第一章 第9話「夕餉の席、緊張の弛緩」
自らの内から溢れ出した未知の激情に耐え切れず、リディア宅を飛び出したレノ。
再び訪れたリリエフォルス邸での、ささやかな弛緩のひと時。
第一章、ようやく始動。
龍神歴1367年6月8日、午後18時32分。
金髪翠眼の少年−−−レノ・ホークスは、本日二度目のリリエフォルス亭にて、館の住人二人と共に夕餉の食卓を囲んでいた。
「家出だなんて、レノ君にしては大胆なことをしたわね」
苦笑混じりにそういうのは、本邸当主 アンジェリーナ・リリエフォルス。
短く梳いた薄桃色の髪に、レディーススーツを普段着のように着こなす彼女は、亡き夫の跡を継ぎ、大企業をほぼ一人で管理する女性社長だ。
「このぐらいの年なら、家出をしたくなる時期くらいあるわよ。ねぇ、レノくん?」
嚥下ののちにレノに笑いかけるのは、本館主人の娘にして、辺境貴族に嫁入りした玉の輿の体現、エレナ・ポートマン。
母親と同じ桃髪蒼眼に、薄青のシンプルなドレスを纏う彼女は、現在貴族の家を正規に(・・・)抜け出して、実家で休養中だ。
「あなたぐらいの年で家出している子はそういないと思うけどね」
「やめてよママー、今回は正規の手続きを踏んでるって言ったでしょ」
「毎回ちゃんと正規の手続きを踏みなさい」
和やかな母娘の会話が夕食の一時に流れる。
巨大な感情の渦に追われて家出を決行したレノは、直後に再び降り出した雨を避けるため走り出したところを、リリエフォルス邸の女主人に匿われた。
幸い雨にはほとんど濡れなかったが、気持ちの整理がつかず、帰るに帰れなくなってしまったレノは、エレナの誘いを受けて夕食の席に呼ばれることになった。
「ところでレノくん、ニーナの料理とわたしの料理、どっちがおいしい?」
不意なエレナの問いかけに、レノは逡巡した。
ニーナとはリリエフォルス邸で働く女調理師で、本日の夕食を作ったのも彼女だ。ちなみに、レノは未だにニーナに会えたことが一度もない。
……というか、パートタイム制とはいえ何年も同じ場所で雇われているのに、一度も見たことがないとなると、本当に実在する人物なのかさえ疑わしい。
否、今はそんな話ではなく、
「そ、そうですね……ニーナさんの料理の方が美味しいですが、僕はエレナさんの料理の方が好きですよ」
当たり障りのない答え方をしておいた。
いや、決して嘘ではない……はずだ。
食卓に並ぶニーナの料理は、どれも煌びやかでとても美味しい。
ベラス湾から取り寄せた新鮮なピケ(秋刀魚)を煮、オリーバオイルと薄切りのレモムに漬けたウル・フィーチ(魚の油漬け)が、モチモチとしたパスタにかけられている。この麺料理は見た目も味も華やかなうえ、油のしつこさはなく、さっぱりとした後味に麺の喉越しとピケの食感の絶妙な組み合わせ。細かい味のこだわりに、ニーナの技を感じる
隣に並ぶ汁皿に入っているのは、癖のない白身魚とトマトを使った、沿岸風のソーパ(スープ)。白ワインをベースとした味付けに鷲の爪やニンニクのパンチが効いており、メインディッシュのパスタによく合う。
両品とも、エレナが作ればおそらく色彩美は劣るし、味もここまでは整わないだろうが、それでも彼女の料理には 他にはない独特な趣があるような気がしないでもないような−−−
「レノくん、正直に言っていいのよ?」
アンジェリーナが薄い笑みを浮かべた顔でケラケラと笑った。
「なっ!? ママ、それは流石にひどいわよ。ねぇレノ君、私の料理だって、ニーナちゃんに負けてないわよね!?」
「は、はい……」
「なんか歯切れが悪い!?」
リリエフォルス邸の食堂に、穏やかな時間が過ぎてゆく。
−−−参席する少年の、切迫した心を慮るように。
読んでいただきありがとうございます。
3話ほど前に「アクションシーンはあと2〜3話先です」とか言ってたのは誰でしょうね。正しくは、ここからさらに3〜4話先です。
愛想尽かさずに待っていてください。カッコいいアクション書きますんで。
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