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第8話

  神奈川県立塗李高等学校教員 養護教諭 熊川武実


  「最近の高校生は、私たちが思っている以上に、大人なの」

 沢井美加は悔しかった。自分の想いが生徒たちと重っていなかったことが、彼女には悔しくてならなかった。

 それでも、彼女は彼女なりに彼らを理解しようと努めた。そのためには、専門家の言葉を聞くことが必要だと思った。納得のできる医学的な根拠がありさえすれば、部室に何が置かれていようと構わないではないか。

 こういう時でなくとも、彼女が校内で最も信頼を置いていたのは、養護教諭の熊川武実(くまかわたけみ)だった。彼女は、熊川こそが自分を正しい道へと導いてくれるただ一人の人間、だと信じていた。彼女は保健室のドアをノックすると、返事を待たずに音を立てて扉を開けた。

 仕切りの奥から、保険医の熊川武実が出てきた。熊川は沢井よりも十以上年長の、恰幅のいい女だった。その容姿は、見ただけで問題の半分以上は解決したのではないかと、いつの場合も彼女にそう思わせてくれる種類のものだった。あらあらそんなに血相変えてどうしたっての沢井せんせ、という熊川に、彼女はとりあえずの安心を貰って、すすめられた椅子に座らせてもらった。

 熊川は、また何かあったのかしら、と苦笑する思いで沢井美加を見た。沢井は天性の爛漫さをもったかわいらしい女だが、おっちょこちょいなのが玉に瑕だ。そして問題が発生すると、性急に結論を求めたがる癖がある。それは教師としては欠点でもあり、やさしく言えば、彼女の美点でもあった。

 沢井美加のそんな特質を熟知していた熊川は、沢井の精神をひとまず安定させるために、何も聞く前から「大丈夫ですよ」と言った。すると沢井は、縋るような目つきになって、

「今回は大丈夫じゃないんです、先生、部室に、部室に大量の……」

 と零れるように不安を吐き出した。しかし、

「大量の?」

 と熊川が先を促すと、沢井は途端に頬を染めて口を噤んでしまった。これは長丁場になるわ、と判断した熊川は、沢井が話せるようになるまで、ゆっくりと時間をかけることにした。


「何を言ってるの、それは健康な証拠ですよ」

 全ての説明を十五分かけて聞き終えた熊川は、十代の男子に訪れる性衝動の表れとしては決して異常なことではないということを、努めて楽観を装って言った。それでも沢井は、今回ばかりは納得することができなかった。

「だからって大量過ぎます! 一トンくらいあったんですよ!」

「だけど先生、一トンくらい、九人で使えばすぐですよ」

「すぐですって!」

 沢井美加は語気を強めた。「一人あたり百キロ以上が、すぐですって!」

「ですから、すぐというのは言い過ぎましたが、最近の高校生は大人なんですよ……」

 沢井はどうしても納得ができなかった。なんとかあの光景の異常さを熊川にわかってもらいたかった。その時、ドアがノックされる音が聞こえた。熊川が返事をすると、そろそろとドアが開かれた。扉の向こうにいたのは、キャプテンの桜田翔平と、副キャプテンの堀啓介(ほりけいすけ)だった。


「何しにきたの」

 沢井の冷たさに、翔平は怯んだ。なんとか、部員全員で決めた言い訳を、この心を閉ざした英語教師に投げかけなければならない。彼は勇気を奮い起こし、「部室にあった薬品のことですが……」と静かに話し始めた。

「薬品? あれが薬品ですって!」

 沢井がすぐに反応した。しかしここで負けてはいられない。翔平は頑張った。

「そうです、薬品です。あの薬品のことは、今日のミーティングで先生に相談しようと思っていたことなんです」

 一年生の木戸発案の、ローションの便宜上の使い道を翔平は話し始めた。

「あれは、ボディーマッサージをするための薬品なんです。強豪校では高価なアロマオイルなどが使われているようですが、我々県立高校の野球部ではそこまでのお金がありません。そこであの薬品というわけです」

 その説明で、俄に沢井や熊川の表情が変わったような気がした。しかし、沢井はそれだけでは納得しなかった。

「スポーツ選手にとってトレーニング後の筋肉疲労に対する入念なケアが重要だってことくらい、私だって承知しているわ。あなたたちに感化されて、野球部のために何かできないかと勉強しましたからね。でもそれにしたって、あの量は多過ぎると思うの。その説明をしてくださるかしら」

 翔平たちは、これに対する答えを用意していなかった。どうしよう、たしかにあの量はたかだかボディーマッサージぐらいのことで消費できるようなものではない、こうなったらローションベースボールのことを打ち明けるか、しかしここには熊川先生もいる、機密というものはそういう解れから広がっていくのだ。

 するとその心配をよそに、堀が自信をもった様子で話の続きを引き受けた。

「もちろん、全てをマッサージに使うつもりはありません」

「それなら、それなら何に使うっていうのよ!」

 沢井はそう言って、恐れるように堀の答えを待った。すると堀は、「寄付です」と臆面もなく言ってのけた。それは誇りに満ち溢れた、彼の演説の始まりの合図でもあった。

「今、世界からは発展途上国という存在がなくなりつつあります。アフリカ大陸には東京やニューヨークと肩を並べるほどの経済都市が十四も存在していますし、有史以来人類を支えてきた農業は一時期の衰退を乗り越え、今ではIT業界をも凌ぐほどの産業に復活しました。民族紛争による内戦はこの数十年起きていませんし、テロ組織のゲリラ活動や核保有国による国家間の緊張というものもだいぶ薄れてきています。要するに、かつてそれらの皺寄せを受けて食べ物に困っていた人々が、この世界から絶滅しかけているんです」

「それがなんなのよ、いいことじゃない」

 沢井が言った。熊川はにこやかな微笑を浮かべて堀の演説に耳を傾けている。

「もちろんそうです。しかし、スポーツにおいてはどうでしょうか。ヨーロッパやアメリカ、アジアの一部の国々は早くから近代文明の恩恵を受け、スポーツという方法で余暇を楽しむ術を手に入れましたが、まだまだ世界には、そこまでスポーツが文化として浸透しておらず、試行錯誤を繰り返している地域が数多くありそうです。たとえスポーツが流行していたとしても、近代的な設備や正しいトレーニング方法、体のケアなどに対する重要性を軽視している国々がたくさんあると、僕たちは考えます。そこで、豊かな時代を先駆けることができた我々日本人が、彼らにしてあげられることはなんでしょうか。プロスポーツチームには、そういった地域の人々に近代設備や最新の道具、人材を提供している所もありますが、それはプロの話で、高校生がやるようなことではないと先生は仰るかもしれません。しかし、実際はプロだけでなく、大学や高校ですら、これは有名な私立の学校に限っての話ですが、そういったことを既にやっている所があるんです。兵庫県の強豪である播磨灘(はりまなだ)高校などは、そういった国々に対して、毎年高価な加圧式トレーニングの器機を贈与しています。たしかに、野球で負けたくはありません。もし、今、僕たちが他のことは何も考えずに白球だけを追っていたならば、たとえ相手が優勝候補の播磨灘高校と言えど、ひょっとしたら、万が一にでも、彼らを野球というスポーツで打ち倒すことができるかもしれない。しかし、人間としてはどうでしょうか。僕たちは、戦う前から、彼らに敗北していることにはならないでしょうか」

 堀の口調は、最後まで些かも揺るがなかった。そして沢井はといえば、既に途中から、その眼に涙を溢れさせていた。

「それで、それであなたたちは……」

「九名という少ない部員の小遣いを集めただけでは、高価なトレーニング器機や、新品のバットやグラブなどを送ることはできません。マッサージ用のオイルなども、やはり充分な量は購入できませんでした。そこであの薬品です。正しい使い方をすれば、少しの量でも事足ります。あれなら、多くの人々に僕たちの想いを伝えることができるでしょう。できれば、野球というスポーツにこだわらず、スポーツに美しい汗を流す、人種を越えた純粋なスポーツマンたちの手に渡ればいいと、僕たちは考えています」

 翔平があっけにとられていると、沢井が、今にも泣きだしそうな声で、言った。

「もしそのお金を、自分たちのためだけに使っていれば、高価なアロマオイルを買うこともできたでしょうに……」

 沢井が、飛びつくようにして堀に抱きついた。疑ってごめんなさい、疑ってごめんなさいと、むせび泣くようにして許しを乞うている。そんな彼女の背中にそっと手を置いて、熊川武実は言うのだった。

「最近の高校生は、私たちが思っている以上に、大人なの」


 このような経緯で、沢井の問題はひとまず解決した。もちろん、これは言うまでもないことではあるが、堀啓介はその夜、沢井美加の髪の匂いを思いだし、別の意味で美しい汗を流している。

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