序章 第2話「昼食への誘い」
そして、物語の歯車はゆっくりと動き出す。
季節は初夏、現在16歳のレノは、日替わりで38件もの家の小間使いとして働いている。
一軒につき約20クロン(1クロンは、日本円で100円相当)、一月で約1200クロンの稼ぎをあげており、この年齢にしてはそれなりの収入である。
稼いだお金のうち約十分の一は自分の食費、十分の四を貯金にし、残った半分は叔母夫婦の家計に納めている。
叔母のマイアはそんな大金はいらないと言っているが、実際のところ、マイアの管理する家計は、レノの稼ぎを足してギリギリ赤字を免れている。
レノが足を止めたのは、一軒の大きな家−−−−屋敷と称しても過言ではないその家の持ち主は、レノが小間使いとして働き始めた頃からレノを愛顧してくれている、アンジェリーナ・リリエフォルスだ。
彼女は気丈な女性で、一見すると淑やかでか弱そうだが、夫のアルフレッドを喪った後も、彼のビジネスを継いで女社長として働いている、非常に勇敢で聡明な女性なのだ。
玄関の前に立ち、巨大なドアノッカーを鳴らす。
レノの来訪を告げる壮大なノック音が屋敷に響き、しばらくすると赤桃色の長髪を結い上げた若い女性がドアを開け、顔をのぞかせる。
彼女がこの邸宅の主、アンジェリーナ−−−ではなく、その娘、エレナ・ポートマンである。
民間の大企業の社長令嬢として生まれたエレナは、父の後を継ぐべく様々な知識を学んだが、その奔放で天真爛漫な性質からか18歳のときに中級貴族のグレゴリオ・ポートマンと恋に落ち、その翌年には花嫁として迎えられた。とてつもないお嬢様だ。
なので、普段はこの屋敷にはいないのだが−−−
「あら、レノ君じゃないの。お久しぶりね」
青く柔らかなドレスをまとい、花のような笑顔を浮かべた彼女は、顔の横でひらひらと手を振った。
「はい、お久しぶりです。今日は正式に許可をとっての帰省ですか?」
「ええ、もちろんよ。ジョージ……コホン、夫はいい人なんだけどね、どうにも貴族の生活は疲れちゃうのよ。だから今日だけは、好きなだけダラけてやるのよ」
「そう言って、いつも勝手に抜け出してはここに帰っていらっしゃるじゃないですか」
彼女の気ままな生き方に、レノは苦笑を浮かべる。だが、そんな評価を受けてなお、彼女の気概は崩れない。
「いいじゃないのー、貴族も大変なのよ」
楽しそうにウインクしたエレナは、屋敷の中へ向き直ると、その主である自らの母親を大声で呼ぶ。
「ママー、レノ君がいらしたわよー!」
すると屋敷の奥から「はいはい」と声が返ってきて、エレナと同じ桃髪をショートカットにした、老齢の女性が玄関口に現れる。
「いらっしゃい、レノ君。今日もよろしくね」
彼女がこの邸宅の主、アンジェリーナ・リリエフォルスだ。葡萄茶色のタイトなスーツを纏ったその容姿から醸し出される凛とした風格は、シワの一つすら装身具のように思わせる。
「はい、よろしくお願いします」
姿勢を正して返事をしたレノは、屋敷の中へ通される。
少年を笑顔で招き入れた女性たちは、世間の批評を意に介さず、自らのあり方を貫き続ける。そんな彼女らの強さに、いつしか世間は魅了されてゆく。
そうして、彼女たちは自分の人生にとっての”成功“と呼べるものを手にしたのかもしれない。
レノは、このリリエフォルス邸に週一回程度の頻度で掃除をしに来、ほぼ一人でこの広大な屋敷の全体を掃除している。ちなみに、料理と洗濯は別で雇っている家政婦数名が日替わりでやってくれているらしいが、レノはまだ会ったことがない。あえて時間をずらしているのだそうだが、理由は不明だ。(というか一度尋ねてみたことはあるのだが「面白いから」という答えしか返ってこなかった)
屋敷はとにかく広いので、掃除には迅速さが求められるのだが、かといって丁寧さを失ってはならない。これは、レノが小間使いのバイトを始めた頃から心に誓っていることである。仕事において基本中の基本だが、それでも一分の隙もなく実践し続けるのは難しいのだ。レノは、それを常に意識し続けることで迅速さと丁寧さを保っている。
などと考えながら黙々と掃除に勤しみ、2時間が過ぎる。10時半にここにきたので、今はおおよそ12時半だ。昼食どきとあって、少し空腹感を感じる。しかし、この大きな屋敷の掃除も残すは三部屋だ。早く帰宅して腹を満たそうと考え、窓を磨く手を速くする。急ぎながらも、丁寧に。
と、部屋の外からにわかに足音が聞こえた。隣の部屋の戸が開き、しまる。直後、窓を拭くレノのいる部屋に、やたらに笑顔のエレナがやってきた。
「お疲れ様、レノ君。お昼ご飯ができたから、一緒にいただきましょう。今日は私の手作りよ」
食い気味に昼食へ誘う彼女に、レノはなるほどと得心する。以前、エレナの作ったクッキーを食べたことがある。なんでも、当時の恋人(現在は夫)であるグレゴリオにプレゼントする前に味見をして欲しかったらしいが、砂糖と塩を間違えたのかやたらと塩辛いクッキーを無理やり頬張った記憶がある。
お嬢様育ちで料理の経験がなかったので仕方ない。と言いたいところだが、できれば遠慮したい。
何か理由を、と考える。そうだ、叔母のマイアが家で料理を用意しているはずなので、それを言い訳に丁重に……
「あ、マイアさんにはもう連絡してあるから、心配しなくていいわよ」
断れなかった。
もとより、レノはあまり人の好意を断れないタイプの人間だ。諦めて引きつった笑顔で昼食会の誘いを受け入れる。
ふわりと笑ったエレナは、東棟の食堂まで先導する。料理を食べた後、舌の痺れはどれくらいで消えるだろうか、などと考えながら、レノは先ほど自分で掃除した小食堂へと足を向けた。
全体の流れを大幅に修正しました。申し訳ございません。
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