5 初日で救護室
「随分早く起きちゃったのかな……」
ユリアンナは、寝息を立てているスコーピアを横目に呟いた。空は朝焼けで仄かに赤い。
ユリアンナの起床時間は習慣によるものだ。いつもはこの時間には机に向かっていたのだが。現状、この世界では文字も読めない。ユリアンナは考えあぐねていた。
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ユリアンナが向かった場所は、厩舎だ。厩舎番 エクロウドも起きていたようで、ユリアンナの姿を見て驚いた。
「ユリアンナ? お前さん早起きなんだな」
「おはようございます、エクロウドさん。エクロウドさんもお早いですね」
「そりゃあ、厩舎番の朝は早いさ。ユリアンナはテオドールに会いに来たのか?」
「はい。やることもなくて…」
「それで厩舎に来たのか? ははっ、嬉しいね。馬術場なら開いてるぞ、今日は先客がいるんだ」
「先客…?」
「お前さんの先輩さ。テオドールと行ってみな」
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馬術場は昨日とは打って変わって爽やかな空気に包まれている。そして、その雰囲気を加速させている存在が一組。
「いやあぁっほおぉぅっ!! 最高だヴェントリッサ!」
鎧姿の兵士が一人、逞しい鹿毛馬を駆って馬術場を駆け回っている。人馬一体とはこの事だろうか。派手で、少々無茶苦茶な動きだが、全く無理をしている様子はない。
「…! 見ろヴェントリッサ、仲間が来たぞ?」
彼等はユリアンナを見付けると、さらに速度を上げて馬術場の外周を走り回る。速度を上げて、上げて、上げて……。
不意にユリアンナ達に向かって跳んだ。
「わあぁっ!?」
ユリアンナは咄嗟に叫んで目を閉じる。しかし何かが起こる様子はない。
「うっははは! 良くないねぇ新兵! せめて防御姿勢くらいはとらねえと!」
小馬鹿にした声に目を開けると。間一髪のところで止まっていたらしい彼等が目の前に立っていた。彼は口笛を一つ吹き、馬から飛び降りた。
「あんた、ユリアンナだったか? …彼、良い馬だな。しかも既に意気投合してるみたいだ」
彼はテオドールを見ると感心したように眺め始めた。
「え、ええと…、テオドールといいます」
「テオドールね…、ははっ、こりゃ面白い。俺は第3小隊 1班所属、名前はファサード、よろしくね」
彼は兜を外しながら、名前を告げた。
第3小隊 1班所属、ファサード。活発な男性で、髪は淡い黒、そして枯れ草色の瞳は朝焼けの光を反射している。
「そんで彼女が俺の相棒、ヴェントリッサだ」
彼の馬、ヴェントリッサもユリアンナに挨拶するように鳴いた。彼女の肢体は力強くしなやかで、毛並みも美しい。
「そういやあんた。配属1日目だろ? それで馬術場に来るなんて随分気合いが入ってるんだなぁ」
「やることが他に思い付かなかったので…、早起きは習慣ですし」
「へぇ、だから自分の馬と散歩に…。じゃあ一緒にどう? 俺賑やかな方が楽しい性質なんだよね」
「え…、貴方と一緒に?」
「…あー、さっきは怖がらせてごめんね、今度はちゃんとそっちに合わせるからさ。適当に世間話でもしようや」
「…そうしてくれるなら、是非お願いします」
「よーし、じゃあ乗ろう」
ファサードは器用に馬へ跳び乗ると、ユリアンナを促した。ユリアンナはそれに応じ、慎重にテオドールの背中へ乗った。
「ああ、乗り方知ってんだね?」
「はい、昨日の夜エクロウドさんに教えていただきました」
「兵士になって剣の振り方より先に馬の乗り方を覚えたんだ…、くくっ、そういうの好きだよ俺」
二人は轡を並べて、ゆっくりと歩き出す。
「で、どう? 此所の雰囲気は」
「ええ、とても…良いです。故郷と色々違うところもあるので困ることもありますが…、新鮮な気持ちです」
「へぇ、故郷は此所から遠いの?」
「はい、凄く。…凄く遠い所です」
「ふーん、馬車でどのくらい?」
「えーと、…分かりません。一生かかって辿り着けるかどうか…かもしれません」
「ええっ? はははっ、なんだそれ仙人の集落? あんた見かけによらず面白いな! くくっ、興が乗ってきた!」
ファサード達が軽く走り出す。ユリアンナ達もそれに合わせて速度を上げた。
「どう? 今度はユリアンナから俺に訊くことあったりしない?」
「あっ、じゃあ…ファサードさんはこの時間、いつも馬術場に居るんですか?」
「ん、そうだね。ヴェントリッサと一緒に居ると落ち着くんだ俺。それはヴェントリッサも同じみたいだけどな」
「信頼されてるんですね」
「10年で培われてきた友情ってとこかなぁ、あんたらも素質はありそうだけどな。生き残ればだけど」
「生き残れば…?」
「あんたが知ってるかは分からないけど、そりゃあ何人かは死んじまうよ。獣っつうのは単純な奴等だが、狂暴だ。滅多に無いとはいえ、事故は起こるからな」
「……はい」
「…あー、怖がらせて悪いね。まぁ、冷静に慎重に動いたら基本的に大丈夫だよ。この国の救護隊って皆お化けだから」
「お、お化けですか?」
「そう、お化け。あいつら怪我人を生かすのにめちゃくちゃ必死なの。下手すりゃ復帰するまで地獄を見ることになる…。それが嫌ならそもそも怪我をしないようにしろってのが共通認識。…うちの班は突撃気質多いけどさ」
「地獄…というと?」
「それは人によるかもだけど…、あんたならすぐ分かるんじゃないか?」
「えっ、どういう事ですか?」
「さぁね? それより、そろそろ日も上ってきたし、スコーピアが「朝起きたら隣で寝ていた筈の新兵が居ない!」何てことになる前に、切り上げるかね。俺も腹減ったし」
二人は進行方向を変え、厩舎に戻る。
「どうしてスコーピアさんがまだ起きていないって分かったんですか?」
「ああ、彼女うちの中隊の中じゃ一番起床が遅いからね。その分起きたら元気だけど」
厩舎に着くと、二人は馬から降りた。
「おお、戻ったか二人とも。ファサード、新兵を苛めていないだろうな?」
「あー、まぁ少しね」
「おいおい、何をやった?」
「ヴェントリッサとちょっと脅かしただけだよ」
「ったく脅かすにちょっとも何もあるか。悪い癖だぞ」
「す、すみません…」
「…ふふっ」
「あっ、笑ったなユリアンナ!」
「ごっ、ごめんなさい、エクロウドさんには頭が上がらないんだなと思って…」
「はっはっは、まぁヴェントリッサの世話は俺がやっているからな。当然だ。…さぁ、馬達もそろそろ飯の時間だ。二人もそうすると良い」
「…はーい。じゃ、また食堂か訓練で会おうねユリアンナ」
ファサードは、一足先に厩舎を後にした。
「それじゃあ、私も…。エクロウドさん、ありがとうございました。またねテオドール」
「おうユリアンナ。またいつでも来な」
ユリアンナはエクロウド達に別れを告げ、厩舎を後にした。
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寝室の扉を開けると、スコーピアはそこに居た。彼女はユリアンナを見付けると、安心したように息を吐く。
「ユリアンナ! よかった…、お風呂にも居ないから心配していたわ。貴女早起きなのね、何処に行ってたの?」
「厩舎へ、テオドールと会いに行ってきました」
「厩舎? へぇ…、もう仲良しなのね!」
「そう見えるなら嬉しいです。…あ、そうだ。ちょっと馬術場で走ってきたんですけど、ファサードさんに会いましたよ」
「ファサードに? …あー、そっか。あいつ早朝にヴェントリッサと暴れるのが日課なんだっけね」
「…良い雰囲気の方達でした。あそこまで通じ合っている様子を見てると、なんだか笑顔になってしまいますね」
「ふふっ、それは同意できるわ。…それはそうとユリアンナ、ちょっと良いかしら?」
「何ですか?」
「実は、貴女に贈り物があるのよ。そんなに大層なものでもないけどね」
スコーピアはそう言うと、綺麗な装丁の二冊の本と、鉛筆を何本か、そしてそれを削るための小さなナイフを取り出した。
「はい、どうぞ。昨日、ハンクリッドさんとこに本を買いに行ったでしょ? あの後、ついでに買ってきたのよ。その本中身は白紙だから、是非日記に使ってね。文字を覚えるのにも役に立つと思うの」
「…ありがとうございます、大切に使わせていただきますね」
ユリアンナは、笑顔を浮かべ、贈り物を受け取った。
「それと…、もう一冊の方は故郷の文字を使って書いてあげて。こっちの文字を覚えて、故郷の文字を忘れてしまったら寂しいもの」
「スコーピアさん…、ありがとうございます。そうしますね」
二人は顔を会わせ微笑み合う。良い関係が築けそうだ。
その時、部屋の中にノックの音が響いた。
「起きてますかユリアンナ、一緒に朝御飯食べに行きましょう!」
「あら、ハールダンね。…ふふっ、最初はあんな態度だったけどすっかり歓迎の雰囲気じゃない。行きましょ、ユリアンナ」
ユリアンナは、スコーピアと共に寝室の扉を開けた。
「おはようございますユリアンナ、昨日はよく眠れましたか?」
ハールダンは笑って二人を迎えた。
「はい、とても新鮮な気持ちで眠れました」
「それは良かったです。じゃあ行きましょう、食堂へ」
ユリアンナ、ハールダン、スコーピア一行は、食堂へと向かう。
「サイウスは鍛練?」
「ええ、一足先に食べて訓練場に行ってますよ」
「そう…、飽きないものね。…そういえばユリアンナ、寝心地はどうだった? 枕の加減は?」
「大丈夫ですよ、よく眠れました。不満も無いです」
「ふむ…、じゃあ近い内に買いに行きましょうか」
「えっ、いえ大丈夫ですよ?」
「いいえユリアンナ。睡眠環境というものは"不満がない"じゃ駄目なの。そこから"満足できるもの"にしなきゃ良質な睡眠はとれないわ。良い寝具っていうのはね、寝転がった瞬間に"気持ちがいい"とはっきり感じられるのよ。最近はある程度予算も出るようになったし、良いの買いに行きましょう」
「スコーピアが兵士長に直談判したから予算が出るようになったんですよね確か」
「そう、私功労者なのよ?」
「…なんだか、ハールダンさんの食に対する意識と通ずるものがありますね」
「ええ、私たち歩む道は違えど志は同じよ!」
「握手でもします?」
「喜んでー! ……なんておふざけはさておいて、ご飯食べましょっか」
どうやら食堂に着いたようだ。朝食時というのもあり、多くの兵士で賑わっている。
「そういえば、案内はしましたけど細かい仕組みについては説明していませんでしたね。スコーピア、ちょっとユリアンナに説明するので自分の食事注文してきて良いですよ」
「ん、分かったわ。じゃ、あの辺に居るわねー」
「いってらっしゃいスコーピア。…さてユリアンナ、あそこの壁に品書きがありますね?」
ハールダンが、反対側の壁を指差した、
「はい、見えます。…あっ、見えるんですけどごめんなさい、読めなくて…」
「あー! そうですそうですそうでした! 一番の弊害が見付かりましたね…。じゃあ適当に……うん、『蜥蜴肉の香草焼き』が無難ですかね」
「えっ、蜥蜴…!?」
「あれ、ユリアンナの故郷は蜥蜴を食べないんですか?」
「はい、食べるところもあるとは思いますけど…、私は食べたこと無いです」
「じゃあ挑戦してみるのも良いですね。この辺は蜥蜴の生息域が近いので親しまれてるんですよ。調理法もしっかり研究されてますから、是非食べてみてください」
「う…は、はい頑張ります!」
「頑張らなくてもちゃんと美味しいですよ? …さて、食べるものが決まったら注文します。あそこに注文用の紙と鉛筆があるので、品書きの番号と食材の種類、後は所属小隊と班なんかを書くと分かりやすいです。今回は僕が書きますね。…あーそうだ、主食はパンと芋と米がありますけどこだわりあります?」
「あっじゃあお米でお願いします」
「米ですね、了解。後飲み物は結構種類があるんですけど要望あります?」
「じゃあ…煎茶あります?」
「煎茶ですね、勿論ありますよ」
ハールダンは、自分の注文とユリアンナの注文、二つをすらすらと書き上げる。
「…で、書けたら厨房に繋がっている受け付け箱に投函します」
ハールダンは、側にあったポストのような箱に2枚の注文書を入れた。直後、厨房からそれを読み上げる声が聞こえる。
「後はしばらく待つだけです! ここは兵士のための食堂ですから、お代も要りません。料理が出来上がると、そこの受け取り口から注文書と共に置いてくれるので受け取ります。鐘の音と一緒に料理長が知らせてくれますから、鐘の音が聞こえたら確認すると良いですね。…その間雑談でもしていましょうか、何か話題があればどうぞ」
「話題…ですか、えっと、ご趣味は?」
「あー、趣味ですか…。自分磨き、ですかねぇ…髪の手入れと、休暇で着る服選び、それと…美味しいご飯を食べることも勿論自分磨きの一環ですね。あとは化粧したりもします、仕事中は汗でぐちゃぐちゃになるので控えてますが」
「そうなんですね。確かにハールダンさんって綺麗な髪ですよね」
「そうですか? ははっ、照れますね」
「あっ、じゃあもしかして、昨夜出掛けてたのも自分磨きの一環だったりしたんですか?」
「えっ? いえ、あれは…うーん、まぁ言ってしまえばそうですね。……趣味といえば、ユリアンナは演劇をやってたって言ってましたよね? どんなことをするんですか?」
「私ですか? どんな事をと言われても…そこまで本格的な事はしていませんでしたよ。先生も未経験の方でしたし、本やネット…いえ本ですね、練習法を勉強して…台本も見付けて、文化祭で披露するみたいな…」
「へぇ…文化祭? 黒獣祭と似たものですかね…、もうちょっと詳しく──…」
「第1小隊 3班!『蜥蜴肉の香草焼き』と…あと、…ったく多いな面倒臭ぇ『ハールダン盛り合わせ』上がったよー!」
と、鐘の音と共に料理長 サイカットの声が響いた。
「ちょっと料理長! それじゃ僕が食材になってるみたいじゃないですか!」
ハールダンの声と共に、食堂の方々で笑いが起こる。
「はっはぁ!! 食うにしても訓練に不真面目で細っこいお前の肉はさぞ不味いだろうよ!!」
笑った兵士の一人が一際大きな声でハールダンを嘲った。
「マグナスゥ! 全く毎度毎度アンタ一体何なんですか! 次訓練試合であたったら容赦しませんよ!」
「おう望むところよ!! 救護室送りにしてやらぁ!」
「ちょっとマグナス、わきまえなよ。あんた声でかいんだから新兵が怖がるだろ?」
マグナスと呼ばれた兵士を、側に居た兵士…もといユリアンナが早朝に出会った兵士ファサードが止める。
「ああん、新兵!? ファサードが早朝会ってたっていう!? …あー、サイウスの班だったのか!」
「マグナス…、あんた歓迎会の時なにも聞いてなかったでしょこの筋肉馬鹿め」
「へへっ、すまねえな!」
「謝るなら彼女にだよ」
「それもそうだ。新兵!! すまねえな!! 今日はお前に免じて見逃してやるぜ!!」
「えっ、あっ、ありがとうございます…!?」
「ぷっ、うっはは! やっぱあんた面白いわユリアンナ!」
「よーし! そんじゃあハールダンをぶちのめす為にちょっくら鍛練…いや、そのついでにサイウスにも喧嘩ふっかけに行ってくっか!! ファサード行くぞ付き合えや!!」
「はっ!? なんで俺まで! っ、ああもう分かったから引っ張るなおい! っ、じゃあねユリアンナ!」
ファサード達は慌ただしく食堂を後にした。
「忙しない人達ですね、第3小隊は…。当分先でしょうけど、もし死ぬほど鍛練したい気持ちになったら彼らに声かけてみると良いですよ。彼等、体力は群を抜いていますから。さぁ、料理が冷める前に行きましょうユリアンナ」
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「おー来たわね、先食べてるわよ。ユリアンナは何にしたの?」
「メニューが読めなかったので…ハールダンさんに決めてもらいました」
「由々しき事態です。そういう訳でスコーピア、教育急いでくださいね」
「はいはい、任せておきなさい。それじゃユリアンナ、内容組んでおくから訓練の後元気があったらよろしくね」
「はい!」
「それじゃ食べましょうユリアンナ! 腹が減っては訓練にも身が入りませんからね! いただきます!」
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サイカット達料理人のこだわりが詰まった料理は、やはり美味だった。彼等の情熱は強いらしく、味からもそれは感じられた。
「ご馳走さまでした! どうでしたかユリアンナ、蜥蜴肉の感想は?」
「ええとても…美味しかったです。最初こそ躊躇ってしまいましたけど一口食べてしまえば後はもう抵抗がなくなるものですね」
「でしょう? ふふっ、料理とは得てしてそういうものです。食べたことがないからと臆していれば、豊かな人生は送れません!」
「"人生"とは大きく出たなハールダン」
ハールダンの声を彼の背後から返したサイウスは、笑いながら近くの椅子に座った。その手には、珈琲の入ったコップと焼き菓子の盛られた皿が携えられている。
「おかえりなさい班長。食欲は人間の欲求の中でも大きいですから、間違ってもいないでしょう? あっ、それより大丈夫でしたか?」
「ん? あぁ…いや、お察しの通り無事ではない。マグナスとファサードが仕合をしたいと言い出したから付き合ったが…。あいつらは化け物だな。全く軽い気持ちで受けるんじゃなかった…」
サイウスはくたびれた様子で珈琲を口に含む。兜で蒸れ、くたびれたようにも見えるその目はどこか美しい。
「それはそうと、おはようユリアンナ。昨日はよく眠れたか?」
「はい、思ったよりもぐっすりと。班長も、鍛練お疲れさまです」
「ああ、ありがとう。…しかしユリアンナは随分と落ち着き払っているな。俺が新兵の時は興奮で眠れなかったものだが」
サイウスは冗談混じりに笑って見せた。
「まぁ、ユリアンナは準備もしてきたみたいですし、決意もしたんでしょう? 兵士長にああも言ったんです。ねぇ、ユリアンナ?」
「はい、まぁ…心の準備はそれなりにしてきたつもりです」
「そうか、頼もしいな。時にユリアンナ、この後予定は?」
「予定…? いえ、ありません」
「なら良かった、じゃあ付き合ってくれ。教えたいことがある。訓練の時にでも良いが…、出来ればその前が良い」
「はい、もちろん。えーと…何をするんですか?」
「抜刀と、納刀の術だ。剣を選ぶときに思ったが、ユリアンナは武器の類を持ったことが無いんじゃないか?」
「…はい、生まれてこの方、一度も」
「ならばそれを教えるのが俺達の役目だ。特に抜刀と納刀は身近で簡単に見えるが、思ったより滑らかにはいかないものでな、一番初めに覚える事だ」
「そうなんですね。是非、ご教示お願いします!」
「意欲的で何よりだ。それじゃあ、少ししたら訓練場に行くか。スコーピア達はどうする?」
「私はユリアンナに教えることまとめるから部屋に戻るわ」
「僕は一緒に行きます」
「そうか、それじゃあよろしく頼む」
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朝の訓練場は、一つ記すとするなら"暑苦しい"と言ったところだろう。ここに居る兵士達は皆早朝から集まっている者が多い。意欲的で、自らの力を磨くことを快感とする勇士達だ。快活な声が所々で響き、剣と剣のぶつかり合う音はリズムを刻んでいる様で、ユリアンナの耳には心地良く響いた。
「よし、ユリアンナ。準備は良いか?」
「は、はい!」
ユリアンナは慣れない鎧に身を包み、視界の薄い兜から探り探りでサイウスの正面に立った。その様子を見てハールダンが心配そうに声をかける。
「あー…大丈夫ですかユリアンナ、ちゃんと見えてます?」
「いえ、あまり…! 皆さん、この視界であんな自在に動けるんですか?」
「ええ、まぁ慣れですよ。しばらく経てば状況把握もできる様になりますから」
「分かりました、頑張ります…!」
「さぁユリアンナ、始めよう。まずは試しだ、剣の柄を持て」
「はい!」
ユリアンナは言われた通りに右手で剣の柄を持つ。籠手越しの感触はやはり違和感が強く、しっかりと掴めているのかと不安も表れてしまう。左手に持つ盾の重さも、行動を少し阻害する。
「よし抜いてみろ。ユリアンナの自由で良い」
ユリアンナは肯定を示し、柄を引いて剣を抜こうと試みる。しかし途中で引っ掛かり、サイウスの言う通り滑らかにとはいかなかった。鞘がガタガタと動き、切っ先が引っ掛かり…、結局は三秒近くもかかってしまった。
「ど、どうですか…?」
「うん、概ね予想通りだな…まぁ素人なのだし、初めから巧くはいかない。ただ…妙に抜き方が派手だな?」
「あっ…直した方が良いですか?」
「いや構わない。結局作戦中は抜きっぱなしだ、重要なのはいかに素早く、滑らかに抜刀できるかだからな。さぁ、次は納刀だ。やってみろ」
「は、はい!」
ユリアンナは、続けて納刀を試みる。しかし、これも巧くいかない。大きく手間取ってしまった。
「これは…、難しいですね……」
「だろう。意外と難しいものなんだ、少しずつ上達していけば良い。そうだな、まずは……」
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そして数十分後、一通りの指導が終わったころ。
「抜刀!」
サイウスの合図と共に、ユリアンナは素早く剣を引き抜く。一息で抜くことができた、ぎこちないが成功と言えるだろう。
「納刀!」
続けてサイウスの合図が響いた。ユリアンナはすかさず剣を鞘に収める。こちらもまだまだ至らないが、何とか形にはなった様だ。
「よし、良いだろう。まだまだ荒くはあるが…、あとは慣れで何とかなる」
「ありがとうございました! …あの、そういえば訓練はいつ始まるんですか?」
「もうそろそろだ。鐘が鳴るからすぐに分かる。スコーピアもじきに来るだろう」
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城中に鐘の音が響いた。それを聞いた兵士達が続々と集まってくる。兜を着け、誰が誰なのかも非常に判別しにくい。そして、再び鐘が鳴った。二度目のそれを合図に、鎧姿の兵士長が兵士達の前へ立ち声を張り上げる。
「今回の訓練は走り込みから始め、投槍訓練、人形への打ち込み、術訓練、仕合、そして走り込みだ。新兵の入った第1小隊は教育にも留意するように。では始め!!」
兵士長の声を受け、兵士達は一斉に動き出した。軽い準備運動の後、次々に走り出す。
ユリアンナ達第1小隊 3班も準備運動を始めていた。
「さて、行きましょうか。ユリアンナ、準備は良いですか?」
「は、はい!」
「無理に追い付こうとしなくても良いわよ。戦いとは無縁だった人がいきなり鎧を着て満足に走れるわけがないもの」
「スコーピアの言う通りだ。まずは鎧に慣れるところから始めよう。さぁ、行くぞ!」
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「終了! 次、投槍準備!!」
兵士長の声が響く。ユリアンナは、息絶え絶えに立ち止まった。
「ぜぇ…ぜぇ…はぁ……」
「休憩して良いですよユリアンナ。 案外付いて来られて驚きましたけど、この後身体動きます?」
「だ、大丈夫です…動かします……!! っ、それより、投槍訓練って何ですか…?」
「投槍は、兵士のもう一つの武器だ。獣の軍勢を城壁にて迎え撃つ時に放つ、最初の攻撃だな。重くて、それなりの破壊力が期待できるぞ。…教官はスコーピアに任せた。一番巧いのはお前だ」
「はい班長殿、任されたわ」
「…え、手で投げるんですか?」
「ええ、それ以外に無いわ。射出装置は開発され始めているけど…、まだまだ実戦投入は叶わないわね。今の所は、手で投げた方が強力かな」
「サイウス! 訓練用の槍だ」
サイウスを呼ぶ声を聞いて、一行はそちらへ向く。第17小隊 1班所属、監視兵リーネバイドが大量の槍が積まれた台車を引いてユリアンナ達の元へやって来ていた。
「リーネバイドさん?」
「おはようユリアンナ。第6中隊は監視兵や斥候の集まり故に少し特殊でな。訓練の準備等は俺達が受け持っているんだ。さ、どうぞ」
ユリアンナは、リーネバイドから槍を受け取る。それは大きく、予想よりも遥かに重量のある大槍だった。受け取った瞬間、ユリアンナの身体が思いきり地面に引っ張られる。
「…っ! 重い…!?」
「大丈夫か?」
「…っ、はい…大丈夫です、リーネバイドさん。何とか持ち上げられはしますから…!」
「…そうか? くれぐれも怪我はするなよ」
「はい…! ありがとうございます!」
「ああ、じゃあ…教官役はスコーピアか、頼んだぞ」
「任せてリーネバイド。さぁユリアンナ、まずは構え方からよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「終了! 次、打ち込み準備!!」
再び兵士長の声が轟いた。ユリアンナは荒れた息を続けながら、手にした槍をごとりと落とす。
「ぜぇ……はっ…次は…?」
「人形への打ち込みです。しかし凄いですねユリアンナ。さっきの投槍、少しずつですが巧くなってましたよ」
「ほっ……本当ですか?」
「ええ。ユリアンナは教えられ上手ですね」
「本当ね、教えてるこっちもやりやすかったわ」
「サイウス! 人形だ」
再び、リーネバイドが人形を届けに来た。ユリアンナ達第1小隊 3班はそれを受け取り、地面に突き刺す。
「さて、ユリアンナ。いよいよ武器を手にした訓練だ。まずは、我々兵士の型を覚えてもらうんだが…、恐らく教えるのは俺じゃない。兵士長だ」
「……え、兵士長が?」
「ああ、あの方は世話焼きでな、新兵へ型を教えるときは直々に叩き込んでくれるぞ」
「気を付けてくださいねユリアンナ、あの人結構無茶苦茶な人ですから」
「聞こえているぞ、ハールダン。全く、もう出世したくないのは分かったから、少し慎みを覚えてはどうだい?」
いつの間にか傍に居た兵士長が、ハールダンの言葉を冗談混じりに諭した。
「うわっ、兵士長!? 居たんですか?」
「何だその化け物でも見たような反応は」
「似たようなものじゃないですか」
「そんな事は…ないよなサイウス班長?」
「…すみません兵士長。私も否定出来ません」
「何っ? …スコーピアはどうだ?」
「…ごめんなさい、私も…。というか私達以外にも大勢居るかと」
「……むう、慎みを覚えるのは私の方だったか? …まぁ良いだろう。ではユリアンナ、早速始めるが息は整ったか?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「よろしい。では、抜刀!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「よし、良いだろう。一日目にしてはそれなりに動けている方だな。…息は切れている様だが」
「ぜぇ…はぁ…ぜぇ……、だ、大丈夫です…! …まだ、動かせます…! あ、ありがとうございました!」
「大丈夫そうには見えないがな…、まぁ貴女がそう言うなら信じよう。ここまで来たら最後まで付いて来てくれ」
言い終わると、兵士長は大きく息を吸う。
「終了! 次、術訓練だ!! それじゃあサイウス班長、後を頼んだよ」
「はっ、お任せください」
兵士長はユリアンナ達に手を振って、訓練の指揮に戻っていった。サイウスはそれを見届けると、ユリアンナの方へ向き直った。
「…さて、ユリアンナ。一つ確認だが"術"は知っているか?」
「多少ですが分かります。使った事は無いですが…魔法のようなものですよね?」
「魔法…、そう見える事もあるのか? 違うものだが…まぁ、認識は重要ではないし問題は無いか。…さて術の教官はハールダン、頼むぞ」
「承りました、班長。班長とスコーピアのお二人が苦手な術、僕がしっかり教えますね」
「苦手は余計よ」
「でも事実じゃないですか」
「…だって殴った方が早いもの。ねぇサイウス?」
「間違いないな」
「典型的な力技人間ですね…。お二人らしいといえばらしいですが。それじゃ、始めましょうかユリアンナ。経験が皆無という事なので、まずはそこからですね。術を使ってみましょう」
「はい、よろしくお願いします!」
ハールダンは頷いて、ユリアンナに向き合った。
「まずは基本中の基本です、術での遠距離攻撃と、近距離攻撃を覚えましょう!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「終了! 次、仕合準備!! 適当に相手を見付けろ!」
兵士長の声が再び響いた。
「くっ…はぁ…はぁ…」
「よく出来ました! 良いですねユリアンナ。ちゃんと付いて来られてますよ!」
「…っ、はいっ! ありがとうございます…! ぜぇ…はぁ…」
「大丈夫ですかユリアンナ? …一度向こうで休憩しましょうか、そろそろ体力も──」
「いっ、いいえ…!! 大丈夫ですっ! まだ、動かせます…!」
「凄い根性ですね…、早くも尊敬しそうで──」
「ハァールダアァンッ!! 待ってたぜっ!!」
突如として聞こえたけたたましい声と共に、ユリアンナ達は振り返る。猛然と駆け寄ってきたそれは、雄たけびをあげながらハールダンへ斬りかかった。
「おわわっ!? …っ、マグナス!? 確かに予約はしましたけど、いきなり斬りかかってくるこたないでしょう! 乱暴ですね!?」
「へへっ、宣戦布告ってやつだ!! そらとっとと始めんぞっ!!」
「ああはいはい! じゃあ班長、僕ちょっと──」
「じゃあなハールダン、…幸運を祈る」
「死ぬんじゃないわよ、ハールダン…!」
「…二人が冗談を言うときはいつも大袈裟ですね…、じゃあ行ってきます。僕のこと忘れないでください」
ハールダンは、マグナスと共に去っていった。
「さてユリアンナ、こちらも仕合を始めるか。相手は俺が務めよう」
「は、はい! お願いします!」
「そこまで緊張するな。まずは動く相手を攻撃することに慣れることからだ。いくぞ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「終了! さぁ最後だ、走るぞ!!」
兵士長の合図で、皆武器を納め走り出した。息が切れ始めている者も多い。
「よしユリアンナ、上出来だ。じゃあこれで最後だ、走れるか?」
「ぜぇ…ぜぇ…はっ…はい……! 走ります…!」
「…本当に大丈夫か? よく付いて来られるものだな。体力的にも限界だろうに」
「ま、まだ動かせます…! 大丈夫です…っ!」
「ふっ、凄いな? なら最後まで付いて来い!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ぜぇ…はぁ…ぜぇ…はぁっ…っ!!」
ユリアンナは、走り続けていた。息も絶えきって、脚の感覚も乏しい。しかしそれでも走り続けていられるのは、"課題はこなす、期待には応える"という彼女の性質によるものだろうか。しかしそれは思考を支配し、彼女に"走り続ける"という指令以外をもたらす事は無かった。
「…ユリアンナ? おいユリアンナ! どうした!」
サイウスの声が、かすかに彼女の耳に届いた。
「…っ、はい、ごめんなさい…っ!! 」
(っ、駄目だ…ペース落ちてきたのかな…? もっと…っ、もっと速くしないと…!!)
ユリアンナはサイウスの言葉を叱咤と判断し、荒れきった足取りでさらに速度を上げようとする。それが決め手となった。
「ユリアンナ! "訓練は終わったぞ"、もう止まれ!!」
サイウスがもう一度呼ぶ、だがユリアンナの耳にその声は届かなった。脚の感覚は完全に無くなり、まるで宙に浮いているかのような錯覚に陥る。やがてそれは意識までも飲み込み始めた。少しずつ景色が白く遠のいていく、そしてユリアンナは自分の呼吸すら認識しなくなった。
そこまでが、記憶していた全てだった。
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「…っ!?」
ユリアンナが目覚めたとき、視界に飛び込んできたのは見覚えのない天井だった。白い寝台の上に寝かされているようだ。ユリアンナは現在の状況を理解した。「自分は訓練の最中倒れ、どこかに搬送されてしまった」のだと。ユリアンナは焦燥感に駆られ、一気に立ち上がった。しかし急激に視界が歪み、寝台の上に座り込んでしまう。
「どこへ行くつもりですか?」
すぐ近くから声が聞こえた。ユリアンナがそちらへ向くと、白衣姿の彼女は安心させるように微笑みかけた。
「…班長達の所へ戻らないと……、私、訓練の途中で倒れて…」
ユリアンナは声を出したが、掠れて思うように話せない。しかし彼女はそれを的確に聞き取り返答する。
「訓練なら、貴方が倒れた時には既に終わっていましたよ」
「え…?」
彼女はユリアンナの疑問に答える前に、小さな鐘を鳴らして部下らしき男性を呼びつける。
「お呼びっすか、隊長?」
「ええジュリアム。ユリアンナさんが目を覚ましたの。第1小隊の3班と…兵士長を呼んできてちょうだい」
「分かりました」
妙に軽い言動の彼はすぐに退室する。それを見届けると、隊長と呼ばれた彼女はユリアンナの方へ向き直る。
「…さて、私は救護隊の隊長を務めています、メディーナと申します。貴女は訓練が終わった後倒れて、この救護室に搬送されました」
救護隊 隊長、メディーナ。亜麻色の髪は麗しく、檸檬色の瞳はユリアンナを優しく、しかしどこか呆れた様子で見つめた。彼女は人の命を救う事に強く執着している。時には遠征にも同行し、死傷者を限りなく減らせるよう努めている。それ故に怪我人には厳しく、退屈な療養生活を強要するため一部の肉体派からは恐れられているらしい。その肉体派達を押さえつけられる膂力を備えているのも理由の一つだろう。
「訓練…終わっていたんですか?」
「はい、貴女は極度の疲労で感覚機能が停止していたため、訓練が終わったと気が付かずに走り続けました。結果、力尽き倒れたということです」
「じゃあ…訓練はやり遂げられたんですね……」
「いいえ、いいえ。そうではありません」
メディーナは言い聞かせるように語調を強くする。
「貴女は、死にかけたんですよ。自覚はしていないみたいですが、非常に危険な状態でした。確かに限界を越える事も訓練には必要かもしれません、ですが貴女は度が過ぎています。…貴女には明日から3日ほどここで休んでいただきます。今のままでは歩くこともままなりません」
「えっ…それじゃあ…!」
「その間訓練には絶対に参加させませんよ。貴女は1日無理をし過ぎたために、3日分の恩恵を受けられなくなってしまいました。私はそれを"やり遂げられた"とは思えませんね」
「…ごめんなさい…私、迷惑を……」
「迷惑なものですか、むしろ感謝しています。この事例は多いものではないですからね。…ですが、もう二度とこのような事はないように。自分の体調は自分で管理できるようになりなさい」
「…はい」
目線を伏せ萎縮したユリアンナに、メディーナは続けて励ますように言葉を繋げた。
「…とは言ったものの、今回の件は貴女が悪いわけではありません。前にも同じ事例があったことを把握しておきながら、きちんと対策を立てていなかった私も褒められたものではありませんし、最も悪いのは──…」
「無事かユリアンナ!?」
メディーナの言葉を遮りサイウスが飛び込んで来た。スコーピア、ハールダン、そして兵士長も一緒らしい。メディーナは彼等を見ると閃光のように詰め寄り、押し返す。
「貴方方です! 第1小隊 3班、兵士長も!!」
「うおっ!? な、何だ!?」
「まず土足は厳禁と言っているでしょう!! 動揺しているのは分かりますが、さぁ一度出ていってこの部屋に入るのに相応しい姿になりなさい!! 洗浄も抜かりなく!」
「…す、すまんメディーナ。分かった、すぐ戻る!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メディーナはサイウス達四人を椅子に座らせ、誰がどの視点から見ても説教を始める準備を整えた。
「…さて、第1小隊 3班の皆さん、そして兵士長。私の言いたいことは一つです、もう二度とこんな事は起こさないでください。どうせ「今回の新兵は根性があるなぁ」などと思っていたんでしょうが、過労で倒れるほど無理をすることは根性ではありません。少し大げさですが、自覚の無い自殺願望に近いですよ。そして、それを止めるのが貴方方教官の役目だったのです。…まず人を殺しかけたのを自覚しなさい」
「…ああ、そうだ、言う通りだね。…これは兵士長たる私の落ち度だ、ユリアンナ、本当に済まなかった」
「あ、あの…でも私が無謀なことをしてこうなったんです。兵士長さんがそこまで気に病むことでは──…」
「ユリアンナさん、此所は個人主義の砂漠の国や傭兵の国ではありませんよ。いいですか、兵士長が指揮する訓練の中で、新兵が過労で倒れるなどとはあってはならない事なんです。兵士長の…いえ、この国の信用に関わるかもしれません。これはあなたが思うよりも大事ですよ、大事も大事です」
「…すみません……」
「謝るのも私達です。訓練の環境が整えられていなかった訳ですからね、非は私達にありますよ。それに、意欲的な新兵が疲労状態の中で正しい判断など出来るものですか。…まずサイウス班長と兵士長はもう一度、部下を見る目を養ってください。それと、次回からしばらく私達救護隊も訓練の様子を見させてもらいますよ。人間の丈夫さを過信して、現場に一人も救護隊が居なかったのは重大な欠陥でしたね。ユリアンナさんの様子を見るにまた同じ事が起こりそうですし」
「……ごめんなさい」
「…だから貴女の性質を責めている訳ではありませんよユリアンナさん。寧ろ、褒めるべき性質かと思います。それを生かす為に、貴女を止めなければならないんですよ、貴女が死なないように。では分かりましたね兵士長?」
「……ああ、心得たよメディーナ。早速訓練のあり方を考え直さねばな。…ユリアンナ、あとで賞与を送るよ、この度は本当に済まなかった。お大事に」
兵士長はユリアンナに深々と丁寧に頭を下げ、救護室の扉に手をかける。
「ああ待って、私も行きます兵士長。貴女が普段どのように訓練を指揮していたかも訊いておきたいから。ジュリアム!」
「はいはい隊長、ご用っすか?」
「ちょっと留守にするから後をお願い。兵士長の部屋に居るから何かあったら呼んでちょうだい」
「分かりました」
メディーナは兵士長と共に救護室を退室した。
「…その、ごめんなさいユリアンナ。僕も気付けなくて…つまり、ユリアンナが無理をしているってことに」
「ええ私も…まさかこんな事になるなんて……本当にごめんなさい」
「…済まなかった」
サイウス達は次々と謝罪の言葉を連ねた。
「っ、そんな、謝られる事なんて無いですよ…。訓練初日に自業自得で倒れて、その後三日間も訓練に参加出来ないなんて不甲斐ないにも程があります。…もっと頑張らないと」
「あのーユリアンナさん? さっき隊長から言われてたこと聴いてました? 言っちまえば頑張るなって事なんすけど。三日後の事は出来るだけ考えない方が良いと思いますよ」
「う……ごめんなさい…」
「まぁ、今日一日あれだけ頑張ったんだから、三日程度休んでも釣りが来るわよ」
「…そうだと、良いんですが」
「きっとそうだ。だからしっかり休んでくれ」
「……はい」
ユリアンナの胸中は、罪悪感と焦燥感で溢れていた。実際、戦いとは無縁の暮らしをしてきたユリアンナにとって兵士の訓練は過酷すぎた、この出来事は必然と言えただろう。しかし当人にとってはあり得ぬことだ。今まで課題を完遂できなかったことはほとんどなかった、それだって継続的に疲労が溜まったことによるもので、今回のようにたった一日で限界を迎えるなど初めての体験だ。ユリアンナはどうしても、この三日を天井を眺めながら過ごすつもりはなかった。
「…あの、ジュリアムさん。体を動かさない勉強とかは許してくれませんか?」
「ハァ? ユリアンナさんあんたあんな目遭っといてまだそんなこと言うんすか?」
「その…死にかけたなんて実感もありませんし」
「…なんだか、どういう育ち方をしたらそうなるのか興味が湧いてきましたよ俺。あっいや、嫌味が言いたかったわけではなくて。…んーまぁ、誰かから習うとかなら良いっすよ、勿論「一日中浸かります」ってんなら看過しませんけど。あとあんたの場合自習もまだ駄目です」
「ありがとうございます。…あの、スコーピアさん。済みませんが頼みがあるんですけど…」
「はいはい、そう来ると思ってたわ。文字の勉強をここでしたいのね? 任せなさい」
「…ありがとうございます!」
「あれっ、ユリアンナさんて文字読めなかったんすか? 意外です」
「ええ、彼女の故郷は言語圏が違うらしいのよ」
「…なんで会話できるんすか?」
「さぁ? その辺りは謎だけど…まぁ良いんじゃないかしら。そういうこともあるでしょう」
「雑なもんですね…。まあいいや、文字を教えるなら救護隊もお付き合いしますよ、俺達そういう機会も多いんで」
「あらそう? じゃあお願いするわ」
「ああでも、今日はもう駄目ですよ。もう夜遅いんで」
「えっ!? そうなんですか……?」
「ええ、太陽なんてもう落ちきってますよ。気付いてないでしょうが、ユリアンナさん半日は意識不明だったんすよ?」
「そんなに……」
「だから俺達も心配していたんだ。ユリアンナが無事で良かったよ」
「…ありがとうございます、班長」
「まぁ、一番心配していたのはハールダンだがな、そうだろう?」
「ええ、久し振りに笑顔でご飯を食べられませんでしたよ。…無事で本当に良かったですユリアンナ」
「ほんとよね、ハールダン最期の晩餐かってくらい神妙な顔して食べてたのよ? もうこっちが心配しちゃうくらい」
「えっ…本当ですか?」
「ええ本当ですユリアンナ。だって配属初日の訓練で死んでしまうなんてあんまりじゃないですか。…死ななかったからまだ良かったものの、それを僕達が止められる筈だったのだからどれだけ罪悪感を抱いたか……。…もう一度言わせてください、本当に済みませんでした!」
「……ありがとうございます、ハールダンさん」
「ユリアンナ! 目が覚めたんだな!?」
けたたましい声と共に、今度はリーネバイドが救護室に飛び込んできた。ジュリアムはそれを急いで押さえ付ける。
「はいはい! 土足厳禁っすよリーネバイドさん、戻った戻った!」
「ぬおっ!? す、すまない、すぐ戻る!」
リーネバイドは踵を返し、救護室を出ていった。第1小隊 3班はしばらく呆気に取られていたが、やがてハールダンをきっかけに笑いが巻き起こる。
「ふっ、あははっ! いったいどれだけユリアンナの事を気に入っているんですかあの人は!」
《おいっ、笑うなハールダン!!》
「えっ聞こえてました!? 耳が良い…というか声大きいですね!?」
《監視兵たるもの当然だ!!》
それを聞いたジュリアムが、救護室の扉を開けて声を張り上げる。
「それは分かりましたけど此所じゃ静かにしてもらって良いすかー?」
《む、すまない!!》
救護室の中で再び笑いが巻き起こった。
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「……じゃ、消灯時間なんで、ちゃんと寝てくださいねユリアンナさん。…あー、日記書きます?」
「あ…そうですね、書いておきたいです」
「なら終わるまで待ちますよ。次からはもうちょっと早めに書いておいてくださいね」
「分かりました、ありがとうございます」
夜も更け、救護室はユリアンナと救護隊員ジュリアムの二人だけになってしまった。十分に広い救護室だが、現在収容されているのはユリアンナが一人だけで、なんとも寂しい雰囲気だ。
ユリアンナは、スコーピアが届けてくれた日記帳にすらすらと書き記していく。それを見て、ジュリアムは首をかしげた。
「…そういえば、今書いてる文字は何語なんですか?」
「"日本語"といいます。私の故郷、"日本"で広く使われている言葉です」
「"ニホン"…聞いたことがない国っすね……。どこにある国なんすか?」
「それは…分かりませんが、でもとても遠いところなのは確かです。気が遠くなるくらいに」
「へぇ…ユリアンナさんは行き倒れって言ってましたけど、なんだか空から落ちて来たんじゃないかってくらい不思議な人なんすね」
「…そうですね……、それも間違いではないと思います。……ん?」
ユリアンナは、窓を叩く音に注意を逸らされた。ユリアンナがそれを見る前に、ジュリアムが目を丸くする。
「ファサードさん!? ヴェントリッサさんも…! ちょっと、面会ならもう締め切ってるんすけど!」
窓の奥から、ファサードのくぐもった声が聞こえる。
《悪いなジュリアム、ついさっき思い立ったんだよね。ユリアンナ、ちょっと見な》
ユリアンナがファサード達の方へ見ると、ファサードはヴェントリッサではない、もう一頭の馬を窓の前へ寄せた。
「…テオドール……!」
《訓練が終わった辺りから様子がおかしくてさ。 もしかするとユリアンナの異変に気が付いているんじゃねえかと思って連れて来た。俺達が心配だったてのもあるけどね》
テオドールは真っ直ぐユリアンナを見つめた。どこか、安心しているようにも見えた。
「……ジュリアムさん、窓開けられませんか?」
「あー…すみません、駄目っす」
「…そうですか……。…テオドール、心配してくれたの?」
ユリアンナはテオドールに話しかけるが、掠れた声では窓の奥の彼に届くとは思えない。しかし、言葉は聞こえなくとも、テオドールには幾分か伝わったらしい。テオドールは肯定するかのように頷いた。
「…ありがとう。それと、ごめんなさい。一緒に訓練も出来ないままこんな事になっちゃって…」
テオドールは、首を横に振る。
「…うん、そう…だよね、ごめんね。きっと、万全な状態で復帰するから、その時はまた…一緒に走ってくれる?」
テオドールはゆっくりと頷いた。ユリアンナを励ますように。
「……ありがとう」
テオドールはその言葉を聞くと、別れを告げるように嘶き、窓から離れた。恐らくユリアンナと同じ気持ちだったのだろう。これ以上言葉を交わす必要は無い、語るべきはすべて語ったのだと。
《…ん、終わったか?》
「はい、ありがとうございました、ファサードさん」
《おう、窓越しじゃなに言ってるのか分かんねえけど礼言われてんのは分かるよ、どういたしまして。お大事にな!》
「…次からは、日が高いうちに来てくださいよ」
《ははっ、ごめんなジュリアム! それじゃな!》
ファサードは、笑顔で手を振ってテオドール達と共に去っていった。
「全くお騒がせな人達っすね……」
「…でも、日記に書く事が増えました」
──兵士になってから、一日目。幸先の良い始まりとはお世辞にも記せない。どこか甘く見ていた部分もあったのかもしれない。でもこれは空想じゃない、現実なんだと、それを自覚させられた一日だった。訓練は過酷だ、戦いを知らない自分には到底付いていけるものではなかったんだ。でも、付いていかないと駄目だ。そうじゃないと、本当の兵士になんてなれない。少しずつでも力を付けられれば、一歩でも踏み出せれば必ず辿り着くことは出来るはず。今までだってそうやって課題をこなしてきたんだ。世界が違ったって、きっと出来るはず。頑張ろう。
誰かを守って、そして生き残る。その景色を、私は見たいから。