第53話
兵庫県宝塚市在住 高校野球ファン歴五十年 松島光一
「ゆけ! 兵頭! どんとゆけ!」
桜田翔平は深呼吸を一つ、腰のあたりに隠した金具を右手でさりげなく引き絞った。それをすればグラブから適量のローションが飛び出す、はずであったからだ。しかしグラブはぷしゅうという手応えのない音を発しただけで、ボールは、ぬるぬるにならなかった。
しかし彼はそのことに、少しも悲嘆しなかった。ローションを失って初めて、彼はローションベースボールの真髄に到達したのかもしれない。ぬるぬるは人類を世界平和へと導く、形而上的な解釈においての、一つの快楽の具現だった。そしてそれは無力な少年にもできる、一つの確かな手段に過ぎなかった。それは彼だけでなく、全ての塗李選手の総意でもあっただろう。彼らはこの時になって遂に、潔白なる高校球児、いいやそれ以上の、一個の崇高な人間へと花開いたのだ。
酷暑と体力の消耗に朦朧となりながら、彼はこの大会、最後の投球モーションに入った。そして彼がその最後のボールを投じた時だった。あらゆる人間の思いが、そのボールに乗り移った。その思いとは、どちらの味方とも言えるものではなかった。それは曖昧にして明確、恰も自分自身を、或いは自分たちの住む惑星自体を応援するような、渾身のメッセージであったのだ。
宮沢昭伸が、沢田謙太郎が叫んだ。
「塗李!」
沢井美加が、熊川武実が叫んだ。
「頼んだわよ!」
宇賀神の妹が叫んだ。
「世界を救ってお兄ちゃん!」
前キャプテンの千葉が叫んだ。
「職場の先輩に自慢させてくれ!」
改造ピッチャー1号と2号、そしてV3が叫んだ。
「お前たちならできるぞなもし!」
セメ・D・アイン博士が叫んだ。
「鷹臣! 虎次! 二人の力を合わせるんだ!」
田辺聡が叫んだ。
「兵頭君!」
プリンセス昌美が叫んだ。
「あたし、待ってる!」
ピースとジェニーとキャロラインとピーターが叫んだ。
「クルックー!」
杉下兄弟が叫んだ。
「おお我らが、塗李高校!」
大宮可奈子が叫んだ。
「あたしの王子様!」
翔平の兄が叫んだ。
「俺のローションどこやった!」
草刈和正が店の前で叫んだ。
「九十分!」
ツカサが叫んだ。
「伊達男! 真の力を証明するのよ!」
アフリカ大陸では、彼らにマッサージ用ローションを贈与された野球少年たちが、塗李の魂を後押しした。
「アサンテ!」
そして播磨灘ベンチで、例の老人が絶叫する。
「ゆけ! 兵頭! どんとゆけ!」
それがきっかけだったかどうか、兵頭鷹虎が動きだした。それはソルジャーヘッドの意思とは別の、彼自身の決断による始動だった。男の第六感が、この球を逃すなと全神経に命じている。軋む全身の関節を目一杯に解放し、彼はその凄まじいスイングを白球へと合わせていった。エンペラースパイクが大地を掴む。大地のエネルギーが彼の脚を伝い、腰、胴、胸を経て、その肩から腕、指先、そして最後にはパーフェクト・タイガーホークへと届けられる。そしてその芯が桜田の投球を完全に捉えた時だった。アトミックニードルが、発射された!
それは一見人道を外れた、残酷の所業のようにも思われた。しかしその正体は、鬼手仏心の一撃! そのことに疑いをもつ者など、この時には誰もいなかった。その小さな核の針は、圧縮から解き放たれると、白球を破壊することなく上方へと運動を始める。それはまるで数学の世界にしか許されないような、紛れもない直線という名の奇跡だった。逆行する流れ星、一陣の風を立てる。巻き起こった土煙の中で、意識を失いかけながらも、兵頭はその打球をなんとなく見つめていた。母さん、あなたのおかげで僕は、こうして野球をしているよ、だけどやっぱり、わいはついとらんかったのかもしれんわ。
その打球が遥か上空の無人シャトルにまで届いたのは、打撃から僅か、二秒後のことだった。それは兵頭の思惑通り、シャトルの下部中心に命中した。その二つが激突した瞬間、アトミックニードルは無慈悲にも白球を貫くと、その尖端を毒針のように唸らせ、遂にシャトルに直撃した。しかし、マーズメタルとマーズメタルの物理的衝突は、質量を大とするシャトルの方に軍配があがった。燃料を消費し尽くしたアトミックニードルは、甲子園の上空にて、粉々に砕け散った。
兵頭の希望は、この時点で第二希望にまで落ち込んだ。その第一はやはり、圧倒的なアトミックニードルの衝撃により、シャトルを大気圏外にまで吹き飛ばすことだった。しかしその夢叶わず、あとはなるべく地球の大地から離れた位置で爆発を起こさせることにより、その被害を最小限に抑えるという第二のそれとなった。逆に、その高い位置で放たれた放射線の方が、より広域に撒かれるという懸念も残されていた。
しかし、シャトルは右に左に傾きながら、再び落下を始めた。それは絶望その物の接近という以外に、表現のしようのないものだった。そしてシャトルが肉眼でもその大きさを確認できる所までくると、人々はその球状のボディーが、ゆっくりと二つに分かれる瞬間を目撃した。ほとんどの者が、それから目を逸らした。最期とはどういうものか、人間に見る勇気などなかったのだ!
しかし、そのぱっくりと開かれたシャトルの裂け目から、目を逸らさなかった人間が二人だけいた。桜田翔平と、兵頭鷹虎だった。一人はピッチャーズマウンドで、一人はバッタースボックスでそれを見た。二人は同時に、その現象を誤認した。裂け目から、白い大蛇が出たと思ったのだ。たしかにそれは、巨大なる純白の爬虫類に見えた。大地を貫くために発射された、悪神の使者を錯覚させる異様だった。
残された体力を完全に失った翔平は、真実を見る前に正面に突っ伏した。そしてもう一人の目撃者は、意識を失う寸前で、その真実を見てとった。もしその時、彼の表情を見た者がいたならば、それを微笑と受け取ったかもしれない。そしてそれは間違いではなかった。たしかに兵頭は笑っていた。呆れる思いで、その時の彼は笑ったのだ。
その白蛇は紛れもない、兵頭虎太郎からの『祝福』だった。白い垂れ幕のような物で、老人独特の堂々とした運筆が、その中央に大きな文字を踊らせているだけの物だった。それには、
『たかとら優勝おめでとう』
とだけが、書かれていた。




