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第7話

  松山スポーツクリニック 院長 戸部太郎


  「君はもう、野球をやれない体なんだ」

 沢井美加が顔を真っ赤にして部室を飛び出したその時刻、後に本大会で塗李高校と対戦することになる、愛媛県立松山西東(まつやまにしひがし)高校のエース、宮内志郎(みやうちしろう)は、ちょうどかかりつけの病院から出てくるところだった。宮内は、数分前の、渋い表情をしながら彼の左腕の状況を説明する主治医の言葉を思いだしていた。

「宮内君。君の気持ちを慮ると、これは非常に言い難いことではあるが、君の左腕はぼろぼろだ。肩も肘も手首も指も、全てが再起不能状態なのだ。君はもうずっと前から、野球などはできない体になっていたんだよ」

 頭が真っ白になった。再起不能だと? 野球ができないだと? 野球は俺の生き甲斐だ。チームメイトは今でも俺の宝だ。その俺から、全てを奪おうというのか!

 宮内は茫然として県道を歩いた。まるで酩酊しているかのように前後不覚となり、彼は何度も、車に轢かれそうになった。どうせなら、と彼は思った。野球のできない人生なら、車に轢かれて死んだ方がましだ!

 中学時代から、十年に一人の逸材と言われてきた。マスコミにちやほやされ、彼はその黄金の左腕で何度もチームメイトに優勝の喜びを味わわせてきた。西東工に入学してからも、すぐにエースの座を勝ちとり、二年連続でチームを甲子園に導いた。先輩からも感謝された。後輩からは羨望の眼差しを一身に集めた。プロのスカウトの名刺も十二枚貰っていた。その彼が、今日、最後の言葉を聞いたのだ。

「君はもう、野球をやれない体なんだ」


 彼が最初に自分の体の異変に気がついたのは、この夏の甲子園大会でのことだった。二回戦の試合開始後まもなく、左腕が異常に熱を帯び始めた。違和感などというレベルではなかった。監督に報告しようと思った。しかし、ベンチやスタンドで声を出している試合に出れなかった三年生たちを見ていると、もう少し様子を見てみよう、と彼は思い直した。二対一で迎えた八回裏、あれだけ熱かった左腕が、急に冷え始めた。限界だと思い、内野を守る先輩たちにそのことを相談しようと思った。しかし、彼らの瞳を見たら、とても言えなくなった。彼らは、目前に迫る勝利の喜びが待ちきれないといった、きらきらとした無垢の輝きをその瞳に宿らせていた。スタンドの、わざわざ地元から応援に駆けつけた人々を見ると、もっと言えなくなった。

 なんとか試合を勝利で終えたが、彼はそれどころではなかった。しかし、宿舎に向かうバスの中でのチームメイトたちのはしゃぎっぷりを見ていると、この期に及んで尚、彼は左腕のことを告白できなかった。次に対戦するのは兵庫の播磨灘高校だ。高校野球界随一の最先端野球を誇る播磨灘高校を相手に、西東工の二番手ピッチャーでは歯が立つはずもなかった。

 食事の時、彼は箸を持つこともできなかった。しかしそれもなんとかごまかし、彼は左腕の症状を隠し続けた。就寝時間を迎える頃、彼の左腕は再び熱をもち始めた。肩から肘から手首から指へと、痛みが少しずつ伝染していった。結局彼は、一睡もできずに翌日の朝を迎えた。

 三回戦は結局、一三対四という大差で敗れた。チームの敗戦に三年生は涙を流したが、彼はそれどころではなかった。彼は左腕を庇いつつ、脂汗と共に地元に凱旋した。

 それでも、彼はそのことを誰にも言わなかった。それを口にした瞬間に、残酷な暗闇に吹き飛ばされる予感がして、それを恐れて、病院にいくこともしなかった。監督にノースロー調整をとり入れたいと言って、下半身を強化しながら左腕のことをごまかし続けた。そして秋の大会、一回戦敗退。戦犯扱いされ、彼はエースの座から降ろされた。それをきっかけに、彼はようやく通院を始めた。そして三回目の通院日の今日、彼は遂に、最後通告を受けたわけだ。


 彼は、死のう、と考えていた。それくらい、野球は彼にとって全てだった。ふらふらと道を歩き、宛もなく街を彷徨った。

 しばらく歩いた時だった。彼はふと、背後に何者かの気配を感じた。宮内は振り向いた。するとそこに、監督がいた。監督の森石(もりいし)が、なぜかそこにいたのだ。

「監督……こんなところで何をなさっているんですか、練習はどうしたんですか」

 宮内が声をかける。すると森石は少し俯き加減に、彼と目を合わせるのに脅えているような表情をして、言った。

「宮内、お前、その左腕……」

 それは責任を感じているような口調だった。宮内は小さな声でこれに応えた。

「左腕? 僕の左腕が、どうかしましたか?」

「先生から、聞いたよ……」

 宮内はため息を吐いた。

「なんだあの先生、もう喋っちまったんですね。そうです、僕はもう、野球のやれない体になってしまったんです」

 宮内はその顔に、笑みさえ浮かべていた。「野球は今日限りおしまいですよ、今までありがとうございました」

 すると森石が、呟くように言った。

「すまん……」

 宮内はため息を繰り返した。

「監督が何を謝ることがあるんです? 悪いのは僕です。最初に異変を感じた時に、僕は投げるのをやめるべきだった……」

「わかってたんだ」

「え?」

「夏の大会の二回戦だろう? わかってたんだよ、俺はお前の異変に気がついていた……だのに、俺はお前の将来を考えてやれず、あのまま投げさせたんだ……」

 それは宮内にとっても少し驚きの事実だった。しかし、今更詮無いことだ。いいんですよ、僕のことはもう忘れてください。彼はそう言って、再び歩き始めた。

 すると森石が、「宮内」と小さく叫んだ。そして彼は宮内に歩み寄ると、シンプルなデザインの名刺を財布から取り出した。

「もしお前にその気があるんなら、ここに連絡してみるのもいいかもしれん。俺の同級生がやってるんだ」

 その名刺を宮内に渡すと、森石は罪悪感に塗れた顔をしながら、踵を返して宮内の視界から消えていった。宮内は名刺を見た。それには、藤岡猛(ふじおかたけし)鍼灸院、と記されていた。

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