ、何!?」
まさか、ナイフが弾かれるとは思ってもいなかったのだろう。空中で大きく体勢を崩したアーサーは、そのまま地面に着地するとすぐに背後から追いついてきた仲間たちへと指示を飛ばし始めた。
「何をしている! 針だ!! 猛毒針を使え!!」
「ッ、マズイな。一条の言っていた通りだ。連中、猛毒針を使ってくる!!」
「七瀬! 『解毒』の回数は五回だからね!? 使える数が限られてるんだから、出来るだけ避けてよ!?」
「分かってるよ!!」
言い返して、奈緒は目に見えた細い路地に飛び込んだ。
直後、奈緒の足があった場所を小さな何かが通り過ぎていく。猛毒針だ。まさか避けられるとは思ってもいなかったのだろう。奈緒の背後では「くそっ!」と悔しがる声が響き渡った。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
息を切らして、奈緒は走り続ける。
何度も路地を曲がり、時には目についた家屋の中に転がり込んで。背後から迫る猛毒を必死に避けながら目的の場所へと足を進めていく。
(っ、見えた!)
そうして、進むこと数十秒。
ようやく見えたその場所に、奈緒が心の内で安堵の息を吐き出した――その時だった。
「鬼ごっこはもう終わりだぞ」
耳元で声が聞こえた。
「ッ!」
いつの間に、そこへ来ていたのだろうか。
地面を蹴って前に詰めてきていたアーサーが、卑しい笑みを口元に浮かべ奈緒へと向けて拳を握りしめていた。
(まず――ッ)
心で叫び、次に訪れる衝撃を覚悟する。
しかし、奈緒の頭へと振るわれるはずだった拳は、抱えた腕の中にいる彼女によって遮られた。
「『聖楯』!」
傍で聞こえたアーサーの声に、彩夏は反射的に反応していた。
再び展開される絶対防御のその楯が、アーサーの打ち込んだ拳を澄んだ音を立てて受け止める。衝撃は『聖楯』越しに空気を震わせて、その威力の大きさに奈緒は、ぶるりと身体を震わせた。
「――――……。なるほど。物理を完全に遮断するスキルか」
二度、攻撃を受け止められてそのスキルの特性を把握したようだ。アーサーは小さく舌打ちをすると、ついでニヤリとした笑みを浮かべる。
「小癪な真似をする。だが、霊体ならばどうだ!? 仕事だオリヴィア!」
名前を呼ばれて、アーサーの背後から半透明の女性が姿を現した。
「あの人間を『潰しなさい』」
言われて、オリヴィアはこくりと頷いた。
主の命令に従うように手を伸ばし、指を開いて、ゆっくりとその手を握りしめていく。
「ぐッ、アァ!!」
奈緒の口から悲鳴があがる。
バキバキと骨が鳴って、奈緒の右足が圧縮されているかのように潰されてゆく。
「ァ、ぐ……。あ、あァ!!」
それでも、奈緒は前を向いた。
潰れる右足の痛みを噛みしめて、まだ無事である左足を大きく前に踏み出し身体が倒れるのをどうにか堪えた。
「あと、少し!」
叫び、唇を噛んだ。
彩夏もすぐに状況を察してスキルを発動させた。
「っ、『回復』!」
温かな光が彩夏の掌から零れだす。光は奈緒の右足に向けられて、潰された肉と骨を瞬く間に癒し始める。
けれど、その右足は再び見えない力に掴まった。
オリヴィアは、ギリギリと宙を掴むような仕草をしながら、走る奈緒を逃がすまいと癒された右足を再び潰しにかかる。
「……っ、……!!」
絶叫があがる。
傷が癒される。
かと思えばまた足が潰されて、次の瞬間には傷が癒される。
そんなやり取りが発動していた『聖楯』が消えるまでの数秒間、三度繰り返された。絶えず傷が癒されるその様子に、さすがのアーサーも追いかける人物の正体に気が付いたらしい。ニヤリとした笑みを浮かべると、手を挙げてオリヴィアの攻撃を止めた。
「その『自己再生』スキルとは違う治癒力……。まさか、こんなところで会うとは奇遇じゃないか花柳くん」
「ッ、バレた!?」
呼ばれた名前に、奈緒の腕の中で彩夏が反応した。すぐに奈緒が囁く。
「返事をするな。煽ってるだけだ」
言って、奈緒は戸惑う彩夏を宥める。
そんな後ろ姿を追走しながら、アーサーはさらに言葉を続けていく。
「それに、さっきの聞き覚えのある声。――……あぁ、思い出した。あの時、私が殺し損ねた一条くんの彼女じゃないか。わざわざ殺されに出てきてくれたのか? あの時みたいに、隅でガタガタと震えてればよかったじゃないか。あァ、そうだ。一条くんは息災か? 君たちが早く倒れるように、来る日も来る日も願い続けていたんだが、効果は出ていたかな?」
「――ッッ!!!」
声をあげそうになった奈緒の口を、慌てて彩夏が塞いだ。
「煽ってるだけだって! 返事すればアイツの思うツボでしょ!?」
「……分かってる!」
ギリギリと奈緒は奥歯を噛みしめた。
彩夏の言う通りだ。アーサーは、相手が奈緒と彩夏だと分かっていつでも殺せると確信したのか余裕を持ち始めている。罠に嵌めるとすれば、今が絶好の好機だろう。
「このまま進むぞ」
呟き、奈緒は痛む足に力を込めて加速した。
◇ ◇ ◇
七瀬奈緒は、一条明を除けば唯一、この世界で『黄泉帰り』を経験した人間だ。
同時に、一条明の抱えるその苦悩や苦痛を本当の意味で理解出来る人間でもある。
だからこそ、彼女は今の自分の現状を憂いていた。
一条明と共に在ると誓ったはずなのに。
彼の背中を支えると、そう言ったはずなのに。
それなのに、彼の傍に居ればいるほど、彼の存在が遠くなっていく。
隣に立てば立つほど、自分と彼の差を思い知らされる。
仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。
今の自分に、一条明のようにループする力はもうない。
かつて与えられていたその力は、『不滅の聖火』というスキルに変わって今の自分にある。
――だからこそ、考える。
この力が、なぜ今の自分に与えられたのかを。
ただ即死を免れるだけのその力が、どうして彼と共に在ると誓った自分に与えられたのかを。
(ずっと、この力の使い方を考えていた。どうすれば、この力を使ってアイツの力になれるのかを考え続けていた)
そして、ようやく分かった。
この力の使い方を。
この力の、本当の力を。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…………」
奈緒が逃げ込んだ場所は、とある小学校の体育館だった。
かつては避難所として使われていたのだろうその場所も、今ではすっかりと人気が無くなっている。床に積もった灰色の何かの粉塵が、奈緒が駆け込んだ勢いに押されてふわりと空中に舞い上がった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……。っ、ふぅー……」
息を吐き出し、奈緒は体育館の壇上前まで進むとそこで足を止めて、くるりと振り返る。
「…………ようやく、諦めがついたか」
足を止めた奈緒に向けて、体育館の中へと入り込んだアーサーが呟いた。
「さあ、そろそろこの茶番も終わりにしよう」
言われた言葉に、奈緒はばさりとローブを脱ぎ捨てる。抱えていた彩夏を床に下ろしてその耳元で指示を出すと、邪魔にならないよう後ろに下がらせてアーサーを睨み付けた。
「終わりなのはお前だよ、アーサー」
「何を言い出すのかと思えば……。この状況が分からないのか? お前らは二人、こちらは二十人。この状況からお前たちに何が出来る」
「出来るさ」
言って、奈緒は魔導銃の銃口を天井へと向けると引き金を引いた。
装填されていた〝魔弾〟が飛び出し、天井からぶら下がっていた袋を的確に打ち抜く。衝撃にその中身が一気に零れて、灰色の粉塵がシャワーのようにアーサー達のもとへと降りかかった。
「っ、目くらましか!」
降りかかる粉塵から逃れるように、アーサーが跳び退った。それを逃すまいと、奈緒はさらに追撃をするように次々と天井からぶら下がる袋を打ち抜いていく。
だが、そのどれもがアーサー達には当たらない。目くらましにもならず、ただただ床に積もっていく粉塵の山に、アーサーはニヤリとした笑みを浮かべると奈緒に言った。
「子供騙しだ。こんなもので何になる」
「いいや、十分さ」
奈緒は懐から取り出したタバコを咥えて、ニヤリとした笑みを浮かべる。
「カニバルプラントっていうモンスターがいる。あのモンスターは火に弱いくせに、死ぬと超可燃性の死骸に代わる特性があってな。ほんの小さな切れ端で簡単に燃え上がるものだから、私達はよく焚火の着火剤代わりに使っているんだ」
「……いきなり何を言ってる?」
「ほんの豆知識さ。私達に脅威であるモンスターも、使い方一つで武器に代わるっていうな」
奈緒は小さく笑った。
「スキルだって同じなんだ。使い方一つで、どうとでもなる。だからこそ私はずっと、自分自身に与えられていた力の使い方を考えていた。……けど、その方法もようやく見つかった」
懐からライターを取り出すと、指で遊ぶようにアーサーへと見せつける。
「これ、なーんだ?」
「ライター? っ、まさか!」
ようやく、アーサーは奈緒の狙いに気が付いた。
「やめろ!」
「禁煙啓発か? お断りだ」
呟き、奈緒はライターに火を灯す。
その直前に〝火炎払いのローブ〟を身に付け床に伏せた彩夏が、自身の身を守る言葉を叫ぶ声が聞こえてくる。
――――火花が舞った。
それはほんの一瞬のことで、火花は、空中に舞うカニバルプラントの死骸の粉塵を次々と伝い延焼し、炎熱と轟音に変えていく。
「これが、私の命の使い方だ」
呟かれる声は、誰の耳にも届かない。
ニヤリとした奈緒の笑みは、街を揺るがす白熱の衝撃にあっという間に包まれて、掻き消されていった。