奈緒の憂鬱
一方、その頃的な話です。
――気を付けて。
その言葉に、頭を下げて立ち去る明の後ろ姿を、七瀬奈緒はただ見つめることしか出来なかった。
「……はぁ」
ようやく、一条の役に立てそうな強さになったのに。
そんな本音が口から零れそうになって、奈緒は、その言葉をため息に変えて吐き出した。
「……まあ。一条の言うことも、もっともか」
呟き、奈緒は右腕を摩った。
『自動再生』により、奈緒の右腕の骨は時間を掛けてゆっくりと癒着しつつあった。
ゆっくりとだが動かすことはもう出来るし、それによる痛みは感じるものの、ウェアウルフを討伐した直後の、動かすだけでも全身を貫くような激しい痛みはもうそこにはなかった。
けれど、明の言う通り。この腕ではまだ、誰かを守りながら戦うことは無理だろうな、という実感はあった。
昨日の夜は、明に守られた。
強化された魔法の威力は、まさに一撃必殺とでも呼べるようにはなったものの、それを発動できる回数に限りがあった。
一度の戦闘で、連続して魔法を発動させれば身動きが出来なくなるほど身体が辛くなる。
そうなれば、共に戦う者の足を引っ張るのは確かだ。
『身体強化』のレベルを上げたとはいえ、今の奈緒には積極的に前へと出て戦うだけの力はない。身体強化のスキルレベルを上げてようやく、誰にも頼ることなく最低限の自衛が出来るようになっただけ。
だからこそ、右腕が使えない今。誰かを守り、戦うことは七瀬奈緒には無理だった。
(仕方ない、か)
心で呟き、奈緒はまたため息を吐き出す。
そうして、ゆっくりと扉を閉じるとベッドに腰かけて、明が訪ねて来るまで続けていた魔法の訓練を再開することにした。
「トーチライト」
指先を立てて、奈緒は呟く。
すると、指先に灯った光が徐々に大きくなり、ふわふわと奈緒の周囲を回るとやがて指先から離れた空中で止まった。
「…………」
奈緒は、その光球をじっと見つめながら念じるように腹の底へと力を入れる。
すると、ふわふわと浮かんでいた光球が少しずつ、ゆっくりと奈緒の周囲を回り始めた。
その速度は、トーチライトを発動した時に生じる動きとは比べ物にならないほどゆっくりとしたものだったが、けれど確実に、奈緒の想像する動きと全く同じ動きをしていた。
――――もしかすれば、自身で発動した魔法は操れるのではないか。
そんなことを奈緒が思いついたのはつい先ほどのことで、きっかけは昨日、『クリエイトウォーター』を発動した際に自身の魔法を止めることが出来なかったことを思い出していた時のことだった。
明の言うように、自身の『魔力回路』に魔力を流し、発動しているのが魔法であるのならば、その魔力の流れさえ制御出来れば理屈上では魔法の発動は止めることが出来るはず。
そう考えた奈緒は、自身の魔力を制御するための訓練をさっそく開始した。
とは言っても、実際にクリエイトウォーターを発動し、訓練するわけにもいかない。制御が出来なければ溢れ続ける水は止まらず、瞬く間に部屋の中は水浸しになってしまう。かといって、ショックアローで試すわけにもいかない。もしもショックアローで試せば、この部屋の壁には大きな穴が空いてしまうことだろう。
そうして、魔力を制御するための訓練として消去法で残った魔法がトーチライトだった。
結果から言えば、魔力の制御は可能だった。
これまで、ただ光球が浮かぶだけの魔法だったトーチライトだが、奈緒がはっきりと意識をすることでその光球が少しずつだが動くことが分かったのだ。
原理は分からないが、それが自身の魔力を制御し起きていることだと、奈緒は感覚的に察した。
だからまずは、魔力制御の感覚に慣れるためにも、トーチライトの光球を自分の意思で操ることが出来るようになることを目標とした。
「…………ッ、はぁー……」
やがて、光球が奈緒の身体を一周したところで、奈緒は力尽きるように大きく息を吐き出した。
光球は、そんな奈緒に合わせたかのようにまたピタリと、空中で止まる。
奈緒は空中で浮かび続ける光球を恨めし気に見つめると、倒れ込むようにしてベッドに横になった。
(やっぱり、そう簡単にはいかないな。少し前に比べればまだ、動くようにはなってる気がするけど……。これも、『魔力操作』のスキルを取得すればあっという間に出来ることなんだろうな)
奈緒は、心の中で愚痴るように言った。
明の持つ『黄泉帰り』の『シナリオ』によって大量のポイントを取得した際に、取得可能なスキル一覧に並ぶスキルの数々は一通り目を通した。
驚いたのは、スキルを取得するために必要なポイントが多くなればなるほど、そこに並ぶスキルの数が少なくなっていったことだ。
ポイント5の消費で取得できるスキルの数が五十以上も並んでいたのに対して、ポイント7の消費では四十前後、ポイント10の消費では三十前後と、徐々にその数を減らしていき、ポイント消費が30を越えればそこに並ぶ取得可能なスキルの数は、一桁台となっていた。
その中でも、奈緒の目に留まったのはやはり、『魔力感知』、『魔力操作』、『発動遅延』、『魔法範囲化』などといった魔法関連のスキルだ。
魔力感知や魔力操作の取得可能なポイントは7と少なかったが、それ以外のスキルに関してはポイント消費が30以上とかなりのポイントを消費する必要があった。
シナリオによって得たポイントは100と多かったが、それらのスキルを取得するには心許ない。
さらに言えば、それらのスキルを取得したところで戦闘においてどれほど役に立つのか分からない。
結果、悩みに悩んだ奈緒が出した選択は、既存のスキルレベルを向上させて、今の戦力を増強させること。つまりは、今すぐに戦える力を身に付けることだった。
魔力を上昇させたことで、ショックアローの威力は上がり一撃必殺の武器にもなった。
しかし、それによって発動できる回数に限りが出たことは奈緒にとっても誤算だったが、そればかりはあの場ではすぐに分からなかったことだ。
(ひとまず、今は『魔力回路』のレベルを上げるとして……。次に取得するのは、『魔力操作』かなぁ。まあ、それも追々考えるとするか)
心で呟き、奈緒はため息を漏らす。
それから、再び気合いを入れるようにして起き上がった奈緒は、未だ浮かび続ける光球を見つめて、魔力制御の訓練を開始したのだった。
――それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
ベッドで横になっていた奈緒は、部屋の中に響くノックの音に目を覚ました。
(……いつの間にか、寝てたか)
窓の外へと目を向けると、夕陽が西の空を赤く染めているところだった。どうやら、数時間ほどは寝ていたようだ。
(結構、寝てたな)
身体を起こして、瞼を擦る。
その際に右腕の痛みが無いことに気が付いて、奈緒は小さく目を瞠った。
(――――痛くない。ってことは)
軽く右腕を動かす。……痛みはない。
力を入れてみても、問題はない。どうやら、『自動再生』による傷の治療は全て終わったようだ。
そのことに、奈緒が小さな笑みを浮かべると、再びノックの音が部屋の中へと響いた。
「っと、そうだ。誰だろ。軽部さんかな? ――――どうぞ?」
奈緒は、素早く髪を手櫛で整えると声を上げた。
けれど、ノックの音は鳴りやまない。
規則的に、断続的に響くその音は、まるで奈緒が出てくるのを待っているかのように一定の感覚で鳴り響き続けている。
そのことに、奈緒は怪訝な表情で眉を寄せると、もう一度声を張り上げた。
「どうぞ! 開いてますよ」
その声に一度、ノックの音が止まった。
しかし、また。扉が、ノックされる。
「…………なんだ?」
嫌な予感がした。
虫の知らせ、とでも言うべきなのかもしれない。
こうして、性質の悪い悪戯じみたことをするのは、ココに居る人達の中では誰もいない。
軽部であれば声を上げて扉を開けるはずだし、明にしても同様だ。こうして、中の人が出てくるまでノックを繰り返すなんておかしな真似をするのは、いったい誰なのだろうか。
「…………」
ゆっくりと、奈緒はベッドから立ち上がった。
念のために、手には明から預かっている鉄剣を持っておく。
そうして、扉の前で一呼吸を置くと。
奈緒は扉の取手を手に取り、力を込めて、開いた。
「――――やあ、こんにちは。いや、こんばんは、かな? ……ふむ。この際、どちらでもいいことか。とにかく、昨日ぶりか。私のことは覚えているかな? お嬢さん?」
扉の前に立っていた者。
それは、あのマンションで別れたはずの男――アーサー・ノア・ハイド。その人だった。