ハイオーク
道路やビル、家屋が崩壊した街の中を慎重に進むこと十数分。
一条明は、ふいに辺りから生き物の気配が全て途絶えたことに気が付いて、ピタリとその足を止めた。
「…………」
ごくり、と。
明は思わず喉を鳴らす。
一歩、足を進めようにも身体に纏わりつく空気が重たく、粘っこい。
足を踏み出すだけでもその労力に息が切れて顎が上がり、呼吸が速くなる。
――――分かってる。
物理的に、空気が重たくなることなんてありえない。
これは錯覚だ。
自分の縄張りに足を踏み入れた者はすべてを殺すと、とあるモンスターが漏らす殺気を感じて、知らず知らずのうちに身体が竦んでしまっているのだ。
「……っ、ふー…………」
ゆっくりと明は息を吐き出した。
脳裏にべったりと張り付いた、ミノタウロスから逃れようと藻掻いた日々を思い出す。
あの時は、死にゆく中でかろうじて発動させた『解析』によって、ミノタウロス以上の力量差を見せつけられて絶望した。
モンスターの強化が行われている今、そのステータスはあの時以上だろう。
(俺も、あの時よりも強くなってるとはいえ……。そのステータス次第では、見つかれば最後。問答無用で殺されるかもしれない)
周囲の殺気はあの時の比ではない。
息を吸うことさえも憚れるような、そんな圧迫とした空気が周囲には漂っている。
「すぅー……。ふぅー……」
それでもあえて、明は意識的に深呼吸をする。
ぎゅっと、拳を握り開いた。
――――大丈夫だ。身体は動く。今回はまだ、戦わない。ただ、様子を見るだけだ。
と、明は自分自身を奮い立たせて前を向く。
怖くない、と言えば嘘になる。
あの時よりも確実に死に慣れたとはいえ、何も感情を失ったわけではない。
モンスターに対する恐れは常にあるし、自身よりも強い敵を前にした怖さはいつだってある。
それでも今は、前に進むしかない。
いや、前に進む選択肢しかないのだ。
それが、モンスターの蔓延るこの世界で生きるということだから。
あの時のように、後ろを向いて逃げるという選択肢はもう存在していない。
たとえ何度足が縺れて転び、泥にまみれて地面に這いつくばろうとも。
倒れる度に立ち上がり前に進めば、きっといつかは、どうにかなると知っているから。
「すぅ……ふぅううー……」
身が竦むほどの殺気に逆らうように、ゆっくりと足を前に踏み出す。
確かに一歩ずつ、物陰に隠れながらも慎重に重たい空気の中心へと近づいていく。
――そして。
一条明は、瓦礫ばかりになった街の中を徘徊する、その殺気の主をようやく目にした。
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ハイオーク Lv104
体力:212
筋力:311
耐久:389
速度:288
魔力:100
幸運:73
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個体情報
・ダンジョン:荒廃した丘に出現する、豚頭族亜人系のボスモンスター
・体内魔素率:19%
・体内における魔素結晶あり。筋肉に極軽度の結晶化
・体外における魔素結晶あり。体表に極軽度の結晶化
・身体状況:正常
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所持スキル
・狂戦士
・剣術Lv1
・格闘術Lv2
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赤栗毛の体毛。オークと同じ豚のような顔に、二足歩行のその身体。身体はオークに比べて一回りほど大きく、手にした鉄剣はすでにボロボロで多くの刃毀れが目に留まった。
(…………レベル、100越え。やっぱり、そうなるか)
発動させた解析画面に、明は視線を厳しくした。
以前、危惧していた通りだ。
強化前でも、ウェアウルフよりも高いレベルだったことから、そうなるのではないかと思っていた。
(スキルは、『狂戦士』と『剣術』、『格闘術』……。パッと見ではステータス補正のようなスキルは見えない。けど…………)
問題は、『狂戦士』というスキルだ。
それがどんな効果であるのかは分からないが、その言葉からして危険なものであるのは確かだ。
(ブチギレたら発動するタイプのものか、追い詰められたら発動するタイプのものか……。どちらにしろ、発動したらステータスは変わりそうだな)
明はゆっくりと心の中で息を吐き出す。
ステータスがどのような変化を起こすのかは、一度戦ってみるまで分からない。
そもそも、ステータス自体が変化しない可能性もある。
今出来るのは、その名前からどんなスキルなのかを予想し、対策を立てることぐらいだ。
(速度よりも筋力と耐久が高いし、スキルの内容もウェアウルフと同じく近接的……。力と防御力で押すタイプかな)
明は、心の中でそう結論付ける。
それから、ハイオークの動きをよく見ておこうと明が目を凝らしたその瞬間だった。
「――――――」
ピタリ、と。
それまで瓦礫の街中を夢遊病のように徘徊していたハイオークの足がふいに止まった。
かと思えば、ぐるりとその首が動き、明が潜む物陰にその瞳が向けられる。
(見つかったッ!?)
明が心の中で言葉を吐き出すのと、ハイオークが動き出すのはほぼ同時。
「ウウウウウガァァアアアアアアアアアアアアア!!!!」
空気を震わせるような咆哮が轟いたかと思うと、ハイオークは力を溜めるようにその両足に力を込めて、一気に明の元へと飛び掛かって来た。
「ッ、くっ!」
慌てて回避を試みるが、もう間に合わない。
『疾走』状態ならまだしも、素のステータスはハイオークよりも下だ。
結果、気が付けばもう既に明の目の前にはハイオークが居て、その手に持つボロボロの鉄剣を大きく振りかざしていた。
「ぁ……」
声が漏れた。
それが、死に際を察した自分の言葉なのか、鉄剣を振るわれ肉が裂けたことで無意識に零れた息によって出た声なのかは分からない。
気が付けば、明の頭は振るわれる剛腕と鉄剣によって潰され、その意識はブツリと闇に途絶えた。