出会い
外に出ると、濃い夕暮れの明かりが人の消えた静かな街を包み込んでいた。
東の空へと目を向ければ、夜がじんわりと侵食するように広がり始めている。
空に散らばる星々と共に輝きを増し始めるのは、糸のように細く欠けた月の光だ。その色は、血のように彩られた赤ではなく、この世界にもまだかつての日常が残されていることを示しているかのように淡く、白い。
明は、空を見上げて息を吐いた。
それから、心の中で「進行度」と呟き現在の反転率を表示させる。
――――――――――――――――――
現在の世界反転率:3.29%
――――――――――――――――――
表示された画面の数値は動く気配がない。
それは、今がいわゆる『インターバル』と呼んでいる、ボス討伐後に発生する期間中だからだ。
(今日だけで、二体のボス討伐……。計算上では、今日だけで一日分のインターバルを稼いだことになる。今までに討伐したボスの数と、経過した日数を合わせて計算すると……あと、三日は反転率が進まない)
余裕があるのか、無いのか微妙だな。
明は苦い笑みと共にため息を吐き出して、画面を消した。
この世界の状況は相変わらず最悪だ。けれど、以前とは違ってまだ余裕がある。少なくとも、制限時間ともいえる世界反転率に関して言えば、どうにかその時間を伸ばすことに成功している。
制限時間に余裕があれば、その間にモンスターとの戦いにおける基礎を身に付けることも出来るし、この変化した世界における生活の基盤だって固めることが出来る。
これまで逃げて隠れることしか出来なかった人々にも、モンスターへと反撃する力を身に付けることが出来るのは間違いない。
(今の俺たちに必要なのは、とにかく時間だ。イフリートに関する情報を集めながら、今はひとまず時間を稼ぐために、手当たり次第にボスを倒して回るしかない)
そんなことを考えながら、明は暮れなずむ街の中を彷徨い歩く。基点とする場所も決まり、手分けをして野営の準備も整えたことで、時間に余裕が出来たからだ。
その隣に、奈緒を含めた女性陣の姿は見当たらない。明を除く彼女たちはみんな、基点となった建物で身体を休めている。おそらく今頃は自由に、各々の時間をゆったりと過ごしていることだろう。
「女所帯の中に、男が俺一人だけってのも考えものだよなぁ」
大した目的もなく街の中を彷徨いながら、明は思わず呟いた。
この四人の中で、特別な男女の仲があるわけでもない。勝手知ったる、とまではいかないが、彼女たちとはある程度の気心を許した仲間だ。変に気にするだけ無駄なような気もする。
とはいえ、こうして旅に出て寝食を共にするとなると、何かにつけていろいろと気を遣わねばならない部分が多いのは事実だ。
男女比率の少ない分、明の肩身はふとした瞬間に狭くなることが多かった。
(誰かもう一人ぐらい、旅の仲間に同性が欲しいな)
などと考えていると、明の足は駅前を離れて家屋が並ぶ区画へと足を踏み入れていた。
街の名前を冠し、商業施設や繫華街のある主要な駅とは違い、明が今いる場所は郊外にある新興住宅地だ。
住宅地にほど近い駅前にはそれなりの雑居ビルやマンションが並んでいるが、それも通りを一つ離れれば閑静な住宅街が広がっている。普段であれば、会社帰りのサラリーマンや学生で賑わっていたこの時間帯も、今となっては人の気配すら感じない。
ふいに、どこかから軒先に吊るされているのであろう風に揺れる風鈴の音色が聞こえてきた。本来であれば風情を感じるその音色も、こんな世界へとなってしまった今ではすっかり物悲しい。まるで、ここには居ない誰かに向けて、忘れ去られた自分の居場所を知らせているかのようだ。
「ん?」
店先のシャッターに書かれた落書きを見つけた。
自らの名前と、拠点としている居場所。そして、離れ離れになった家族に向けた言葉が、黒のスプレー缶を用いてデカデカと書かれている。
どうやらメッセージの途中で、背後からモンスターに襲われたらしい。
途絶えた言葉の代わりに、周囲には時間が経って乾いた大量の血溜まりが残されていた。
(昼間に、柏葉さんが見つけたって言っていたメッセージってこれのことか)
落書きを見つめて、明は考える。
この街は昼間に一度、四人で手分けをして探索をしている。街の中で、人が集まりそうな大きな施設や建物なんかは一通り調べたつもりだ。
当然、このメッセージを見つけた柏葉は、ここに記された場所に足を運んだようだ。
(でも、柏葉さんが訪れたその場所には誰も居なかった)
明は、地面に残された大量の血痕から視線を外して、先の地面を見つめた。
(この先に続く血の痕はない、か)
これだけの傷だ。もしも、このメッセージを残した人がモンスターから逃げ出せたのなら、この先の地面には血の痕が続いてないとおかしい。
それが無いとなると、考えられる結果は一つだ。
(この場で、モンスターに食い殺された……か)
懐からスマホを取り出して、ちらりと視線を向ける。
(まだ少し時間があるな)
奈緒たちには、一時間ほどで戻ると伝えている。ここから、メッセージで示された場所はすぐそこだ。十分もかからない。
(このメッセージを他の人が目にしていたなら、たとえ家族でなくてもまず間違いなく、一度はここに記された場所に足を運ぶ……よな? 昼間は誰も居なかったけど、柏葉さんと入れ違いになって誰かが向かった可能性は否定できない。……もう一度、行ってみるか?)
少しだけ思案して、明は結論を出した。
「行くか」
探索済みの場所ではあるが、もう一度だけ足を運ぶ価値はある。そう考えた。
住宅街を抜けて、道なりに進んでいく。
その途中で、何度かモンスターの群れに襲われて――インプという悪魔種族のモンスターだ。大きさはゴブリンと同じぐらいだが、額には角、背中には蝙蝠のような羽が生えている――大した経験値にもならないそいつらを、明は一瞬にして全滅させた。
そうして、モンスターとの戦闘を繰り返しながら足を進めていると、目的の場所に辿り着く。
そこは、とあるアパートの一室だった。
明は、鍵の掛かっていない扉を開けて室内へと足を踏み入れる。
「…………」
廊下を抜けて足を踏み入れたリビングは、かつての生活がありありと残されたまま時間が止まっていた。
つい最近まで、ここに誰かがいたのは間違いない。床には、食べ終わった菓子パンの袋やお菓子の袋が散乱している。
明は無言で見渡して、そこに人の気配がないことを確認すると、リビングから続く二つの扉へと目を向けた。
(部屋のつくりは、2LDKか。すぐに調べ終わりそうだな)
リビングを漁り、キッチンを漁って。そこに目ぼしいものが何もないことを確認すると、リビングから続く扉の一つへと向かう。
扉の奥は、子供部屋だった。
小さな子供が描いた、父親と母親に囲まれて笑う自分の絵が壁に貼り付けてある。買って間もないのだろう傷一つない学習机の上には、まだ使い始めたばかりのピカピカのランドセルが置かれていて、少しだけ、埃を被っていた。
(クローゼットの中は……。子供服と、玩具ばかりだな)
人が隠れている様子もない。念のために、と学習机の下も覗き込んでみたが誰も居なかった。
明は扉を閉めて、子供部屋を後にする。その足で、リビングを横切って向かいにある残りの扉へと向かう。
(こっちは……寝室か?)
その考えは的中した。
開かれた扉の奥には、ダブルベッドが一台置かれていた。
モンスターの出現を知り、慌てて飛び起きたのだろう。ベッドからずり落ちた掛け布団はそのままに、床の上でぐしゃっと丸まっている。寝室に備え付けられたクローゼットは開けっ放しにされていて、その周辺には様々な荷物が散乱していた。
明は寝室へと足を踏み入れると、ベッドの下を覗き込む。
そこに人の姿はない。思わず明は笑った。
(いや、こんなところに大人が入り込めるはずないか)
ベッドの下は、高さにして三十センチほどしか余裕がない。どんなに痩せ型の人でも、ベッドの下に入り込むのは難しそうだ。
(となると……。この部屋で隠れられそうな場所は、クローゼットしかないな)
心で呟き、明はクローゼットへと向かった。
荒らされたクローゼットの中には、家主の趣味なのか立派なゴルフバッグが置かれていた。その中身のほとんどは、武器として使われたのか姿を消している。人の気配は見当たらない。
「もしかしたら、と思ったんだが……。やっぱり、誰も居ないか」
と明がため息を吐き出したその時だ。
ぐぎゅるるるうううう……。
どこからか、腹の虫が鳴く音が聞こえた。
「ッ!?」
ハッと息を飲んで振り返る。明は視線を鋭くさせると、神経を集中させた。
(……誰かいる?)
けど、いったいどこに?
音が聞こえてきたのは、すぐ後ろだ。クローゼットの中じゃない。となれば、この部屋のどこかに、誰かが潜んでいるということになるが。
(どこだ? 他に隠れられそうな場所といえば――――)
ぐぎゅるるるるるるう……。
再び聞こえたその音に、明の思考は途切れた。
視線は、一点へと向けられる。
音の出処は、床の上で丸まる掛け布団だった。大人が隠れているような、不自然な膨らみはそこにはない。けれど、聞こえてきたその音は確かに、その掛け布団からだった。
「…………」
そっと、明は近づく。
そして、床に落ちた掛け布団を手で掴むと、一気に持ち上げた。
「――――――」
布団の下から覗く瞳と、視線が合った。
そこに居たのは、小学校の低学年ぐらいの小さな男の子だった。その体躯を活かして、なるべく見つからないようにと考えていたのだろう。その子は、床に這いつくばるようにして小さな身体を縮こまらせていた。
「ぁ」
と、少年の口から小さな言葉が漏れる。
それは、見つかったことに対する言葉だったのか。久方ぶりに誰かと会えたことに対する安堵だったのか。
……おそらく、後者だろう。恐怖に染まるその瞳が、一気に涙で濡れていく。
そして、
「お兄さん、誰ですか?」
少年は、涙に濡れる掠れた声で、そう言った。




