第52話
兵頭コーポレーション 兵頭鷹虎第一秘書 木村英次
「プラネットエクスプロージョンが投下されたのだ!」
残った観客は千人余り。球場は大会史上かつてない静寂を迎えており、吹奏楽部も楽器を下ろして戦況の行方に注目している。その独特の雰囲気の中で、桜田翔平は遂に振りかぶると、まるで運命その物を投じるかのように、その手からぬるぬるの白球を放った。それは緩やかに回転し、堀のミットに向かっていったが、その軌跡は外角に外れ、アンパイアはそれをボールと宣告した。千人の観客が同時に洩らしたため息は、まるで巨大な草食恐竜の脅えのようだった。甲子園の浜風に流されるまで、その奇妙な空間の震えはビブラートのように反響を続けた。
その時、木村が目を覚ました。こめかみを押さえて、呻きながら上体を起こした。そして彼は記憶を辿ると、すぐに置かれている状況を想像した。辺りを見回すとそこはベンチ裏で、3Dモニターを見つめるチーフ研究員の姿しか見あたらない。
研究員はすぐに気づいた。「だ、大丈夫ですか?」と木村に声をかけた。その様子から木村は、研究員は事の次第を把握していない、と判断した。続いて、モニターに目を向けて、試合が何事もなかったように続いていることを確認すると、状況をもっと詳細に把握しなければ、と彼は考えた。
「私をここに運んできたのは誰だ?」
「西東工の宮内君と、誰か知らない老人です」
「そいつらはどこにいる?」
「我々播磨灘のベンチから、試合の続きを観ているようです」
「たかと、いや、御曹司は、タイガーホークを持っていったのか?」
「はい、いつも通り持っていかれました」
木村はその優秀な頭脳を、ぐるぐると回転させた。
(鷹虎はアトミックニードルを秘めたタイガーホークを持っている。ならば彼の総帥殺害計画、並びに私の関白成上り計画は続行中ということであり、私の運もぎりぎりのところで踏ん張っていたというわけか。整理しろ、邪魔な奴は誰だ? あの老人となぜか宮内、そして宇賀神と例の女か。ああそうだ、袴田とその部下の始末もまだだったではないか)
間に合うか、と彼が次の計算に移った時だった。研究員が言った。
「おぼっちゃまの指示で調べたのですが、当社の運営する衛星『祝福』から、直径八メートルの球状の物体がここ甲子園球場に投下されています。おぼっちゃまのご様子では、それが何か重大な物のようでございまして……木村様は何かご存」
「なん、だと?」
木村に戦慄が走った。それはその他の思考を一度に停止させる、信じたくない疑惑だった。彼は研究員を退かしてHeadMobileを操作すると、すぐに監視画面を呼び出して総帥の様子を確認した。するとそこには不自然に首を垂らし、ぴくりとも動かぬ老人がいるではないか。死んでいる? まさかあの怪人が死んだだと? ならばここに向かっている球状の物体とはほぼ間違いなく……いいやそんなはずはない、いくらあの男と言えど、国連に隠れてあんな物をつくることは不可能だったはずだ……しかし奴ならもしや……。
ベンチ裏を気にかけていた宮内も、木村の回復に気づいた。その頃、桜田翔平の第二球が、再びボールの宣告を受けた。
「おいおい頼むぜ桜田さんよ……」
ここへきて制球の定まらなくなった翔平に対し、焦れったい思いで兵頭が呟いた。タイガーホークはプラグインソフトウェアによって『パトリオットモード』になっている。動く標的に向かってボールを跳ね返す、タイガーホークの可能性を追及した実験的新モードだ。問題はタイガーホークが、あくまでもボールを跳ね返すための道具だということであり、しかもそのボールは、ストライクゾーンを通過した物でなければならないということだった。たとえその投球がストライクだったとしてもだ。兵頭はベストの球筋をシビアに取捨選択しなければならない。彼はタイガーホークを、ほとんどマニュアル操作に切り替えていた。
播磨灘のベンチ裏では、宮内による木村の尋問が始まっていた。しかし木村は、宮内にとって、荒唐無稽の与太話としか思えないようなことしか言わなかった。それでも見たところ、法螺を吹いているようにも思えず、そのことは宮内をただただ困惑させた。すると木村が、不意に口角を上げて叫びだしたので、宮内はそれですっかり驚いてしまった。
「全ては終わりだ! 俺もお前も、地球の裏側に咲く草花たちも、小さな虫も細菌も、この世界の生きとし生ける物は向こう百年、立ち上がることすら許されないだろう! 諦めろ! プラネットエクスプロージョンが投下されたのだ!」
気が触れたように笑い転げる木村に、宮内は目を見張り、そして戸惑い、答えを求めるように研究員に顔を向けた。すると研究員は、このことを言っておられるのだと思う、と言って、自信なさげに端末装置の画面を指差した。
「兵頭コーポレーションの所有する人工天体から、この試合の最中に謎の球体がここ甲子園球場に投下されました。おぼっちゃまもこのことを理解しておられ、そのお顔を蒼白になさっていらっしゃいました。木村様が言うことには、これは虎太郎様が予てから製作を望まれていた、『惑星自爆装置』ということです。たしかに噂だけなら、私も聞いたことがあるのですが……」
レーダー上に点滅する小さな点を見せられても、宮内には簡単に合点のいくことではなかった。しかし、木村の様子を見ていると、それも信じずにはいられなくなる。すると例の老人がベンチから戻ってきて、
「今、コンタクト望遠レンズで見てみたが、たしかにまだ遥か上空ではあるが、何か丸い鉄球のような物が落下してきているようだ。こやつの言っていることは本当かもしれんぞ」
と言ったので、宮内は、ここで初めて、その人間の部分に感じたことのない恐怖を走らせた。
(俺が感じていた邪悪の正体とは、この木村という男のことなどではなかったのか……)
彼は急に駆けだすと、ベンチ裏を飛び出した。どこへいく! と老人が声をかけたが、彼は振り返らなかった。
三球目もボールとなり、カウントはノースリーとなった。しかし兵頭はぴくりとも動かず、いつもとは違う変則的なバッティングスタイルを維持している。それは極端なアッパースイングを予想させ、観客たちにずっと違和感を抱かせていた。
アナウンス室からウグイス嬢が飛び出した。少女は逃げる子鹿ようにその場から離れていった。場内にアナウンスが流れたのはそれからすぐだ。それは男の声で、それが宮内のものだと気づいた者は藤岡と佐々木の二人だけだった。皆がその声に耳を傾ける。その内容は、次のようなものだった。
『上空から凶悪な爆弾が近づいている! 観客席のみんなは速やかに場外に避難するんだ! そして塗李高校と播磨灘高校は直ちに試合を中断すること! 早く退場して、少しでもこの球場から離れなくてはならない!』
それを聞いた観客たちのほとんどが、何を言っているんだ? と首を傾げた。いくらこの試合がおかしいからといって、さすがに爆弾と言われてもぴんとこなかった。しかし一人の青年が上空を指差して、「あれのことか?」と声を上げると、彼らは次々と空を仰ぎ見て、数秒後にはほぼ全員が、その小さな黒い点を目撃した。じりじりと後退り、遂には振り返って駆けだした男が一人。それが引金となった。この期に及んで残っていた観客たちではあったが、そのほとんどが、逃げるように退場口へと走りだした。
「馬鹿な! 逃げてどうなる? どこへいっても終わりだ!」
そう叫ぶ木村を見て、播磨灘の部員たちも決断した。彼らは荷物もそのままに、球場の外へと向かって走りだした。監督の米田はさすがに躊躇ったが、彼の小心は既に限界だった。彼も試合を投げ出して、全てを放棄して退場を目指した。
「それで兵頭は、あんな構えをみせていたのか」
播磨灘のベンチに独り残ったのは、宇賀神を助けた例の老人だった。彼は兵頭の思惑を一人理解すると、悲しみの胸中をその目尻に滲ませた。奴は桜田の投球をあの超絶打法で打ち返し、その爆弾とやらを地球外に跳ね返そうとしている……なんという健気な! 木村の言うようにその爆弾とやらが全てを破壊する物ならば、奴の今の姿勢はあまりにも、あまりにも子供染みているではないか……!
翔平の第四球目がストライクゾーンを通過した。しかしそれは兵頭の待っていたボールではなかったらしく、カウントはワンスリーとなった。宮内のアナウンスが続く。
『聞こえていないのか? 塗李高校! そして兵頭! 早く試合を中断するんだ!』
しかしその声は、彼らには届いていなかった。塗李のオリジナルテンは、優勝しか考えていなかった。兵頭に至っては、その思考はもっと単純だった。彼はその存在全てを、たった一度のスイングに懸けていた。
観客席でこの状況を見守る者は、二十人ほどになっていた。彼らはどういった理由でその場に残ることを選んだのだろうか。全てを理解して、兵頭や塗李に解決を期待していたか。それともそこに、本当の勝負、あまりにも無垢なスポーツマンシップを見てとったのか。彼らは微動だにせずにその光景を見守っていた。自分たちの望んでいるものが試合の決着なのか、はたまた人類の勝利といった大袈裟なものなのか、もはや彼ら自身、わからなくなっていた。
観客の減少と反比例するように、なんとか続けられていた中継をテレビ視聴する者が増えていた。球場を囲んでいた四十万人も、この時には既に跡形もなくその姿を消していたが、彼らの、或いは退場者たちの、様々な手段を使った発信などによって、この試合の噂は国内に留まらず、瞬く間に全世界へと広まっていったのである。概算すれば、世界人口のうち十分の一、即ち十億人あまりが、この時、この試合を、なんらかの手段でもって見守っていたことになる。
そして彼らは例によって、集合することにより豊かな知恵と想像力を結実させ、僅かな情報から彼らなりの真実を紡ぎ出した。中には、仕事を放り出してまで試合を見守る者もいた。何しろ彼らの出した答えでは、この試合には人類の未来が懸かっていたのだからそれも無理はなかった。
甲子園球場から最も近くにあるパトリオットミサイルは、和歌山県に駐屯する陸軍の所有物だった。試合の噂は四方から集まり、彼ら上層部は、ミサイル発射を政府に申請するかの会議を始めた。しかし、お役所仕事はここでも発揮され、その申請は何人かの責任者を通過したところで止まった。それは政府の方でも同じだった。兵頭虎太郎に背くことを恐れたのもあってか、陸軍に最終命令を下すことに、彼らは予定通り躊躇したのだ。それは皮肉にも、シャトルを発射させた兵頭虎太郎の決断力と比べて、あまりにも対照的な鈍さを示していた。
桜田の五球目がストライクゾーンを通過した。塁審らが逃げるように退場する中、なんとか踏ん張って残っていた球審は、震える声でその投球をストライクとコールした。カウントは遂に、フルカウントとなった。
「いいぞ桜田。少しずつ理想のボールに近づいてきている。やはりお前は、この俺の最大のライバル、世界最高のピッチャーだった」
そんな兵頭のすぐ後ろで、堀は、既に翔平の背負うタンクにほとんどローションが残されていないことを悟っていた。今受けたボールは、ほとんどぬるぬるしていなかった。ここへきて、彼らをここまで導いてきたローションベースボールは、その破壊力を完全に失ってしまっていたのだ。しかしそれでも、彼は落胆しなかった。それはマスク越しに見える彼の仲間たち、そして対戦者である兵頭鷹虎が、彼を夢幻の如し陶酔の世界へと誘っていたからに他ならなかった。彼はボールを投げ返した。桜田翔平がそれを受け取った。




