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第6話

  神奈川県立塗李高等学校教員 野球部部長 沢井美加


  「あなたたち、恥ずかしくないのッ」

 塗李ナインの、反則投球隠匿作戦の実戦訓練が始まった。部員たちはそれぞれ、自分の役割を完璧にこなせるよう、反復練習ならぬ反則練習に励んだ。

 ローションピッチの優れた点は、投げても液体が飛び散らないということだ。水だと、ハイドロプレーニング現象が起こるほどの液体の厚さを確保できないし、投球の際に生ずる回転によって水分が飛び散り、主審や相手打者に怪しい細工を感づかれてしまうという危険性がある。しかし、ローションは違う。ぬめっているから、投球後もボールにしっかりと付着したままなのだ。そして本領はファウルになった場合に発揮される。ただでさえハイドロプレーニング現象で激しい衝突をしているというのに、更に擦るような強い衝撃を受ければ、尋常ではない回転エネルギーがボールに与えられるのは必至だ。そこまでいけば、ローションはボールから完全に取り除かれる。そうすれば、スタンドにボールが飛び込んでも観客たちに不審に思われない、という寸法なのだ。

 しかし、打球がグラウンダーだった場合が問題だった。土や芝が必要以上に付着すれば、ボールのとり替えを主審や塁審などに指示される恐れがある。その時に、全ての秘密が洩れてしまっては一大事だ。そのため、彼らはゴロを処理する度に、迅速且つ完全にローションを拭き取ってから、送球をしなければならなかった。

「相手のバットに付いてしまった分はどうするんだ?」

 という問題もあった。これはキャッチャーの堀が担当することになった。打者は打ったあとにバットを放り投げる。堀が考えているのは、その隙にさりげなく布巾でそのバットから液体を拭き取るという方法だった。もしその行為を不審に思われた時は、これは対戦相手に対する最低限の敬意です、とでも言えば問題ないだろう。

 翔平は翔平で、彼なりの仕事があった。チームの使う全ローションは、投球時に彼がボールに付着させるのだが、その時が最も危険な時であり、そしてそれが、最も難しい作業だった。彼は平たいプラスチックのタンクを背中に背負い、そこから直径六ミリのゴム管を左腕に伝わせた。それは長袖のアンダーシャツの袖口から、グラブの中央にあけられた小さな穴に続いていた。簡易のポンプ式で、彼が小さな金具を操作すると、適量のローションがグラブの穴から出てくる。グラブの中で、直接ボールにローションをつけることができるという仕組みだった。

 これらの練習を行う際に塗李ナインが恐れたのは、練習内容の漏洩だった。翔平はナインに箝口令を敷き、鉄のカーテンで練習の見学希望者を拒んだ。この地獄の特訓は早朝から一時限目が始まる直前まで、そして放課になった瞬間から深夜の一時まで、連日行われた。ボールをキャッチしたあと即座に布巾で液体を拭き取り間髪入れずに一塁へ送球する自分を、授業中に夢に見る者さえいる始末だった。そして、これだけの特訓にも、誰一人として不平を洩らす者はいなかった。むしろ彼らは自主的だった。それは彼らが、翔平の投球に、きらびやかな栄光を感じとっていたからかもしれなかった。

 それは木曜日恒例の、ミーティングの時間前のことだった。部員九名全員が、授業が終わるとすぐに、部室に向かった。最初に部室に着いたのは、一年生の猿渡だった。

 猿渡は、部室の扉を開け放したまま、そこに立ち竦んでいた。あとから到着した部員はその様子を怪訝に思い、妙な顔つきをしている猿渡に近づいていった。翔平が部室の前に着いたのは一番最後だった。彼は、「どうしたんだ?」と言って、皆の肩越しに部室の中を覗いた。中にいたのは、部長の沢井美加だった。

 彼女の後ろ姿は、全てを物語っていた。部室に大量に運び込まれた薄透明のローションの数々を見て、それがなんなのかに感づいているのは明白だった。塗李ナインは、誰もが、言葉を失っていた。

 後方に部員たちが集まっていることに、沢井美加は気づいていた。一つのローションを手にし、彼女はおもむろに振り返った。そして、激情をなんとか抑えているといった様子で、彼女は小さく、こう呟いた。

「これは何?」

 その質問には、誰もが口を噤んだ。僕たちの近代野球を具現する科学の結晶です、とは、言えるはずもなかった。するとここで、サードを守る二年生部員、高原利久(たかはらとしひさ)が、戯けた様子で一歩前に出た。

「へへ、俺たちもたまには、息抜きしないとね!」

 すると沢井は、顔を真っ赤にして、わなわなと震えながらもなんとか声を絞り出した。

「真面目に練習していると思っていたのに……」

 しばらく間を置いて、続ける。

「監督もいない野球部なのに、自主的に練習に取り組むあなたたちを誇りに思っていたのに……いくら、いくらそういう年頃だからって……」

 彼女はそこで、きっとナインを睨んだ。

「あなたたち、恥ずかしくないのッ」

 すると沢井は扉に向かって駆けだし、部員たちを突っぱねて飛び出していってしまった。ナインは、しばらく茫然としていた。その中で、最初に口を開いたのは木戸(きど)だった。

「なんとか沢井先生にうまい説明をしないといけません。でないと、ローション代の領収証が、ただの紙切れになってしまいます」

 翔平は、今までにない窮地に立たされた。

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