謝罪の言葉
空いた胸の孔から絶え間なく流れ続ける血液は、急速な勢いで明の体温と力を奪っていた。
視界は段々と暗くなり、指先の感覚がなくなっていく。
唯一残る聴覚だけがまだ、この命が潰えていないことを知らせてくれている。
(どこ、だ……。アイツら、どこに行きやがった)
手で探り、地面を掴んだ。
震える身体に鞭を打ち、手にした両手剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がると、明は前へ前へと歩み出す。
(アイツ……ニコライはリリスライラ側の人間だったのか? それに、器ってなんだ? 血とか、復活がどうとか、いったい何の話だ? あの化け物の名前に、なんで蒼汰の名前が記されていたんだ?)
次々と、明の脳裏には疑問が浮かんだ。
それらの疑問は誰の耳にも届かず答えが得られないまま、ただただ口から零れる血の泡に混ざり消えてゆく。
「さむい……」
数メートルほど進み、力尽きるように明はその場へと座り込むと、小さな声で呟いた。
思考に靄がかる。身体を苛む痛みや苦しみが、次第に麻痺して分からなくなる。……死が近い証拠だ。明の瞳は、抗うことの出来ない瞼の重さにゆっくりと閉ざされた。
(奈緒さん達は、どうなった?)
ぼんやりと、薄れる意識の中で考えた。
(蒼汰を守っていたのは、奈緒さん達だ。もしも本当に、あの化け物が蒼汰なのだとしたら……。あの子を守っていた奈緒さん達は今、生きているのか?)
どうして、こんな状況になってしまったのだろうか。どこで選択を間違えたのだろうか。
あの時、蒼汰を連れ出したからか?
あの時、蒼汰の姿をニコライに見られたからか?
それとも、あの子の父親が言う通り、素直に街から出ていればこんなことにはならなかったのだろうか。
(どうする? どうすればいい? 『黄泉帰り』したその先で、次の俺が取るべき最善はいったいなんだ?)
そんな言葉を、明が心の中で吐き出したその時だった。
「いち、じょう」
ふいに、小さな呟きが聞こえた。
ついで、背後から何かを引き摺りながら近寄って来る足音が聞こえてくる。
「なお、さん? 奈緒さんですか? 良かった、まだ生きて――――」
呟き、明は閉じていた瞼をもちあげた。
すると、明の視界を塞ぐかのようにそっと、背後から目を覆われる。
「……悪い。今、酷い有様なんだ。お前には見られたくない」
「そんなの、俺は気にしませんよ」
「私が気にする。……原型が、無いんだよ。顔も、身体も。こうして、こんな状態でもまだ動けているのは、お前が私にくれた固有スキルのおかげなんだ」
「それ、どういう――ッ」
吐き出した言葉は、奈緒の咳き込みによって遮られた。
びちゃりと、明の頬に血が飛ぶ。その冷たさに、七瀬奈緒という彼女の身体がすでに限界を迎えていることが、目を覆われていても分かってしまう。
「なお、さん?」
「ごほっ、ごほ。……あぁ……時間がないな」
呟き、奈緒は小さく息を吐いた。
「……一条。これからお前に、私たちが得た情報をすべて話す。蒼汰と、ニコライに関することだ」
「蒼汰と、ニコライの?」
「ああ……。お前も、見ただろ。あの化け物を……。あれは、間違いなくあの子だよ」
言って、奈緒は訥々と語った。
彼女たちが何を見て、何を聞いたのか。
そこで何を知り、何が起きたのか。
柏葉薫と、七瀬奈緒。二人の命を使い、得た情報の全てを。
「ニコライが、私の心臓を抉って」
血に濡れた、掠れた言葉で奈緒は呟く。
「それで死んだものだと、アイツは思ったんだろうな。でも、私には『不滅の聖火』があったから……ッ、即死は、免れた。そんな私に、アイツは気付かなくて、ごほッ、ごほっ! …………私の目の前で、アイツは自分の血を、蒼汰に注ぎ入れた」
言葉が途切れた。
かと思えば、明の瞳を覆う奈緒の手がゆっくりと滑り落ちた。
「それから、だ。蒼汰が急に苦しみだして、形がみるみるうちに変わって……。気が付いた時には、あの子の姿は化け物に変わっていた」
どさりと、何かが崩れ落ちる音が背後から聞こえた。
「奈緒さん?」
ゆっくりと、明は背後へと目を向ける。
そこに出来た血だまりの中で、顔と身体の半分を失った彼女の姿を見つける。
「……馬鹿。あれだけ、私を見るなって、言っただろ」
小さく、奈緒は笑った。それは、やがて訪れる死を待つ者が浮かべる、力のない笑みだった。
「化け物になって、暴れる蒼汰をどうにかしようとして……。飛び出した結果が、このザマだ」
「気にしないって俺も言いましたよ。酷い有様なのは、お互い様です」
ゆっくりと、明は呟いた。いつものように、笑みを浮かべる元気もない。こうして、意識を保っているのがやっとだ。上昇した体力値の恩恵で得た、異常とも言えるこの生命力もついに限界を迎え始めていた。
そんな言葉に、奈緒は笑ったかのような震える吐息を吐き出すと、口を開く。
「蒼汰が、謝っていたんだ」
呟かれた言葉は、消えるほどに小さかった。
「身体が化け物に変わりながら、涙を流しながら。『ごめんなさい、ごめんなさい』ってずっと、あの子は誰かに謝っていたんだ。あの声と、あの言葉がずっと! 私の耳から離れないんだ!! …………あの子が、謝る理由なんて……ッ。どこにも、ないはずなのに!」
奈緒の瞳から涙がこぼれた。
頬を伝い流れる涙は、彼女がつくった血だまりと混ざっていく。
「……一条」
「はい」
「お前に、こんなことは言いたくなかった。お前に、こんなことを言う日が来るとも思わなかった。……けどッ! 今はもう、お前しかいない。お前だけしか変えられないッッ!!」
言って、奈緒は涙に濡れた瞳を明に向けた。
「あの子が、このまま魔王になんかなってしまえば、本当にこの世界は終わる。この世界のトドメになる!! アイツらは、蒼汰のことを失敗だなんて言っていたけど、それでも十分、あの力はこの世界を終わらせることが出来る」
だから、と彼女は言葉を続ける。
「…………後生だ。過去に戻って、この結末を変えてくれ」
言って、奈緒はまた大粒の涙を瞳に浮かべた。
「あの子を、救ってくれ。こんな未来を、お前の手で変えてくれ」
その言葉を口にすることに、どれだけの覚悟が必要だったのだろう。
「ごめん……。ごめんな、一条」
どれだけの自己嫌悪に苛まれたのだろう。
「こんなことを、私の口からお前に言えるはずがないのに」
何も知らなかったあの頃とは違って。
一条明という人物の苦しみを、痛みを、その力が抱えた孤独と辛さを。誰よりも理解している今だからこそ、その言葉が、何を意味しているのかが彼女にはもう分かっている。それが、どれだけ無責任な言葉なのかが彼女には分かっている。
「謝らないでください」
だから、明は優しく呟いた。
「奈緒さんが、謝る必要はどこにもないんです」
笑顔とも呼べない笑みをどうにか浮かべて、彼女の謝罪を否定する。
「それ以上、自分を責めないでください」
謝罪の言葉が聞きたくなかった。
この結末に、誰かが責任を感じる必要なんてどこにもなかった。
「当たり前です。奈緒さんに言われずとも、もちろん変えますよ。こんな結末、俺は認めない。バッドエンドなんてクソくらえだ」
その言葉に、安心したのだろうか。奈緒は口元に小さな笑みを浮かべた。
「そう、か…………。よかっ、た」
「奈緒、さん?」
呟かれた言葉に彼女の返事はない。
『不滅の聖火』の発動が途切れたことで、彼女の命の灯は燃え尽きてしまった。
「…………ぐ、ぅ」
呻き、明は手にした両手剣を首に当てる。
「やり直しだ」
呟き、彼は自らの手でその命を終えて、やり直す。
この世界にある、最善の選択肢の果てにある結末へと向けて。
小さな少年と世界を救う回帰の旅へと、その一歩を踏み出した。
ここまで前半戦