表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/55

第51話

  私立播磨灘高等学校三年 野球部主将 兵頭鷹虎


  「さようならだ」

 兵頭虎太郎が死んだのは、彼が息子の裏切りを知った、僅か数分後のことだった。急激に上昇した経験のない胸の苦しみ(それは単に寂しさだった)に、彼の心臓は耐えることができなかった。一分と経たぬうちに、年相応にまで老け込んでしまった彼は、この夏のさなかその肌をミイラのように固くさせた。それでも彼は、その時になってもまだ、自分の感情に説明をつけることができなかった。それを表す言葉をもたぬままに、男はその生涯を閉じたのだ。

 その遺骸に、影をつくり出す力はあったか。甲子園球場に暗雲が垂れ籠めたのは、不祥の表れとしか言いようがなかった。それはこの試合のただならぬ真実を、天が人々に教えているかのようでもあり、それが集団心理にどの程度の影響を及ぼしたかは不明だが、観客たちが通常ではあり得ぬ流れを見せ始めたのはそのタイミングだった。あとは九回の裏のみ、という土壇場にも拘らず、試合の行方にまるで未練を残さずに、彼らは雪崩のように球場をあとにし始めたのだ。

 二番の本山に続き、三番の山野も凡退に倒れた頃だった。暗雲は嵐の予兆となり、甲子園球場に暴風が吹き荒び始めた。そして、神の怒りに触れた者への裁きのような、非情なる迫力を帯びた轟音が連続すると、大会主催者は一時的に、その試合を中断させた。我先にと背中を押されるように球場をあとにし始める観客たち。燻り続けていた疑念が、彼らの中で確信に変わっていた。天空に聳える稲妻、夏を切り裂く雷鳴。雲間から抜けた真白な稲光りが、いくつもの避雷針に立て続けに直撃すると、彼らはとり憑かれたようにその足を急がせた。この試合は狂っている! 決定的な異物が紛れ込んでいる! 一部の、パニックに陥った退場者により、ほとんどの出入口で将棋倒しが起こった。それらの事故は人々の不安に拍車をかけ、彼らはほとんど塊となって、堰を切ったように場外へと流れ出た。その勢いは留まることを知らず、たった十数分のうちに、甲子園球場は空っぽに近い状態となってしまった。

「これで、いいの?」

 そう問いかけたのはツカサだった。彼女は兵頭のことを、恋人と認識していた。

「ありがとうツカサ。恩に着るよ」

「先日も似たような命令があったけど、あれもあなただったの?」

「あれは違うよ」

「そうよね、あなたなら直接言ってくれるだろうし。でも今日はなんなの? 試合観てたけど、次で同点にできるじゃない」

「まあね。でも今日は、特別な日なんだよ。俺の野球人生、最後の試合なんだ。鷹虎が最後を決めるには、暗雲立ち籠める野球の聖地に轟く雷光と吹き荒れる嵐、ってな背景が、似合うだろうと思ってさ」

「相変わらずキザな男ね。でも試合、中断しちゃったじゃない」

「ああそうだな、それじゃあそろそろ、回復させてもらおうか。俺が打席に向かう頃、もし雲間から陽が射したとしたら、それはこの鷹虎に相応しい、なかなかの場面になるとは思わないか?」

「フフ。本当にキザ。でもそれでこそあなた、って感じ。それじゃあいってらっしゃい。お客さんはいなくなっちゃったけれど、応援してるんだから」

「ありがとう。それじゃあ、またな」

 通信はそこで切れた。兵頭はそれを確認してから、さようならだ、と言い直した。

(まさかこの俺が観客を救おうとツカサに頭を下げるとはな。まあ、爆弾の規模によってはそれも無意味ではあるが……それにしても、野球人生どころじゃない、人生最後の日になるやもしれぬ。謎の球体はもうすぐそこだ。さて、偽りのZXの破壊力に、最後の希望を託すとしようか)

 兵頭鷹虎はエンペラーリストバンドを外すと、無造作にそれを投げ捨てた。するとそれは、ずしんと音を立ててコンクリートの地面にひびをつくった。そして彼は、その手中にパーフェクト・タイガーホークを収めると、

「『祝福』とはまた、皮肉なもんだぜ」

 と独り言ち、漆黒のグリップを慣れた手つきで操作した。その白金のバットには、アトミックニードルが装填されている。


 嵐のような天候の中、なぜか不思議と雨は降らなかった。それが大会主催者に、試合の中止を踏み止まらせた。すると雷が止み、風が止まった。主催者はそれを見て、試合の再開を決断した。

 千人ほどにまで激減したがらんどうの観客席は、依然として少年たちの戦いのステージを囲んでいる。その中心にある、栄光のピッチャーズマウンドに、ベンチに避難していた少年が一人、ゆっくりと歩み寄っていく。少年は名を、桜田翔平といった。彼はその背中に、平たく白いタンクを背負っていた。彼はそのタンクに残るローションという名の液体を、大切に大切に使わねばならなかった。残りは僅か五球、いや三球分かもしれない。彼はそれであと一人を、あと一つのアウトを取らなければならなかった。

 それに少し遅れた形で、懊悩のバッターボックスに向かったのは、足を引き摺る手負いの少年(実年齢は三十三歳)、兵頭鷹虎だった。その彼が、打席に足を踏み入れた、まさにその時である。雲間から一筋の、太陽光が射し込んだ。それは天がこの男を、この世界の救世主と選んだかのような、自然現象の一言では説明のつけられない、劇的な時宜を得た夢のような照射だった。それを静かに反射した、少年の握るメタルバットは、内包する悪魔とはまるで裏腹の、瑞光の輝きで満ち溢れていた。

 マスク越しに兵頭を見て、堀啓介は漠然とだが、この勝負はただじゃあ済まない、とすぐに事態を把握した。敬遠を決め込んでいた彼がそのように考えたのは、兵頭が発している凄まじいまでの霊妙な気配に、その矜恃を揺さぶられたのが主な原因と思われた。そしてそのことに、抵抗を示す気が更々ない自分に、彼は恍惚をさえ覚え、心から納得している。なんの躊躇もなく、一本指を出した。それは普段と変わることのない、いつも通りのサインだった。

 それを見た翔平は、初めてサインに首を振った。それは彼が、首を振るのがかっこいいと思っていたからでは決してなく、彼としてもこの打席は、敬遠しかあり得なかったからだった。しかし堀はサインを変えない。頑な一本指だ。彼はプレートから足を外し、タイムをとって皆を集めた。

「なんで敬遠じゃないんだ」

 全ての内野が集まってから、彼は堀に切り出した。「ここで兵頭に打たれたら、また振り出しじゃあないか」

 すると堀は何かを言おうとし、再び口を噤んだ。今の気持ちをどう説明したらよいのか、自分でもわかりかねていたのだった。

「言ってみろよ」翔平が言った。北田や結城も返答を待っていた。すると堀は、消え入るような声で、ぼそりと小さく呟いた。

「勝負しなくちゃ、日本一じゃない」

 虚を衝かれたような顔で、高原が声を上げる。

「おいおい、何を言いだすんだ」

 結城も慌てたように、言う。

「敬遠は立派な作戦だぞ? 何もかっこ悪いことじゃない」

 北田も続いた。

「ここで同点にされたら、またあの不気味な穴とご対面することになるんだぞ」

「あの穴はもう出ないと思うって、宇賀神が言っていたじゃないか」

 堀の言葉に、北田はすかさず反論した。

「しかし、ローションが無くなりかけているのはお前も知っているだろう。あと一人か二人が限度なんだぞ」

「延長になったら、以前のローションを使えばいい。兵頭以外にはそれで充分なんだから」

「だからって、ここで敬遠した方がいいに決まってんだろが!」

 苛々して北田が詰め寄った。その時、木戸が声を発した。

「堀先輩の仰ることは、わかるような気がします」

 皆が木戸を見る。木戸はマウンドの先、兵頭鷹虎を見ていた。

 高原が感じたことは、兵頭の覚悟だった。自分以外の者のために己の身を投げ出すような、戦いに赴く前の聖人のそれだった。北田が兵頭に感じたのは、業火に身を委ねようとする罪人の償いだった。結城が感じたのは、勝敗を度外視した、男の意地だった。

「なるほど……」

 最後に、翔平が呟いた。それは言葉にしようのない、魂の交換のようなものだったかもしれない。しかし彼はキャプテンとして、後方を振り返る。喜与川や猿渡、島袋といった、外野陣の気持ちを無視することはできないからだ。すると遠く芝生の上で、彼らはフェンスに張り付いていた。それを見た北田が、その場に不釣合な奇妙な笑い声を立てた。

「バカヤロウが。どんなに深く守っても、兵頭には意味ないぜ……」

 すると翔平、ベンチを振り返って、最後の確認をした。

「宇賀神もいいって言ってるみたいだ」

 堀が、すまん、と小さく零した。今度は高原だった。彼はけたたましく笑うと、強がった子供の顔を、わざとらしくつくってみせた。

「俺たちはとうの昔に本寸法から外れたんだ。暴走してこそ若人の証明、後悔してこそ青春だ。あとでゆっくり、反省しよう」

 皆は静かに頷くと、それぞれの守備位置に戻っていった。翔平はそんな彼らを見て、改めてチームを誇りに思った。そして彼はマウンドに独り、不退転の決意に血を滾らせる。細胞という細胞に、紅い情熱を送り込んだ。

「最後まで、付き合うぜ?」

 そう呟いて、兵頭鷹虎に対峙した。


 想像を越える成長力。試練を乗り越える度に新しい逞しさを見せる塗李の生徒たちを見て、熊川は思わず、感心するように言った。

「最近の高校生は、私たちが思っている以上に、大人なのね」

 すると沢井がその隣りで、目を丸くして同意した。

「ほ、本当だ……兵頭くんの乳首、試合前より黒くなっている……」

 コントロールニードルの出力値が、四〇〇〇〇を超えていた。その緊張からか、兵頭は毛穴という毛穴から汗という汗を噴出させていた。しかし、それとは裏腹のぞくぞくするような興奮が、彼の身体をもう一度ひんやりとしたものに変える。その繰り返しが、彼の乳首を大人びた色に変化させていたのかもしれなかった。

(木村の奴、とんでもない物を仕込んでくれたもんだぜ。それにしてもああ俺は、結局はただの高校球児だった。もはや邪念はない。俺の人生の目的は、投じられたあの夢の白球を、全力で跳ね返すだけだったのだ)

 捕手の堀が定位置で座ったのに気づいた。しかしそれは、彼にとっては驚くべきことではなかった。塗李高校は彼の中で、この瞬間よりずっと以前から、尊敬するべき好敵手へと昇華している。そんな彼らが間違いを犯すはずもなく、この勝負はもしかしたら、誕生以前から約束されていたものではなかったかとすら、今の彼は感じていた。

 前を向いたまま、礼を言った。

「それでこそ俺の、兵頭鷹虎の最高のライバルだ」

 堀は一瞬きょとんとしたが、意図を理解するとすぐにこれに返した。

「負けないよ」

 プリンス・オブ・ハリマナダとプリンス・オブ・ヌルリの、四度目の衝突。その対決のまさに真上で、球状の無人シャトルが静かに、それは静かに接近している。シャトルの甲子園到着予定時間まで、残り五分を切っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ