序章 第3話「リリエフォルス亭の昼食会」
少年の歯車は、過去へと繋がっている。
小食堂の扉を開けると、
「レノ君、今日のお昼はエレナの手作りだから美味しいわよ」
笑顔のアンジェリーナが上座に座っていた。
「ママ、それはさっき私が言ったわよ」
開口一番に娘を褒めた母親に、エレナが突っ込む。
「た、楽しみです」
笑みが引き攣ったままのレノは、アンジェリーナの掌に促されて席についた。本当に美味しいのだろうか……?
シンプルな彫刻の入ったテーブルの上には、煌びやかに装飾された食材たちが自己主張をしている。
見た目だけなら……
「すごい……とても美味しそうですね」
席に着いたエレナに顔を向ける。
「ふふっ、ありがとう、レノ君」
エレナがはにかみ、レノの斜向かいの席に座る。自信に満ち溢れた顔で照れている。素直な女性だ。
「では、いただきましょう」
アンジェリーナの声に合わせて、額の前で指を組む。ちなみにこれは、メリンカン王国の国教、ロトリア教での食前の小儀式だ。
「今日も神の恵みを戴けることに感謝を込めて」
「「「いただきます」」」
声をそろえて神戸食勢への感謝の言葉を紡いだ。
「レノ君、遠慮しないでしっかり食べてね」
エレナの声で、緩やかな昼食会が始まる。
レノがまず手をつけたのは、野菜が沢山盛り付けられた小皿。これならおそらく、どんな失敗をしても食べられない味にはならないだろう。
フォークを立てると、キャベツの手応えと軽やかな音が響く。
恐る恐る口に運び咀嚼すれば、シャキシャキとした歯ざわりと、新鮮なタマネギで作ったドレッシングの香りが口の中で木霊する。
あれ、これはかなり……
「おいしい……」
「まあ、ありがとう」
想定外だったので、自然と言葉が口から出た。
そんなつぶやきを聞いて、エレナが嬉しそうに笑う。
いや、サラダを作るだけなら不味くはならないよな。それもそうだ。
次に、レノはスープに手をつける。
コンソメスープと思しきそれは、飴色の透き通った液体で、芳ばしい良い匂いだ。
ゆっくりと口をつけ、啜る。
魚介のダシと野菜の甘みが舌の上で溶け出して、芳醇な自然の香りを伝える。
あれ、これは、とんでもなく……
「おいしいです!」
「まあ。それはよかったわ」
褒められて上機嫌になったエレナが、ニコニコという擬音がぴったりな顔で笑う。
しかし、まだ油断はできない。
ナイフを手に取り、大きな牛肉のステーキにフォークを刺す。柔らかい。
切った肉の断面からは、外はこんがりとウェルダンに、内側はは赤みがかったレアに、という絶妙な焼き加減と、それを実現できる肉の厚みがうかがえる。
慎重に口へと運び込めば、ニンニクの香ばしいソースの風味が広がる。噛むと肉汁が洪水のごとく溢れ出した。
非常に良い意味で想像を裏切った美味しさに目を見開く。
炭水化物を求める口に米を含めば、デンプンと肉汁とが絡みあって絶妙な至福を味蕾にもたらした。
なんだろう、全部が途轍もなく美味しい。
食事をする手が止まらず、レノは皿に盛られた食事をノンストップで胃の中へと送り込んだ。
「ご……ご馳走さまでした」
「ええ、お口にあったようで何よりね」
エレナがレノの膨れた腹に目をやり、クスクスと笑う。
「はい。すごく美味しかったです」
満足げに頷いたエレナは、おもむろに口を開いた。
「私たちは味覚が弱いからあんまり味がわからないの」
「えっ、そうだったんですか」
とてもそうとは思えないような、絶妙な味だったが……あ、だとすると、前回のクッキーはそういうことだったのか。
一人で納得して頷いたレノに、エレナは不思議そうな顔をしていた。
そうして、食事を終えた彼らは雑談に花を咲かせる。
普段はここまで長く話すことがないので、少し新鮮だ。
はじめのうちは、身の回りに起こる些細な笑い話や、オチのない薀蓄などで盛り上がっていた。しかし、人は珍しい出来事、すなわち事件の話を好む。
この親娘やレノも例外ではないようで、話題は少しずつ不穏な影を帯びてくる。それに合わせるかのように、窓の外に見えていた青空にも少しずつ雲が集まっていた。
「そういえば、ここ何年かエリエッシュの森でおかしなことが起きてるらしいわね」
エレナの言葉に、アンジェリーナが首肯する。
「ああ、例年通りの冬なら森の魔獣たちがおとなしいはずなのに、ここ2、3年は魔獣が森の外まで出てくるそうね。そのせいで森外の丘の野狼や大蜥蜴が農場まで降りてきて家畜を襲うからって、うちの会社で仕入れている羊毛がいつもより高いのよ。おかげで収益が下がっちゃってね」
エリエッシュとは、メリンカン王国南端の都市、ここハナナよりもさらに南へ数キロ。国境を越えた先の小国家だ。実質メリンカンの属国であり、品質の良い畜産物を独占的に輸入している。
「魔獣が……。理由などは分かっているんですか?」
レノの質問に、エレナが答える。
「派遣された冒険者の報告だと、普通なら居るはずのない上位の魔獣や魔物が突然森に現れて、そのせいで元から居る魔獣たちが森を逃げ出しているそうよ」
「なるほど……エレナさん、詳しいですね」
「まあね。私の嫁ぎ先、貴族のおうちだから」
そう言って、エレナが少し得意げに笑った。彼女の夫の家は国の南端の国境付近まで治めている。ゆえに、エッリエッシュとの国交に深く関わっているというわけだ。
と、アンジェリーナがおもむろに口を開く。
「エレナの嫁ぎ先って言えば、あなたまたこっそり抜け出したりしてないでしょうね? まさか、今日も黙って−−−」
「や、やだなぁママ。自慢の娘を疑うの?」
エレナの花のような笑顔が引き攣った。
それを鋭い眼で見取ったアンジェリーナが、やれやれと首を振る。
「もう、そんなふうでこの先の貴族生活をどうするつもりなの? だいたいあなたはいつもそうやって……」
「わー、わー! やめてよママ、せっかくレノくんをお招きしたのにー」
説教を始めようとした母親を、大声で制止するエレナ。いつもこんな会話をしているのだろうか。
仲がいいな。
「こ、この先って言えば、レノ君は今色んな家で家事をしているけれど、将来は何になろうと思っているの?」
逃げの姿勢のアンジェリーナから出た話題に、レノの動きが固まった。
「しょ、将来、ですか……。あまり、考えたことがないです。その、今は現在の生活を保つだけで精一杯なので……」
そう言うと、母娘は若干気まずそうな苦笑を浮かべる。
特にエレナの顔には「話題の振り方を間違えた」という焦りがはっきりと浮かび上がった。
レノと数年の付き合いがある彼女らは、レノの境遇を知っている。そのため、レノの現状の生活がいかに微妙な、中途半端なものであるか知っている。
「ご、ごめんね、レノ君。別の話をしましょう?」
あまりに慌てて言うエレナに、レノはくすりと笑った。
「そんなに慌てないでも大丈夫ですよ。僕は平気です。……将来、ですよね。もちろん、現状のバイト生活も充実していますが……」
再び口を開いた少年に、母娘はホッとした顔で互いの視線を合わせる。そして、
「冒険者になろうかな……なんて、考えています」
「−−−え?」
今度は二人の動きが、固まった。
気づけば、先程より一層、空が黒くなっている。
「れ、レノ君? 冒険者って、どういうこと?」
エレナの目が点になった。
アンジェリーナの方は落ち着いて見えるが、内心は娘とさほど変わらない感情を抱いているのだろう。
しかし、二人のリアクションは致し方ない。
冒険者とは、冒険者ギルドから依頼を受け、その難易度と完遂率を基準にギルドから報酬を受け取る職業だ。
仕事の内容は警備や護衛に始まり、住宅街近郊に現れる害獣の討伐、薬草や魔鉱石、魔獣のドロップ品などの素材の採集、さらには家出人の捜索とかなり多岐にわたる。
このシステムによって、常に一定の仕事量と収入は確保されるが−−−
「レノ君は賢いからこんなことはわかっていると思うのだけれど……冒険者に命の保証なんて無いに等しいのよ? 私たちは、レノ君にそんな危険を冒して欲しいとは思わないし……」
曖昧な笑みの裏に焦りを見せるアンジェリーナが、レノをなだめようとする。
しかし、レノは口を開く。
普段は他人の言葉のには素直に従うレノだが、この時ばかりは違った。
駄菓子屋の前の子供のように頑固になる。
「危険は重々理解しています。だって−−−」
一度、レノは目を伏せた。
そして、静かにつぶやく。
「僕の父が……冒険者だったから」
レノの言葉に、母娘が再び目を見開いた。
黒天から落ちてきた小さな雨粒が一つ。
小食堂の窓を、静かに叩いた。
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